第53話・最終話 世界の片隅で

文字数 8,538文字

 一面に広がる草原があった。
 空には金色の月が浮かぶ。
 今日は満月だ。月にある海がはっきりと見える。空気が澄んでいる証拠だ。明日は良い天気になるだろう。
 風はそよぐ程度に吹いている。草木は揺れ、月明かりに照らされる。
 この地の名を鈴豊馬場と呼ぶ。
 そこには、学生服の上に打裂羽織を着た一人の少年がいた。
 その顔つきは精練されており、凛とした表情をしている。
 黒髪に鋭い眼光。
 鍛え抜かれた肉体は、無駄な贅肉がない。
 腰に差している二振の刀。
 一振は脇差と呼ばれるもの。
 もう一振は、無鍔刀。少年が独自の理論で鍔を外した刀。
 どちらも、名工が作った業物だ。
 少年は、静かに佇む。
 月を眺める、その姿は、自然と一体化しているようにも見えた。
 しばらくすると、少年は目を閉じる。
 何かを聞いたのだ。
 草を踏み、誰かが近づいて来る。少年は、気配を感じ取ると目を開ける。
 そして、現れた人物を見て、嬉しそうに口元に笑みを浮かべた。
 視線を向けた、その向こうに一人の少女が居た。
 黒いセーラー服に真紅のスカーフ。
 足下はハイソックスにローファーを履いていた。
 長い黒髪を後ろで束ねポニーテールにしている。
 鳶色(とびいろ)の瞳に、肌は透き通るように白い。
 整った顔立ちをしており、美少女と呼ぶに相応しい容姿をしていた。
 スレンダーでありながら、女性らしい柔らかさを持っている。
 腰の角帯には、刀と脇差を差していた。
 少女は、少年を見て顔を綻ばせる。
 そして、お互いの顔を見ると、どちらからともなく微笑んだ。
「待った。隼人?」
 少女・澄香は訊く。
「いや。さっき着いたばかりだ」
 少年・隼人は答えた。
 答えてまるで逢引(あいびき)の決まり文句だと思ってしまった
 隼人は澄香の顔をまじまじと見る。
 気がつく。
「きれいだな。化粧をしてきたのか?」
 隼人の言葉に、澄香は少しだけ頬を赤らめた。
 そして、軽く咳払いをして言う。恥ずかしそうにしながら。
「いつもしていたわ。今日は特に念入りにね。みっともない姿を(さら)したくないもの。隼人こそ……かっこいいね」
 澄香は、紅を引いた隼人の唇を見ながら言った。風に花の香りが混じっていることも分かっていた。
 その言葉に、隼人は苦笑いする。
「剣士の俺が武士のマネごとをするとは思わなかった。みっともない姿を(さら)したくないと思ったのは、澄香が初めてだ」
 照れ隠しだ。
 そして、澄香は誤魔化すように話を変える。
 話題を変えたかったのかもしれない。
 それは、これから行う事に対しての覚悟を決めるための儀式のようなものだった。
「ねえ。隼人、手を取り合わない? みんなで得た勝利よ」
 澄香は右手を差し出す。
「ずいぶんと古い風習だな」
 隼人は返す。

 【手と手を取って喜び合う事】
 日本に握手の文化が入ってきたのは、幕末から明治にかけになる。
 日本の風習として比較的新しい習慣で、それまで日本人にとって、挨拶としての握手は習慣ではなかった。
 挨拶としての意味を持たない手を握り合う行為から見るならば、「手と手を取って喜び合う」という表現方法が古くからあった。『古事記』に史料として見ることができ、また軍記物にも家臣の労をねぎらって手を取る行為が記されている。
 これは形式的な挨拶ではなく、かなり親しい間柄で深い人間関係が根底にあってこその喜びの表現。または恋愛感情を持っている者同士が、愛情表現として両手を握り合うという行為が握手に近いものになる。
 歌舞伎などを観ると、古来の日本人として両手を握り合って愛情表現をする行為が見受けられる。
 衆人環視のもとでの挨拶ではなく、人目につかない所で行なうお互いの愛情確認。これらから、江戸時代まで日本人の手を握り合う行為とは、喜びや愛情を表現する究極のスキンシップだったと言える。

 二人は向き合う。
 お互いに右手を伸ばすと、相手の手を握りしめる。
 隼人は、澄香の手を握り、澄香は隼人の手を握った。
 彼の右手に澄香は更に左手を添えた。
 二人の手はしっかりと結ばれ、指が絡まる。
 まるで、恋人同士が愛を確かめ合っているような光景だった。
 だが、二人の間に甘い雰囲気はない。
 あるのは、強い意志。
 そして、緊張。
 それを悟られないために、平静を装う。
 澄香は、深呼吸をする。
 隼人は、そんな澄香をじっと見つめた。
 澄香は、隼人の目を見つめ返す。
 見つめ合い、沈黙が流れる。
 一陣の強い風が流れ、草木が揺れる。
「隼人。私、あなたのことが――」
 風が止む。
 澄香の言葉は風で、かき消されたが。隼人には伝わっていた。
 隼人は驚き呆然とした色を表情に見せる。
 澄香は視線を逸らせて頬を朱に染めていた。
 自分の気持ちは伝えた。
 次は、隼人が伝える番だ。
 澄香は、隼人の顔を見る。
 隼人は、真剣な表情で澄香の顔を見た。
 そして、口を開く。
 ゆっくりと言葉を紡ぐ。
 澄香は、その言葉を聞き逃さないように耳を傾ける。
 その瞬間が訪れた。
 その瞬間が……。
「――ありがとう。会ってたった数日でしかないが、澄香は、かけがえの無い存在になった。
 でも、俺は……《なにがし》を俺の代で終わらせる。こんな呪われた剣を、この世に残してはいけない」
 その言葉を聞いた澄香は、目を大きくして驚く。
 悲しげな顔で俯いた。
 涙が溢れてくる。
 澄香は、静かに涙を流した。
 隼人は、握っていた澄香の手を離す。解かれる隼人の指を澄香は握り込もうとしたが、掴めなかった。
 心が離れていく。
 澄香は顔を上げて、隼人の顔を見ると微笑んだ。
 隼人も微笑み返した。
 澄香は涙を拭った。
「隼人。あなたは、生きて何をしたいの?」
 澄香は、訊く。
 《なにがし》を終わらせるということは、その血を絶やすことに他ならない。ならば、何のために生きるのかを知りたくなったのだ。
 隼人は答える。
「人生に目標がある訳じゃない。だが、瑠奈に世話になりっぱなしで、化粧品を買うのに付き合ってもらっての礼をしていない。その礼をしなければと思っている。アイツ、ケーキを食べるのに付き合って欲しいって言ってた」
 澄香は、それを聞いて嬉しかった。
「そう言えば、私も瑠奈に世話になってたのに、何のお礼もできていないわ」
 澄香は笑う。
 隼人は、その笑顔を見て思う。
「なら。あいつに礼を尽くそう。どちらかが、だがな」
 隼人の提案に、澄香は笑みを浮かべて答えた。
 澄香は知っている瑠奈の気持ちを。ならば隼人が瑠奈の所に行かなければならない。自分が行っても、瑠奈は喜ばないことを知っている。
「隼人。今度は逆のことを話そうか。私は、死んだら、してみたいことがあるの。お父さんと、お母さんに会って、みんなで食事をするの。
 そして、二人に好きだと伝えたい」
 澄香は言う。
 隼人は何も言わずに聞いていた。
 理解している。
 もう二度と、両親に会うことはできないことを。
 だがら夢であり願いなのだ。
 それは隼人にもあった。
「俺も、死んだらしてみたいことがある。母親に会えたら訊いてみたい。どうして俺なんか生んだのか。って。
 俺の納得する答えじゃないかも知れない。当たり前の言葉かも知れない。でも、答えを聞けたら、俺は、きっと生まれてきた意味があると思う」
 澄香は、隼人の目を真っ直ぐに見据えた。
 そして、微笑んで言った。
「俺には、生きること、死ぬこと。そのどちらにも意味がある」
 澄香の瞳に映る隼人の目は、力強く、そして優しかった。
 その言葉には、覚悟が含まれているのを澄香は知る。
「隼人は、お父さんを助けてくれていたんでしょ。霧生さんから、全て聞いたわ。感謝してもしきれない」
「だが、結果は怨みを残すことになった。目の前で、最も愛しい人を殺されたにも関わらず、その(かたき)を討てない原因を作ったのは俺だ。例え(かな)わなくとも抗うことすらできなかった。その機会すら奪われた。男として、どんなに悔しかっただろうな……」
 澄香の父・角間道長の気持ちになって、隼人は代弁した。
「……私は、何をしに来たんだっけ」
 澄香は呟く。
 自分の目的を忘れかけていた。
「澄香がこのまま去るなら、俺は止めない。戦うつもりなら応じよう」
 隼人は、真剣な眼差しで澄香を見つめる。
 澄香は思い出した。
 自分がここに来た理由を。
 澄香は、父の無念の思いを汲む。
 父をの死を看取った時の気持ち。
 澄香を襲った悲しみの海。
 両親を一度に失った孤独感。
 そして、復讐という強い意志。
 隼人は、自分の気持ちを伝えてきた。
 後は、自分の番だ。
 澄香は、大きく息を吸った。
 そして、吐く。
 澄香は、自分の気持ちを告げた。
「私は、お父さんの最期の言葉を聞いた。《なにがし》と隼人への怨み。私は、是が非でもこれを果たさなければならないと思ったわ。そうしなければ、生きれなかった。私は復讐を支えにして生きていくことができたの。
 私は、(かたき)討ちをためらわない。お父さんの無念、隼人に対する怨みを娘である私が討って晴すわ」
 隼人の言葉で、澄香は救われた気がした。
 澄香の気持ちを聞いた隼人は、安心して微笑した。
 澄香は、大きく息を吸う。
 吐き出すと同時に、覚悟を決めた。
 自分の想いを殺して。
 そして、決心をした。
 澄香は腰に差している刀の鍔を親指で押し鯉口を切ると、腰を切って抜刀した。
 刃が光を放つ。
 隼人は、それを見つめる。
 澄香は、その切先を隼人に向けた。
 隼人は、澄香の顔をじっと見つめる。覚悟を決めた眼差しだった。己を殺し、使命を全うしようとする武士の目だ。
 武士の三忘という言葉がある。
 武士が戦へ赴くときは自分にとって家、家族、我が身の3つのことを忘れなさい。
 という故事だ。
 与えられた務めを果たすためには、自分の大切なことも忘れるくらいの覚悟を持って臨まなければならないことを意味する。
 今、澄香がやろうとしていることは、その三つ目のことだ。
 自分の気持ちを抑え、相手のために命を投げ出すことができるのが友だと言うならば、隼人にとって澄香は真の友だと言える。その刃が自分に向けられたとしても。
 その覚悟を見た隼人は、嬉しく思う。
 隼人は鞘の切り込みに親指の爪を入れる。
 鍔が無い為に、こうしなければ刀の鯉口が切れないからだ。鯉口を切った瞬間、月明かりを受けて細い光が輝く。
 無鍔刀が抜き放たれる。
 隼人は無形の位に、澄香は源郎斎との際に行った変形八相に構えた。
 互いの手の内を知っているだけに、どう攻めるかを考える。
 澄香は言う。
「私は勝つ。勝って父の無念を晴らす!」
 澄香は、ゆっくりと目を閉じる。
 そして、開いた。
 そこには、澄香の瞳はなかった。
 群青(ぐんじょう)の炎が燃え、蒼く染まった瞳が輝いていた。
 それは、まるで煉獄(れんごく)の奥底を覗いているような錯覚を覚える。
 隼人は一瞬にして肝が冷えた。
 本能が警鐘を鳴らす。
(これが澄香の強さ……。この眼を見るだけで、恐怖を感じる)
 隼人は気圧されるのを殺す為に、あえて一歩踏み出した。
 澄香は、隼人の動きに合わせて動いた。
(袈裟斬り?)
 隼人の予測とは違った動き。澄香は刀を、そのまま前へと倒すと、隼人の左脇腹目掛けて刺突きを放った。
 隼人はそれを、体を捻りながら避けた。
 澄香は、そこからの左薙ぎに変化させる。
 刀に充分な加速ができないかと思えば、澄香はすかさず左に身体を回転させて、薙ぎ払いに入る。加速できない分を身体で補ったのだ。
 だが、それでも隼人の方が速い。
 隼人は、右斜め前に転がるように避けると、立ち上がりざまに澄香の左足首を狙って横一文字に払った。
 古流剣術で足袋形と呼ばれる剣技。
 切断されれば、足首を足袋の形に取ることから、そう呼ばれる。
 澄香は、右脚を軸にして体を回転させると、隼人の放った斬撃を避ける。
 避けるだけなら足首を浮かせば良いが、片足立ちになることで移動ができなくなる。
 隼人は、そこを狙って斬り込むつもりであったが、澄香は地に脚を付けているためにそれができない。
 剣術は頭を含め上半身の攻防に優れた武術であるが、近接での攻防故に足元が死角になりやすい。故に剣術の修行のみを積んできた者にとって、見えない位置からの攻撃は大きな脅威になる。
 澄香の対応は、見事と言えた。
 二人は距離を取って構えを正す。
「よく躱した」
 隼人の褒め言葉に、澄香は答える。
「薙刀は女のたしなみよ」
 声音は冷静だったが、その心は激しく揺れていた。
 隼人の斬撃をまともに受けたら致命傷となる。
 それを澄香は理解していた。
 澄香の言葉を聞いて、隼人は苦笑する。
 薙刀には、剣と異なる特有の打突部位に「脛」がある。
 戦のない太平の世となった江戸時代には、「刀=武士の魂」とする考えのもと、帯刀は男性武将のみの特権となる。
 その代わりに、女性が護身用の武具として薙刀を所持するようになり、薙刀は、武家に嫁ぐ際の嫁入り道具のひとつになった。
 士族の家系である澄香は、剣と同様に薙刀も扱えるように幼い頃から習っていた。
「どうりで良い反応だと思った。だが、お前の負けだ」
 隼人は言う。
 隼人の刀の間合いは二尺(約60.6cm)。
 対して、澄香は二尺三寸五分(約71.2cm)。
 刀身の短い隼人の刀では、澄香の刀を防げない。
 だが、隼人の刀は、澄香の刀よりも短いが、刀身を短くすることで取り回しの速さを追求している。
 その差が勝敗を分ける。
 隼人は、間髪入れずに間合いを詰める。
 彼が澄香の間合いに入った瞬間、袈裟斬り振り下ろした。
 彼は、それを避けたが、僅かに左肩を削る。
 痛みが走るが、怯まず反撃に出る。
 隼人は左逆袈裟を放つ。
 しかし、その攻撃は空を切る。
 澄香は後ろに下がり、避けた。
 そこに向けて隼人は刀を切り返す。
 一瞬による左肋骨下部を狙った左逆袈裟斬りと、右鎖骨を狙った右袈裟斬り、さらに右脇腹を狙う薙斬りの三連撃だ。
 臓腑をえぐり斬ることを目的としていない為、その威力は低いが、それでも斬られれば致命傷になる。
 だが、隼人は忘れていないだろうか。澄香の戸田流は小太刀の流れを汲む剣であることを。
 小太刀の極意は、見切りにある。
 相手を見極め、相手の弱点に一撃を加える。
 澄香は、隼人の三連撃を全て見切った。
 以前、竹森流の藤木(ふじき)(とし)と対戦することで得た感覚を思い出す。
 刃が(はし)った瞬間の軌道と動きが澄香には見えた。
(これなら)
 澄香は、自分の刃が当たると確信した。
 澄香の瞳孔が開く。
 そして、澄香の瞳が群青に染まった。
 澄香は、身体を半身にすると、隼人の左腰目掛けて刺突を放った。
 刺突は、切先を相手に向けながら打つため、相手は防御がしにくい。
 そして、刺突は相手が動いていても有効であり、先手を取ることで大きな効果を発揮する。
 澄香の刺突きが隼人の左腰に迫る。
(もらった!!)
 だが、澄香の刺突は隼人の左腰に突き刺さることはなかった。
 隼人は、澄香の刺突を刀で受ける。
 澄香の繰り出される刀に対し、横から合わせると同時に腰を切って、標的となった左腰を逃がす。
 触れ合った鎬地と鎬地が擦れ合うことで火花が散った。
 澄香の突きは、隼人の脇腹を掠める程度に終わる。
 そのまま両者の距離が詰まると、鍔迫り合いに入る。
 隼人の刀には鍔は無い。
 その為、隼人の指は澄香の刀の鍔を下から押し上げるように位置取りをする。
 でなければ、隼人の指は切り落とされてしまうからだ。
 澄香は、力を込めて押そうとするが、隼人は微動だにしない。
 刃の向こうから隼人が澄香を見つめる。
 澄香も隼人を睨み返した。
 睨み返す?
 澄香は思う。
 隼人の目を見るが、そこに澄香を抑圧する畏怖は無かった。
 少し距離を隔てつつも、決して突き放す訳でも、冷たく見下すわけでもない。
 澄香を気遣う優しさがあった。
 澄香はその目に既視感を覚えた。
 それは、父の眼差しに似ていた。
 澄香は、ふふっと笑ってしまった。
 刃と刃を挟まなければ見つめあえ無い関係に。
 この少年が憎かった。
 斬りたかった。
 追いかけた。
 助けられていた。
 気がつけば憧れていた。
 それが恋心だと知った。
 そして、叶わないことも。
 だからこそ斬らねばならない。
 その想いだけが澄香を突き動かしていた。
 この膠着状態を打ち破るのに、隼人は澄香の腰へと手を伸ばす。
 澄香は何かを掴まれたのを感じ、左腰を見ると隼人の左手が、澄香の鞘を掴んでいた。
「なに!」
 澄香が驚いた時には、隼人は鞘を捻り澄香は地を転がっていた。澄香は距離を取って起き上がる。
 隼人の左手には、澄香の鞘が握られていた。
「覚えておきな。腰に鞘を残しておくのは、不利にもなることを」
 澄香は悔しげに顔を歪ませる。

 【鞘の不利】
 宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の戦いでは、小次郎が鞘を捨てたことで、武蔵に「小次郎敗れたり」のセリフがある。
 武蔵は、元の鞘に戻すべきものを捨てることが負ける証拠だという解釈で、小次郎を精神的に揺さぶるが、吉川英治の原作にあるだけだ。
 戦場(いくさば)では、刀を差す者は鞘を捨てることが少なくなかった。
 それは戦いの最中、鞘を掴まれては、体勢が崩れるからだ。
 新撰組による池田屋襲撃事件では、外に鞘が落ちていて店の者が拾い集めたと語録もある。
 要は邪魔なら外すというだけのことだ。
 鞘には身につけておくことで左腰を守る防具になる利点もあれば、相手に掴まれ転がされる欠点も持ち合わせている。

「なるほど。勉強になったわ。下げ緒と帯を結んでおくと鞘を捨てられなくなるということね」
 澄香の言葉に隼人は答える。
「そういうことだ」
 隼人は、澄香の鞘を地面に落とす。
 そして、自分の鞘をベルトから抜くと地面に落とした。
「いいの? 抜刀術が使えなくなるわよ」
 澄香は身構えるが、隼人は気にした様子はない。
「人に忠告しておいて、自分が転がされるような無様を(さら)すつもりは無い」
 澄香は、隼人の答えに納得すると、刀を八相に構える。
 その顔は、覚悟を決めた者の表情だった。
 隼人は、そんな澄香を見て微笑む。
 彼の瞳には、澄香に対する敬意が込められていた。
 二人の体力は限界を迎えようとしていた。
 予感として分かるものがある。
 決着の時が訪れると。
 月明かりに照らされていた馬場が、急に暗くなる。
(これは)
 澄香は空を見上げる。
 そこには、厚い雲が月を覆い隠していた。
 互いの姿が、影でしか見えなくなった。
 澄香は、身体から力が抜けていく感覚を覚える。
 それは、隼人も同じようで、身体から力を抜いていた。
 諦めたのではなく、集中力を保つ為に必要なことだった。
 澄香は、目を閉じて深呼吸をする。
 息を吸って吐くたびに、気持ちが落ち着いてくる。
 やがて、澄香の身体から余計なものが消えていった。
 澄香は、目を開けると隼人を見据えた。
 隼人も澄香を見る。
 二人の間に沈黙が流れる。
 澄香は、ただ静かに隼人の次の動きを待った。
 だが、隼人は動かない。
 まるで、時が止まったかのように。
 澄香には分かった。
 隼人は待っているのだと。
(後の先狙い……)
 澄香は、隼人の戦術を理解したが、だからといってどうすることもできない。
 体力勝負になれば澄香の方が不利だ。
 男性と女性の体力、スタミナを比較すると、どうしても男性の方に軍配が上がる。その理由は、ヘモグロビンの濃度。ヘモグロビンの濃度は、男性が女性より10%ほど高くなっている。
 ヘモグロビンは持久力に直結する要素の1つである為、男女の運動能力の差が大きいは自然なことでもある。
(なら私は、動作を起こす前に斬る・先の先を取る)
 澄香は、そう決意する。
 そして、澄香は動いた。
 澄香は、隼人に向かって突進する。
 右袈裟斬りを放つ。
 隼人は、それを半歩下がって避けると、逆袈裟斬りを繰り出す。
 二つの影は光の刃を放ち合う。
 草の上を滑り合う音。
 空を斬る音。
 金属が擦れ合い火花が散る。
 焼けた鋼の臭いが香る。
 客観的、俯瞰(ふかん)的な立場で見た場合、最早どちらが隼人で澄香なのか分からなくなっていただろう。
 それほどまでに二人は動き、攻め、躱し、防いだ。
 澄香の刀が隼人の頬を掠める。
 隼人の刀が澄香の肩口を切り裂く。
 お互いの刀が相手を完全に捉えることはない。
 だが、傷を負う度に、徐々にではあるが確実に両者の体力は削られていた。
 しかし、終わりの時は訪れる。
 互いに脇構えに構えると、同時に動く。
 風と風がぶつかり合い、もつれ合う。
 そして、二つの人影がすれ違う。
 肉を斬り、骨を断ち、臓腑を抉る。
 存分の手応え。
 人影は、それを刀身を通して感じていた。
 人影は振り返る。
 そして、斬られた者は、膝から崩れ落ちた。草地に身を預けた。
 倒れたまま動こうとはしない。
 人影は、それを見つめる。
 闇の中で人影は立ち尽くす。
 何を思い、何を想うのか。
 人影は、刀を振って残心を決める。
 地にあった鞘を拾う。
 人を斬った刃を拭って、人影は刀を鞘に納めた。
 月明かりも無い昏い夜。
 世界の片隅で、小さく鍔鳴りが――。
 響いて消えた。

 『魔傳流剣風録(なにがし)とかや云う剣、ありけり』 《完》
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登場人物紹介

 諱隼人《いみな はやと》

:現代においても刀を持ち続ける高校生。剣士として生き人を斬ることを生業とする。

 《なにがし》と呼ばれる剣の使い手で、《闇之太刀》という剣技がある。

 鍔の無い刀・無鍔刀を使う。

 風花澄香《かざはな すみか》

:戸田流の剣士。高校生。

 依頼を受けて麻薬の売人をしていた鷹村館・世戸大輔を斬る。

 《なにがし》の情報を求め、隼人を討つために動く。

 月宮七海《つきみや ななみ》

:黒いチュールワンピースに、黒のブラウスを羽織った妖艶な女。

 金次第で何でも請け負う、社会の裏に潜む仕事の斡旋人。

 隼人に、麻薬の売人であった杉浦正明の殺しを斡旋する。

 霧生志遠《きりゅう しおん》

:最古の剣術流派・念流の剣士。

 道場では師範代を務める、美しい男性。

 澄香に隼人を斬る助太刀を依頼される。

 紅羽瑠奈《くれはるな》

 居合道を志す少女。

 中学生時代に隼人と知り合う。

 |漆原《うるしばら》|夏菜子《かなこ》

 風華澄香のビジネスパートナーを務める。

 志良堂源郎斎《しらどう げんろうさい》

:鬼哭館の館長。鬼面の剣士を抱える。

 御老公とという老人に従い、隼人の始末に刺客を放つ。

 木場修司《きば しゅうじ》

:鬼哭館・師範代。源郎斎の右腕的存在。

 御老公

:氏名は現在不明。源郎斎を従える。

 杉浦正明に人身売買による女の供給をさせていた。

 高遠早紀《たかとう さき》

:隼人のクラスメイト。遅刻の常習者故に、生徒会副会長・小野崇から叱責を受ける。離婚で父親がおらず、母親、弟、妹と暮らす。

 友人に相川優、小森結衣が居る。

 黒井源一郎《くろい げんいちろう》

:質屋の主人。隼人に刀を売るアウトロー。

 隼人とは、お得意様の間柄。

 黒井沙耶《くろい さな》

:源一郎の娘。小学生。

 隼人とは顔見知り。

 

 世戸大輔《せと だいすけ》

:鷹村館の師範代。

 剣士でありながら女をターゲットに麻薬の売人を行う。

 《なにがし》の情報を得る為に、澄香によって斬殺される。

 杉浦正明《すぎうら まさあき》

:人身売買を行い、御老公に女の供給を行っていた男。

 隼人に始末される。

 《鎧》

:三人組の流れの剣士。志良堂源郎斎より、隼人の刺客として向けられる。

 「数胴」「袖崎」「兜」という名前。

 世戸重郎《せと しげろう》

:50代の剣術道場・鷹村館の師範。

 世戸大輔の父親でもあるが、道場の名誉を守る為に、澄香に大輔の殺害を依頼する。

 澄香の諱隼人のこと、《なにがし》が《闇之太刀》という秘太刀を使うことを伝える。

 小野崇《おの たかし》

:隼人が通学する高校の生徒会副会長。

 剣道を行うが、責任が強すぎる一面がある。

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