第20話 化け物

文字数 10,467文字

 その日の放課後。
 隼人は学校を出る。
 いつもなら、日が暮れるまで畑を耕して帰宅するところだったが、今日だけは違った。
 果たし状を広げ、場所を確認する。
(馬場か)
 場所は、山の高台にある場所だった。
 距離としては、それほど離れている訳では無いが、完全に街外れだ。
 電車に乗り誰も降りない無人駅に降りる。
 小さなベンチと、雨宿りもろくにできそうにない屋根しかないホームに降りると、辺りを見渡した。
 周囲は田畑に囲まれていて、深い緑がある山がすぐ傍に見える。
 隼人は、空を見上げた。
 まだ陽は沈んでいない。
 だが、夕焼けの赤さはなく、薄暗い灰色の雲が広がっていた。
 隼人は、手に持っていた封筒に目を落とす。
 澄香に手渡された果たし状には地図も記されていた。
 そこには、一本の道があった。
 隼人は自動改札機も無い無人の改札を抜ける。
 駅を出てすぐのところに、バス停があった。時刻表を見ると、バスは一日に数本しか走っていないらしい。
 廃線になっていなければだ。
 隼人は、山に向かって道を進み始めた。
 そこからは、徒歩で山に向かう。
 道は整備されていないため、草木が生い茂っているが、迷うことはない。
 なぜなら、目印となるものが一つだけあったから。
 それは、大きな岩だった。
 大自然の中で、異彩を放つように、そこにあった。
 この山に登る者にとっては、馴染みのあるものだ。
 隼人は、鈴豊馬場には何度か登ってきたことがある。
 登るに連れ、空気が変わっていくのを感じる。
 木々はなくなり、代わりに現れたのは、一面に広がる草原だった。
 そこが、目的の場所だった。
 そこは、まるで別の世界に迷い込んだような錯覚を覚えるほど、美しい景色が広がっている。
 それは、馬場だからだ。
 馬場とは、馬術の訓練や流鏑馬などに造営された広場であり、馬が走るための地のこと。
 古人達は、この地を作るために木を倒し、草木が育ちにくいようにと土を耕し塩を撒き石を埋めて平らにしたのだ。
 江戸時代には、多くの武士が馬を乗りこなし馬術の腕を競ったと聞く。武士のための宿舎の痕跡もあったと言われているが、21世紀の現代のその建物は朽ち果てており、残っていない。
 隼人は、その場所に着くと足を止めた。
 澄香の姿はない。
 隼人は、周囲を見渡す。
 そして、ふと、上を見た。
 すると、馬場を見下ろす形で小高い崖の上に人影が見える。
 黒いセーラー服の少女・澄香だった。
 腰にはすでに脇差と刀を帯刀していた。
 角帯に二刀を差す姿は、侍のよう。
 彼女は、なだらかな崖を滑り降りた。
 そのまま、軽やかに着地する。
 隼人は、その姿をじっと見つめていた。
 やがて澄香は、隼人の前まで来ると立ち止まる。
 距離は七間(約12.7m)で止まる。
 五間(約9.1m)あれば、最初の一撃は躱すことができる。そこから少し余裕を持たせた距離だ。
「臆せずに来たようだな」
 澄香が、口を開いた。
 だが、隼人は応える気はなかった。
 彼女が何を言いたいのか、すでに分かっていたからだ。
 隼人は、澄香に訊ねる。
「早紀はどこだ」
 すると、澄香は含み笑いをする。
「そんなに早紀に会いたかったか」
 隼人は、無言で睨みつけた。
「人質か。俺は早紀と仲を深め過ぎた」
 自身の行動で、自分を窮地に追い込まれているのを(わら)う。

 【人質(ひとじち)
 兵法の一つ。
 人質は戦国時代、裏切りを防止するための担保として習慣的に行われている。同盟を組んだ大名だけでなく、家臣や臣従してきた土豪や国衆にも行われていた。
 相手にとって大切な者であればあるほど、人質としての価値は高い。
 その為、人質の扱いは丁寧で、住環境や食事は高禄の家臣と同程度だった。
 だが、人質は常に処刑の恐怖に怯えて生きることになる。
 裏切りを予防するための安全保障。その役目を果たせないとなれば、殺されてしまっても人質は文句も言えない。

 その態度を見て、澄香は呆れた様子で言う。
「隼人。お前が最初から立ち合っていれば、こんな手段を取らなくてもよかったんだ。
 だが、教える訳にはできない。教えれば、お前は私のとの勝負を投げる可能性がある。違うか?」
 確かに、そうかもしれない。
 隼人の中には、女を斬りたくないという気持ちがあった。それは、自分の命を失うのと近しい想いではあった。
 しかし、クラスメイトの命に引き換えにしてまで貫き通すことではない。
(結局。俺は俺自身の身がかわいいだけか……)
 自分への誓いを、隼人は嘲笑(あざわら)う。
 隼人は、静かに答える。
「いや。果たし状を受け取り、ここに来た以上。俺も剣士だ。果し合いを受けたことになる」
「ならば勝負の方法は古来からの約定通り、腰の二刀のみ」
 澄香は刀の鞘口を掴む。
「勝敗は?」
「死を以って決する」
 隼人の問いかけに、澄香の答えに迷いはなかった。
「分かった」
 隼人のそれを聞くと、澄香は不敵な笑みを浮かべた。
「ならば、私と勝負をしてもらうぞ。そして、吐いてもらうぞ。

のありかを」
 隼人は、澄香の言う意味が分からなかった。
(アレとは何だ?)
 疑問はあるが、最早問答ができる状況ではなかった。
 真剣勝負において迷いや不安は禁物だ。
 それが死を招く。
 斬ることだけに集中する。
 隼人は黒布を解くと、打裂羽織が風で揺れる。水に墨が溶けるように、打裂羽織が隼人の体を包み、伸び切る。
 すると、そこには二刀を差し打裂羽織を羽織った隼人の姿があった。
 二人は、刀の鞘口を掴み構えを取る。
 二人共、(はら)に力を入れた。
 帯刀姿勢に入った。
 それは、剣士が斬るという決意を持って刀を抜くことを定めた姿。
 二人の間の空間が張り詰めていく。
 最早、この勝負を中断することはできない。緊張が極限に達した時、澄香が動いた。
 腰を切って刀を抜く。
 その動作は滑らかで、澄香の眼は隼人を捕らえたまま隙がなかった。
 澄香は、刀を八相に構える。
 それは、正眼の構えから振り下ろすよりも早く、相手の首を取れる位置だった。
 隼人は、澄香の動きに目を奪われる。
 まるで、吸い込まれるように目が離せない。
 澄香の技に魅入っていた。
 できる女だとは思っていたが、刀を抜く動きに躊躇(ためら)いや迷いは一切無い。剣士としての腕は勿論、幾人(いくにん)も人を斬ったことのある者の眼をしていた。
 隼人は単に魅入っていた訳では無い、澄香の持つ刀長の長さを計測する。
 勘だが、二尺三寸五分(約71.2cm)の定寸の刀であった。
 だが、それは澄香の身長からすれば長い刀だ。
 刀の適寸は身長より三尺(約91cm)短い長さとされる。
 澄香の身長は158cm程とすれば、刀の適寸は二尺二寸(約67cm)だ。
 つまり、澄香が持っている刀の長さは、本来のものよりやや長くなっているのだ。
 その理由は分からないが、おそらく彼女なりに考えた末のことか、手に入れた刀が、その寸尺だったのだろう。
 いずれにしろ、その寸尺の刀が使えるということは、澄香の腕が相当なものであることを証明していた。
 隼人は、澄香の間合いを掴んだ。
 あの刀身が届く間合い。
 そして、身長から来る腕の長さを、隼人は計算に入れた。
 彼は鞘の切り込みに親指を入れて、鯉口を切る。
 その上で、隼人は鍔の無い刀・無鍔刀の柄頭にある手貫紐(てぬきお)に親指を引っ掛け柄を下から迎える。
 その手は、音もなく飛ぶ蝶のように、風に舞う花弁のようにヒラリと柄を迎えに行った、柄に手が触れる。
 すると隼人の刀は、刀身が姿を現し終わっていた。
 抜刀開始時から抜刀中、抜刀後に至るまで、音はしなかった。
 抜刀時に、音がするのは鞘内で刃、峰、鎬などがぶつかっているためで、抜いていく刀身と鞘の角度が合っていないことを意味する。
 余計な音は気配や存在を相手に知らせてしまうだけでなく、鞘の内側を削ってしまう弊害もある。鞘は二枚の板を続飯(そくい)という飯粒を練り合わせた接着剤で貼り合わせているため、刃を擦りつけたり捻ったりすれば、最悪、鞘が割れ鞘口を握る手を負傷することにも繋がる。
 抜刀した。
 まるで魔獣が牙を剥いたように。
 無銘だが、無銘こそが無垢であり、刃紋のない刀身こそ最も美しいと言われることもある。
 隼人が抜いた刀を見た瞬間、澄香は驚いた。
 理由は2つある。
 1つ目は、寸尺が短いことだ。
 澄香に姿を見せた、隼人の刀。
 刃長二尺(約60.6cm)の刀。
 それは思いの他、短い刀だ。
 刀の定寸は、二尺三寸五分(約71.2cm)。
 つまり、少年の刀は三寸五分(約10.6cm)も短いのだが、その刀は刃肉がたっぷりとした蛤刃(はまぐりば)だ。
 2つ目は鍔が無いこと。
 鍔は、手が刀身の方に滑っていかないようにするための部品であり、又相手の刀刃から手を守るための防具でもある。
 それを外すということは、それらの利点を無くすという意味ではあるが、それをするということは、何らかの目的があってのことだ。
 考察をすれば、隼人の刀は薩摩拵の特徴から推察できる。
 薩摩独特の刀装を、薩摩拵という。
 もっと分かりやすく言うと、「薩摩風の刀」と言ってもよい。薩摩の刀は、他の地域とは異なった特徴があり、その一つに鍔は一般のものよりも極端に小さい。
 刀の鍔は、自身の手を相手の刃から守るためのものであるが、薩摩ではこの防具の思想は否定されている。薩摩では、鍔は柄を握っている手が刀身の方へ滑らないための意味しかない。
 敵に襲われた際に鞘ぐるみ(納刀した状態)で戦うことを想定し、鞘ごと抜き打ちしやすい小さな鍔にすると共に、薩摩藩を中心に伝わった古流剣術・示顕流における蜻蛉とんぼの構えのとき、鍔が耳にあたらないようにする。
 また、物打ち(切先三寸の所で、最も良く切れる部分)に重心をかけることで強烈な一撃を加えるためでもある。
 隼人の鍔の無い刀・無鍔刀は、一切の防御を否定し、引っ掛かりのない素早い抜き打ちと軽量化を行いつつ、物打ちに更なる重心をかけ猛烈な一撃を加えることを目的にしているのが予想された。
 澄香は、この2つの特徴を見て、隼人がただの剣士では無いと感じた。
 《なしがし》の隼人と勝負をするにあたり、澄香は、入念な下調べが不足していることを今更ながら痛感する。
 予備知識というものは挑む上で様々な判断材料となる。
 だが、知識は得てして害にもなる。
 知り過ぎることで相手を過大評価し、自信を喪失しては意味が無い。多くを知ることで考えすぎてしまい蜘蛛の巣にかかったように身動きできなくなってしまうのだ。
 ふと学校生活を思い出し、試験開始直前になっても教科書を開き勉強をしていることを思い出し自分を嗤った。深夜まで勉強をし、充分に学習してもどのような問題が出題されるのか不安で仕方がないのだ。
 隼人がどのように動き、どのような技を使い、どのように斬るのか。
 実力を知るために金で剣士をけしかけて腕を観る方法もあったが、万が一でもそれで隼人が討たれるようでは意味がない。楽に勝てる相手では無いことは、予め知っている。
 ならば案ずるよりも産むがやすしだ。
 《闇之太刀》という技についてもだ。
 不気味な技名だ。
 同様に不気味な技名を持つ剣技がある。
 新陰流には《輪之太刀》という技がある。
 下段・中段または雷刀の構えから、片手となって太刀を廻刀して斜打するわけであるが、この廻刀に際して手首は使わずに、大調子の時は肩を中心に、また、小調子の時は肱を中心にして、腕を回転させて廻刀を行う。
 打つ部位によって自ら拳の高さは異なってくる。腰・胸・肩・頭上等の高さにより打つ。
 他流派の剣士達は、《輪之太刀》を『悪魔の如き』と恐れ、これを《魔之太刀》と呼び恐れた。
 恐れられた理由は二つある。
 片手太刀の廻刀のために太刀が伸び、相手にとって間合いを読めないこと。「輪之太刀」そのものを外しても、瞬時に「入身技」に変化しての攻撃を伴っていることの二つである。
 《なにがし》の使う《闇之太刀》。
 それがどのような技であるかは分からないが、剣術であるならば、その剣が届く範囲でのことだ。
 ならば、その刃が届く範囲に身を置かなければ斬られることはない。
 ただ、それだけのこと。
 澄香の心に、余裕が生まれた瞬間だった。
 そして、彼女の目に映っている得体の知れぬ少年の姿は、既に刀を持った一人の剣士。
 もはや、そこに必要以上に恐れる必要のない存在となっていた。
 だが、澄香は得体の知らない寒気を感じていた。
 ――寒い。
 それは、単純に温度で言い表せるものではない。
 澄香が隼人から感じる寒さ。
 それは、死者の身体に触れた時に感じる。あのゾッとする薄ら寒さだ。生命という温かさを奪った温度を、澄香は隼人から憶えた。
 澄香は改めて、八相の構えを取る。
 隼人が、どのように構え、そこからどう斬り込むべきか考えようとしたが、隼人が構えを取らないことを奇妙だと思った。
 隼人は、刀を抜いたにも関わらず、構えなかった。
 刀は右手に下げたままになっていた。
 それは、まったくの無防備だ。
 頭上、左右、脚どこに対しても刀を突きだしていないことから、全てがら空きになっている。
 特に全面は隙だらけだ。
 刀を抜いて相手と向かい合う時、こういう形は恐ろしくて取れない。
(これが《なにがし》か。大したことないわね)
 澄香は、隼人から感じた薄ら寒さを無視し、そう思った。
 いや、思い込もうとしたのかも知れない。
 彼女は、動かない隼人に対し、自ら間合いを詰めていく。
 半歩ずつ前に出ながら、ゆっくりと刀を持ち上げる。
 刀の長さ分、先に届くのは自分だが、刀の間合いに入った瞬間、隼人は仕掛けてくるだろう。
 その時が勝負だと、澄香は思う。
 緊張感が増して、呼吸が浅く早くなる。
 額から滲んだ汗が頬を伝い顎から落ちる。
 澄香にとって、これほどの緊張は初めてのことだった。
 今までは、常に自分が優位に立っており、どんな状況になろうとも冷静さを失うことはなかった。
 それが、今、初めて、追い詰められていると感じていた。
 いつでも、どのようにでも斬れるにも関わらずにだ。刀を振り上げれば、相手の首を落とせる。
 あとは振り下ろすだけでいい。
 だが、それなのに何故出来ない? それは、目の前の少年のせいではない。
 自分の心の弱さだ。
 この期に及んでも、まだ心の中に迷いがあるからだ。
 澄香は歯噛みする。
 なぜ、こんなにも自分は弱いのかと。
 この少年がどのような技を使おうと、斬ってしまえば同じことなのだ。
 澄香が刀を握る手に力を込める。
 斬る。
 その一点のみに集中する。
 澄香が狙うのは、右脚を一歩踏み込んでの左袈裟斬り。
 刀を振る動作は一瞬。
 瞬きほどの時間しか要しない。
 澄香の全身から無駄なものが消え失せ、刀に全ての力が注がれていく。
 澄香の刀を持つ手が震える。
 恐怖ではない。
 武者震いだ。
 斬るべきものを見据えた目で隼人を見る。
 隼人もまた澄香のことを見ていた。
 その瞳には、何も宿っていないように見える。
 だが、澄香はその奥に潜むものを確かに感じ取った。
 それは、殺意か。敵意か。
 あるいは、憎悪か。
 はたまた、悲しみか。
 あらゆる感情を超越したような虚無の表情だった。
 ただ一つだけ確かなことがあるとすれば、それは、澄香に対して、斬るべき存在として認めている。
 ということだけだ。
 澄香は、そんな隼人の目を見て、背筋が凍り付く思いがした。
 今更ながら、隼人の持つ得体の知れなさに気が付いたのだ。
 それは、澄香が初めて経験するものでもあった。
 だが、目の前にいるのは、何かが違う。
 それは、澄香自身が一番良く分かっていた。
 だからこそ、余計に怖かったのだ。
 もし、斬ってしまったとしたら……。
 その先を考えることを澄香は止めた。
 斬る。
 そして、斬る。
 それだけだ。
 澄香と隼人の視線が絡み合ったまま時間が過ぎてゆく。
 風が吹いた。
 二人の髪が揺れる。
 草木がざわめく。
 そして、澄香が動いた。
(《なにがし》など、ただの雑魚に過ぎない!)
 地面を強く蹴り、一気に間合いを詰めようとする。
 その瞬間、澄香は右脚を踏み込み、刀は隼人を捉える。
 右脚が着くと同時に、左脚を右脚に引きつける。踏み込みながらの一刀の場合、左脚の引き付けが不十分だと、バランスが崩れてしまう。
 しかし、澄香は完璧に左脚を引きつけ、刀は隼人を捉えた。
 その前に、隼人は動いていた。
 右手に下げた刀に対し、左手を運ぶ。
 急いではいない。
 あくまでも、ゆっくりと手を運び、確実な動きをする。
 まるで、それは、舞を踊るかのような優雅な手つきささえあった。
 澄香の左袈裟斬り。
 隼人の左逆袈裟斬り。
 鏡のように相反する斬撃が放たれようとしていた。

 そして、二つの刃は交差する―――。

 互いの斬撃が終わった時、二人の距離は磁気が反発するように離れていた。
 澄香は、自分の身に何が起きたのか理解できずにいた。
 隼人は、ただ、そこに立っていた。
 澄香が振るう刀は、間違いなく隼人を捉えていた。
 だが、そうはならなかった。
 それよりも前に隼人の左逆袈裟斬りが、澄香の左脇腹を斬り裂くはずだった。
 隼人の刀は、澄香の左袈裟斬りよりも速く(はし)っていたのだ。
 つまり、澄香はその斬撃の速さに気づき、退いた。
 隼人の斬った軌跡は、澄香から見て左側にあった。
 それは澄香からすれば、信じられない斬撃だった。左脇腹は脇差と鞘で防具として固められている部分であり、そこを斬り付けることは容易ではない。
 いや、できようハズもない箇所だ。
 だが、現実はどうだ。
 澄香は、触れずとも左脇腹に刀刃による焼けるような痛みを感じ取っていた。血が肌を伝う感触も分かった。
(脇差を通り越して、どうやって斬った。あの一瞬に……)
 澄香には、全く見当も付かなかった。
 しかも、あんな無防備な状態から、あれほど素早く反撃してくるとは思わなかった。
(あんな短い刀で……。いや短いからか)
 澄香は短いゆえの刀を恐ろしさ思い出す。
 刀の寸尺が短いということは、そのまま間合いの狭さに繋がる。
 だが、短いことは不利ではない。
 幕末。
 世の中が物騒になると、長い刀が実戦に有利と思い、二尺八寸(約84.8cm)から三尺三寸(約100cm)の刀を所持した武士もあったが、実際には重過ぎて充分な刀術が発揮できず、やがて二尺五寸(約75.8cm)以下に落ち着いた。
 過去の剣士では、寸尺の短い刀を用いた剣士もいる。
 柳生連也斎だ。彼の刀は一尺九寸八分(約60cm)、脇差一尺三寸三分(約40.3cm)であった。
 短いことは刀身が軽く、なおかつ短いことで速く抜刀できる長所があるのだ。
 隼人が、なぜあえて不利な寸尺の短い刀を使っているか、澄香は理解した。
 素早い抜刀と素早い斬撃。
 それに加えて、相手の油断を誘うためだ。
 相手は自分の方が間合いが長いと思い、油断と増長によって深く間合いに踏み込む。そこに合わせて半歩踏み込めば、一瞬にして勝負は決まる。
 澄香は悟る。
 隼人の持つ、剣の理合を理解した。
 隼人の刀は、澄香を斬る寸前まで振り切っている。
 あそこで澄香が引かなければ、どんな結果になっていただろうか。
(相打ち?)
 それならば、まだ納得できる。
 しかし、実際は違った。
 澄香の刀の方が長く、重力に従って放つ袈裟斬り。
 状況からして、澄香の方が有利であったにも関わらず、先に刃が届いたのは隼人の方であった。
 その事実は、澄香の心を深く傷つけた。
 澄香は、刀を持つ手が震えているのを感じた。
 それは恐怖ではない。怒りだ。
 それも、今まで感じたことのないほどの激しい感情だった。
 隼人は、刀を右手に下げていたのではない。
 未防備に見えて、それは構えだった。

【無形の位】
 柳生新陰流の祖、柳生石舟斎が名付けた新陰流の構え。
 その形は両足を自然に左右に軽く広げ、右手に刀を垂れ下げ、剣尖を軽く左の方に傾ける。この構えが無形の位。
 完璧な構えなどというものはあり得ない。構えればどこかに必ず隙が生じる。そこを守ろうとすれば、他が空いてくる。さらにそこを守ろうとすれば他に隙が生じる……。というように、構えが際限なく崩されていく可能性がある。
 一方、無形の位は隙だらけだ。
 どこからでも斬り込めるが、自然体であるが故に、どうとでも対応できる。元々構えていないのだから、構えが崩されることもない。
 形のない攻撃体勢をとっている訳だが、形がないということは、相手がどんな形でどこから攻めてきても、それに対して自由自在に相手の出方に対応することができる。

 澄香は、改めて《なにがし》という存在を驚異に感じた。
 そして、それは、自分の命を脅かす脅威であるということを認識する。
 同時に、澄香の中で何かが弾けた。
 澄香の目付きが変わった。
 先程までの澄香とは違う。
 その瞳は真っ直ぐに隼人を見据える。
 そこにはもう迷いはない。あるのは純粋な殺意だけだ。
 澄香は刀を両手に持ち、腰を落とす。
 そして、一気に間合いを詰めようとした。
 しかし、澄香が動く前に、再び隼人が動いた。
 隼人は、澄香を目掛けて一直線に駆け出した。
 その動きに合わせるように、澄香も前へ出る。
 両者の距離が縮まる。
 お互いの刀が届く範囲に先に入れるのは、澄香の方だ。
 澄香は、一歩だけ右脚を前に出し、隼人を迎え撃つべく刀を振り上げる。
 だが、その時、澄香は気付く。
 隼人は、澄香の左側へと回り込もうとしているのだ。
 澄香が刀を振るうより早く、隼人の刀は澄香の左脇腹に届くだろう。もはや澄香は脇差が、自分の左脇を守ってくれるとは思っていない。
 だから、油断もない。
 隼人が放つ左逆袈裟を、澄香は右脚を軸にして左脚を引く。
 躱す。
 澄香の身体を身を切るような鮮烈さで、隼人の刀が通り過ぎる。
 彼女が左脚を引いたのは、隼人の一太刀を躱す為でもあったが、そこから斬撃に移るための予備動作でもあった。
 澄香は刀を握る手に力を込め、そのまま上段から刀を振り下ろす。
 隼人は、刀を振り上げた勢いを活かして、身を捻る。
 だが、澄香の刀が隼人の右肩を斬る。
(浅い!)
 澄香は刀刃を通して伝わる感触。手応えに満足しなかった。
 隼人は澄香の斬撃を致命傷になるのを避けると、左脚の膝に力を込める。その力を使って、隼人は右肩を澄香の身体に叩き込む。
 
【身の当り】
 現代で言えば体当たりのことになる。
 宮本武蔵は『五輪書』【水之巻】身のあたりと云事にて、少し顔を横に向けて、自分の左の肩を出して、敵の胸に当たる。自分の身体を出来るだけ強くして当たること、状態によっては、跳び込むように入ること。
 と、要諦を書き、この入り込む方法を習得すれば、敵が二間(約3.6m)も三間(約5.5m)も撥ね飛ばすほど強いものである。

 隼人の身の当たりを受け、澄香は息が詰まる。
 だが、澄香は大きく撥ね飛ばされない。
 それは(わざ)とだ。
 隼人は、身の当たりの威力をあえて落としていた。それは、そこから横薙ぎへと斬撃を繋げるつもりだからだ。
 隼人は足元を定め、横一文字に斬り付ける。
 澄香は体勢を立て直す。
 澄香は刀を縦にして、隼人の刃を受ける。
 刀で刃を防ぐのは不本意であった。なぜなら刀で刃を受ければ刃が欠け、最悪の場合折れるからだ。
 竹刀剣術では、平然と竹刀と竹刀を打ち合わせているが、あれは剣道のルールに則った試合であり、真剣勝負ではない。
 竹刀や木刀ではなく、真剣である刀を扱う刀術を心得ている者は、刀と刀を当てない。
 江戸時代後期の剣士・高柳又四郎がいた。
 世にいう《音無しの剣》で評判の剣士で、又四郎は相手の打ち込む竹刀を受けたり払ったりなど、一切の音を立たせなかった。
 当時の道場剣法の、とにかく賑やかな派手な打ち合いが盛んになっていたからで、又四郎の剣は異彩を放っていた。
 言い換えれば、それまでの古流と呼ばれる剣術は、すべて音無しであった。古流の遵奉者(じゅんぽうしゃ)が少なく、又四郎のような剣士が特異な存在として評判になったということだ。
 澄香は隼人の刀を、真っ向から噛み合うように受けるつもりはない。
 隼人の右から(はし)る刀に対し、澄香は刀を左に寝かせ斬撃を防ぐと共に、刀を受け流す。
 澄香は、受けながら後ろに下がる。
 刀で相手の刀を真っ向から受けると、刃こぼれが生じるだけでなく、自分の腕にも衝撃が残る。手に痺れがあれば本来の刀術を繰り出せないばかりか、鍔迫り合いになれば押し切られてしまう可能性もある。
 だから、澄香は受けと避けの2つの防御を併用して危機的状況を脱する。
 二人の間に、大きく間合いが作られる。
 澄香の額から汗が滲み出る。
 呼吸も乱れている。
 そして、澄香は左上腕に、血が蛭のように這うのを感じた。
 信じられなかった。
 澄香は、自分の左上腕に視線を走らせる。すると、左上腕の制服が斬られ白い肌に、赤い筋が走っているのが見えた。
 澄香は、その傷が浅くないことを瞬時に理解した。
 澄香の表情に焦燥(しょうそう)の色があった。
 それは、傷を受けたからではない。
 澄香は刀で、隼人の刀を受け流したハズであった。
 それにも関わらず、隼人の刀は澄香の上腕を斬ったのだ。
 なぜ、そんなことができたのか。その理由を澄香は分かっていた。それは理解しがたい現象だった。
 すり抜けたのだ。
 隼人の刀が、澄香の刀をすり抜けた。
 だから、自分の左上腕が裂けたのだ。理論や理屈を抜きにして、《なにがし》の剣を理解する。
 脇差を差しているにも関わらず、左逆袈裟斬りで脇腹を斬ったのも、すり抜けたからだ。
 澄香は、黒い打裂羽織を身にまとい、刀を右手に下げた少年を睨む。
 隼人は半白眼で一切の感情を見せていなかった。
「化け物め……」
 そう呟くと、澄香の身体の奥底から震えが湧き起こるのであった。

(第21話 『20人斬り』に続く)
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登場人物紹介

 諱隼人《いみな はやと》

:現代においても刀を持ち続ける高校生。剣士として生き人を斬ることを生業とする。

 《なにがし》と呼ばれる剣の使い手で、《闇之太刀》という剣技がある。

 鍔の無い刀・無鍔刀を使う。

 風花澄香《かざはな すみか》

:戸田流の剣士。高校生。

 依頼を受けて麻薬の売人をしていた鷹村館・世戸大輔を斬る。

 《なにがし》の情報を求め、隼人を討つために動く。

 月宮七海《つきみや ななみ》

:黒いチュールワンピースに、黒のブラウスを羽織った妖艶な女。

 金次第で何でも請け負う、社会の裏に潜む仕事の斡旋人。

 隼人に、麻薬の売人であった杉浦正明の殺しを斡旋する。

 霧生志遠《きりゅう しおん》

:最古の剣術流派・念流の剣士。

 道場では師範代を務める、美しい男性。

 澄香に隼人を斬る助太刀を依頼される。

 紅羽瑠奈《くれはるな》

 居合道を志す少女。

 中学生時代に隼人と知り合う。

 |漆原《うるしばら》|夏菜子《かなこ》

 風華澄香のビジネスパートナーを務める。

 志良堂源郎斎《しらどう げんろうさい》

:鬼哭館の館長。鬼面の剣士を抱える。

 御老公とという老人に従い、隼人の始末に刺客を放つ。

 木場修司《きば しゅうじ》

:鬼哭館・師範代。源郎斎の右腕的存在。

 御老公

:氏名は現在不明。源郎斎を従える。

 杉浦正明に人身売買による女の供給をさせていた。

 高遠早紀《たかとう さき》

:隼人のクラスメイト。遅刻の常習者故に、生徒会副会長・小野崇から叱責を受ける。離婚で父親がおらず、母親、弟、妹と暮らす。

 友人に相川優、小森結衣が居る。

 黒井源一郎《くろい げんいちろう》

:質屋の主人。隼人に刀を売るアウトロー。

 隼人とは、お得意様の間柄。

 黒井沙耶《くろい さな》

:源一郎の娘。小学生。

 隼人とは顔見知り。

 

 世戸大輔《せと だいすけ》

:鷹村館の師範代。

 剣士でありながら女をターゲットに麻薬の売人を行う。

 《なにがし》の情報を得る為に、澄香によって斬殺される。

 杉浦正明《すぎうら まさあき》

:人身売買を行い、御老公に女の供給を行っていた男。

 隼人に始末される。

 《鎧》

:三人組の流れの剣士。志良堂源郎斎より、隼人の刺客として向けられる。

 「数胴」「袖崎」「兜」という名前。

 世戸重郎《せと しげろう》

:50代の剣術道場・鷹村館の師範。

 世戸大輔の父親でもあるが、道場の名誉を守る為に、澄香に大輔の殺害を依頼する。

 澄香の諱隼人のこと、《なにがし》が《闇之太刀》という秘太刀を使うことを伝える。

 小野崇《おの たかし》

:隼人が通学する高校の生徒会副会長。

 剣道を行うが、責任が強すぎる一面がある。

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