第18話 試斬
文字数 5,226文字
白い上衣に紺の袴を身に着けている。
髪は結い上げて、腰には刀と脇差を帯びる。その姿は、まるで武家の娘のようだった。
もっとも、澄香の場合、江戸期は士族の出身である。
現代では、その身分は死語となっているが、その身に流れる血と精神は命を賭して戦うことを義務付けされた武士そのものであった。
父の影響で、剣術を始めた。
それから10年以上の月日が流れても、彼女は剣術から離れられずにいた。今や、生活の一部となっていたのだ。
すでに、日課となっている素振り1000本を終えていた。
竹刀や木刀などではなく、真剣を使った実戦を想定したものだ。
正しい構え、正しい振りには「理」が宿る。
要らぬ力が入ってる所は痛くなり、斬撃に不必要な握りをしていれば皮も剥ける。そうして余計な力が無くなって、一番理に適った自然と綺麗な剣筋になるのだ。
腰を座らせ、力を抜いて柔らかく素早く振っていく。
力を入れない。刀はできるだけ柔らかく握る。背筋で刀を振り上げ、胸筋を落とすことで剣を振り下ろす。
その動作を繰り返す。
全身の筋肉を使って、ただ一点に力を込めて振るのとは訳が違う。無駄な動きを削っていき、最後に残ってた力のすべてを、その一撃に込めていく。
その繰り返しこそが、剣の極意であり、それ故に剣を極めることが難しいのだ。
しかし、それを成し遂げなければ、剣の道は進まない。
毎日の鍛錬が大切なのだ。
汗を掻いた身体を清める為、井戸水で行水を済ませる。
タオルで全身の水滴を拭き取ったところで、彼女は一息つく。上衣の乱れを直す。
澄香は、再び庭へと視線を向けた。
そこには、試斬台が3つ並んでいた。
9cm×9cmの角材を十字にした支えにし、高さ60cmの試斬台。
そして、その上には、畳表の束が置かれていた。
畳表の芯には青竹を入れた、竹入り畳表だ。
青竹は背骨と同様の強度を持ち、これを畳表で巻き、これを一昼夜、あるいは数日水に漬ける。
水から出し2、3時間後に、畳表は人体の肉に酷似した感触となる。
なお、畳表一畳分を巻いた物が、人間の胴一人分相当。半畳分を巻いた物が、腕か脚一本分に相当する。
澄香が用いたのは、畳表一畳分だ。
時間は素振りと行水の時間を考えて、2時間放置した状態だ。
それが3本、試斬台に立っていた。
澄香は、中央の試斬台の前に立つ。
鯉口を切って刀を抜くと、右八相の構えを取る。
これが澄香の基本の構えだ。
澄香の祖先は、武士として戦場を駆け抜けてきた。彼女にとって、最も得意とするのが、この構えであった。
真剣を用いた一対多数、乱戦、野外や町など障害物の多い場所での戦闘においては、戦闘が何時終わるのかも予測できないため余計な体力を使うことは出来ないが、不意に敵と遭遇することもあるため納刀したまま動き回るのは危険である。
また、乱戦においては仲間の位置との兼ね合いで他の構えを取るスペースが無い場合もある。
八相は、やや動きが制限されるものの、実戦での問題の多くを解決する構えだ。
また甲冑を着用していると心臓や喉元が腕の装甲で隠れるため防御面でも有利となる。
澄香は正面に立つ畳表を睨み付ける。
そして、呼吸を整える。
ゆっくりと静かに深く吸い込み、止める。
静寂の中、己の心音だけが聞こえる。
一瞬の後、澄香の身体から闘気が溢れ出る。
それは、澄香自身が発する殺気でもあった。
殺気は、相手の隙を見抜き、相手を殺すための技を引き出す。
殺気を纏う澄香は、鬼神だった。
澄香が相対しているのは、畳表ではない。そこに《なにがし》の隼人の姿を見ていた。
澄香の刀が、鋭く振り下ろされる。
刃筋正しく振れている者は、空気を切る音がするが、刃筋が立っていないと重い風音がする。
澄香は、笛の音のような音を短く響かせた。
人に見立てた畳表。
左肩から袈裟に斬る、左袈裟斬りが決まる。
剣が閃光になって駆ける。
澄香の刀は、畳表を両断していた。
すかさず、返す刃で右逆袈裟を放って二撃目を入れる。
倒れゆく畳表に、左薙ぎの一閃が加わる。
三連撃。
青竹入の畳表が瞬時にバラバラとなる。
試斬は決して簡単なものではない。
振るときに迷いや不安があるとほとんどの場合、途中で刃が止まってしまい、最後まで振り抜くことは
かと言って力任せでも斬ることはできない。静かに気合を込め精神統一をして臨むのだ。
澄香の太刀筋は正確無比だった。
まるで、定規で線を引くように正確に、寸分の狂いもなく斬撃を放っていく。その太刀捌きは、まるで舞っているかのようだった。
右にある畳表に視線を向ける。澄香は刀を左八相に構える。
刀を寝かせ、右薙ぎを放った。
次の瞬間、切断され宙を舞っている畳表を逆袈裟に斬り上げ、両断する。
そこから切り返し、試斬台に残っている畳表を右袈裟に振り下ろす。
これも三連撃を入れた。
それから澄香は左端にある畳表に対し、走り寄る。
間合いに入ったところで刀を振り上げる。
左脚を支えに、走りにブレーキをかけると、そのまま上段からの唐竹割りを繰り出す。
澄香の刀は、畳表を上から半分まで一直線に切り裂いていた。
最後の1本を斬った直後、澄香は動きを止める。
息を整えながら、一歩下がって血振りを行い残心を決める。
刃を拭い、ゆっくりと鞘に納める。
澄香の眼差しには、いつの間にか穏やかな光が戻っていた。
彼女は、試斬台に歩み寄り、その残骸を確認する。
そこには、綺麗に切断された畳表があった。
彼女は、その断面を指でなぞり、その出来映えに満足すると、小さく微笑んだ。
ふと、澄香は足音に気づく。
振り返ると、そこには金髪の少女がいた。
2サイズ大きめのパーカーを羽織って、ショートパンツを穿いている。
細身でありながら豊満な胸を持ち、腰はくびれ、お尻は丸みを帯びている。西洋人形を思わせるような可憐さと、妖艶さを併せ持つ少女だ。
名前を、
「素敵。今日も、凄く格好良かったよ」
夏菜子は拍手を送る。
だが、澄香は讃辞の言葉に耳を傾けず、夏菜子との距離を詰める。
夏菜子は澄香にとって、マネージャー的な役割を担っていた。依頼人との仲介やスケジュール管理などをこなす他、澄香のサポートの役割をになっていた。
先日の鷹村館からの依頼を仲介したのも夏菜子であり、世戸大輔を誘き出す役割を澄香に提案したのも彼女だ。
友達という程、親しい訳では無い。
二人はあくまでも仕事を通したフランクな関係を築いていた。
「夏菜子。頼みがあるの」
澄香は真剣な表情でそう言った。
それを見た夏菜子の顔にも緊張が走る。
「良いわよ。料金は、内容次第ってことで」
澄香は言葉を続ける。
それは、彼女が初めて見せる、弱気な態度だった。
「一人の男を斬りたいの」
澄香の真剣な口調に対し、夏菜子は軽く訊く。
「ふーん。どんな奴?」
訊き返され、澄香は一枚の写真を取り出す。隼人を撮った写真だ。夏菜子は写真を受け取って、感想を口にする。
「ガキじゃん。これがどうかしたの? あんたなら、もっと上等なのを用意できるんじゃないの?」
夏菜子の疑問は尤もだった。澄香は、これまでに何人もの人間を斬り殺している。
剣士であると同時に、殺し屋でもあったのだ。
しかし、澄香は首を横に振る。
そして、口を開く。
その声色はいつもよりも少しだけ低かった。
まるで、別人のような印象を受けるほどに。
澄香は言う。
「依頼じゃないの。私怨よ。私は、どうしてもこいつを斬りたい。斬らなきゃならないの」
それは、澄香が見せた初めての我欲だった。
澄香の瞳は、真っ直ぐに隼人を思い浮かべ、積年をつのらせていた。
澄香の話を聞いた後、夏菜子は暫く黙考する。
「どんな奴か知らないけど。ガキなら、学校に行ってるんじゃないの。放課後にでも待ち伏せして、そこをバッサリ斬っちゃえば?」
やがて、顔を上げると澄香に短絡的な回答を出す。その口調は普段の明るい調子で、軽いノリであった。
「それができれば、相談なんかしないわ」
澄香は静かに否定する。
「一度は、私は挑んだの。けど、奴は私との勝負を受けなかったの。あまつさえ、女は斬らないなどと抜かして、刀まで捨ててしまったのよ。信じられる?」
淡々と語る澄香の様子に、夏菜子は困惑する。
(ムカついてるわね)
夏菜子は思う。
澄香は冷静沈着である。感情に任せて行動を起こすことはほとんどない。
だが、稀に怒りを露にする時もある。
今の澄香は、明らかに苛立っていた。
「相手も剣士ってこと。女は斬らないって何? 漫画とかであるような良い格好しいのフェミニストってやつ? そんな甘い考え持ってたら、いつか痛い目に遭うと思うんだけど」
夏菜子は、澄香の怒りの原因を探るべく探りを入れる。
澄香の答えはシンプルだった。
「知ないわ。奴の主義など私には関係ない」
「そんな自分から武器を捨てるような奴。簡単じゃん。そこをぶった斬って、はい終了。てね」
夏菜子は挑発するように言う。
澄香は、彼女の言葉にピクリと反応を示す。
「私に、刀を持たない相手を斬れというの」
「今までに斬った奴には、そんな奴、何人も居たじゃない」
夏菜子が指摘すると、澄香は言葉を詰まらせる。
確かに、澄香はこれまでにも多くの人間を斬り殺してきた。
窃盗、詐欺、殺人、強盗、強姦、誘拐、暴行、傷害、放火、その他諸々の犯罪を犯した者ばかりだ。
いずれも法の裁きを待てない、あるいは法の抜け道を平然と犯す者達ばかりだった。
だから、澄香は罪悪感を覚えることなく人を斬り殺すことができた。
だが、今回の件は違う。
剣士として勝ちたい。
ただそれだけのことだ。
その為には、刀を手にした隼人と闘わなければならない。
澄香は、夏菜子に言う。
その声色は、やはり少しだけ低い。
まるで、別人のような印象を受けるほどに。
澄香は言う。
「私は奴に剣士として、闘いたいの。正々堂々、真っ向からぶつかり合って、斬り伏せたい」
夏菜子は呆れたように溜め息を吐く。
「斬ろうと思えば簡単に斬れるのに、武士の血筋てのは律儀なもんよね。あんたってさぁ」
夏菜子は澄香の剣の腕を知っている。それは、彼女が最も信頼を置く存在であり、彼女が最も尊敬する人物でもあるからだ。
だからこそ、夏菜子は理解できない。
澄香が何故、そこまで隼人に対して執着するのか。
澄香は、夏菜子の言葉を否定する。
その表情は、いつもの澄ました無愛想なものだった。
「夏菜子。名乗りって知ってる?」
突然の質問に、夏菜子は戸惑う。
【名乗り】
戦において武士が味方や敵に向かって自分の姓名・身分・家系などの素性、戦功、戦における自分の主張や正当性などを大声で告げること。
武士の作法として、名乗りが行われている間に攻撃することは良しとされなかった。もしそれを行うと「卑怯者」とされた。
戦場では自分の勇名や戦功を喧伝するためなどに行われ、味方の士気を上げるためや相手方の士気を挫いたり挑発するためにも行なわれた。
「ああ。戦隊ヒーローや、変身ヒーローが名乗るやつね。隙だらけなのに、子供心にどうして攻撃しないのかと思ってたけど、あれが日本の様式美ってやつなのね。納得したわ」
夏菜子の返答に、澄香は少し呆れる。
澄香が口にしたのは、侍の時代から連綿と続く伝統的な戦いの流儀だ。
人が人を殺す。
この残酷な行為に、日本人は名誉を持ち込んだ。
互いに殺し殺し合わわなければならない身だからこそ、誇りを持った殺し合いをしようとしたのだ。
「なるほど、名誉ね」
夏菜子は両手を頭の後ろに組んで、背伸びをする。
そして、澄香に視線を向ける。
夏菜子は思う。
(本当に、澄香は面倒臭い奴だわ。ま、気持ちは分かるんだけどね)
そこまで訊けば、夏菜子も澄香がここまで拘る理由そのものは理解できなかったが、気持ちだけは理解できた。
「私は奴と立ち合って勝つ。そして、その首を花とする」
澄香は、静かに宣言する。
夏菜子は、それを黙って見つめていた。
やがて、夏菜子は口を開く。
「分かったわ。なら、こいつが勝負を避けられないようにすれば良いのよ。そうね……」
夏菜子は、澄香の頼みごとを聞いてやることにする。
澄香の望みは、剣士としての隼人との真剣勝負。
だから、夏菜子は考える。
「どうやって、あいつを決闘に引きずり出すかね」
夏菜子は呟く。
思いつく。
夏菜子は澄香に提案をした。
その言葉を聞いた夏菜子は、驚きに目を見開く。
「心当たりはあるわね……」
「なら。それを使うべきね」
夏菜子は、不敵に笑っていた。
(第19話 『果たし状』に続く)