第46話 澄香の戦い

文字数 9,930文字

 夜。
 澄香は、山道に入っていた。
 目的地は、中腹にある。
 そこに向かうには、この山道を抜けるしかない。
 だが、澄香はそのルートは通らなかった。
 彼女は、獣道に入る。
 そこは、人が通ることを想定して作られたものではなく、自然にできたものだ。
 澄香は、草木をかき分けながら進む。
 普段なら、このような場所は避けていただろう。
 しかし、今はそんなことはどうでも良かった。
 澄香は、先を急いだ。
 しばらく歩くと、道に出た。
 その道の先を見ると、大きな山門が見えた。
「あそこが、鬼哭館」
 そう呟き、さらに歩みを進める。
 ここからは敵地だ。
 ラクロスケースから刀と脇差を出すと、帯刀した。
 そして、山門の前に立つと、周囲を警戒する。
 人の気配は無い。
 戸を押し開けると、
 ギィという音が響き、中に入った。
 本来は寺社であったのであろう。
 広い境内が目に飛び込む。
 篝籠(かがりかご)が、設置されているが、火は灯されていない。
 澄香は、辺りを見渡す。
 廃墟のように静かだ。
 澄香は正面に見える道場を見る。
「あそこか」
 澄香は急いで、道場に入る。
 礼も行わず、土足で上がり込むが、今の澄香にそんな心配りはない。正面にある神前に向かうと、小さな木箱を目撃する。
 澄香は震えていた。
 彼女は、その木箱を手に取る。
 中身を確認するためだ。
 木箱は正面に蓋があり、木箱を寝かせて開ける。中には塩が詰められていた。
 澄香は息を詰まらせながら、塩をそっと払っていく。
 恐る恐る。
 その下にあるものは――。
 澄香は息を呑んだ。
 ――土気色に変わった人間の首だった。
 澄香は、その顔を覗き見る。
 彼女は、涙を浮かべていた。
 その顔は、知っているものだった。
「お父さん」
 ――父・角間道長の生首を前に、澄香は嗚咽を漏らす。
 澄香は、その場に泣き崩れた。
 木箱を胸に抱き寄せ、涙をこぼした。
 彼女の頬を伝う雫は、父の首へと落ちる。
 首の目元に涙が染み込む。
 まるで、澄香の悲しみを現しているかのように。
 澄香は、父の死を受け入れられずにいた。
 だが、受け入れざるを得ない状況にあった。
「……お父さん。私が連れて帰ってあげるからね」
 澄香は、父親の首を木箱ごと抱きかかえる。その瞳からは、まだ涙を流し続けていた。
 それは、彼女が決意をした瞬間でもあった。
 澄香は道場を飛び出し、境内の中央まで行き着く。
 すると突然、境内にあった篝火が燃え上がった。
 その数は、一つ、二つではない。
 鬼火に遭遇でもしたかのように、周囲に燃え上がり、澄香はその中心に立っていた。
 澄香は、周囲に目を走らせる。
 木箱を地面に置き、刀を抜く。
 刀身は、月明かりを受け青白く輝いていた。
 周囲からは、道着姿の男達が姿を見せる。その数は何人居るのか検討がつかない。
 ざっと80人はいるだろうか。
 全員が刀を抜いていた。
 澄香は、男達を睨む。
 その視線には、怒りの感情が込められている。
 男達は、一斉に刀を構え、戦闘態勢を取る。
「クソ……」
 男達の姿を見て、澄香は毒づく。
 そして、彼女もまた、臨戦体勢を取った。
 刀を正眼に構え、切先を相手に向ける。
 だが、誰に向ければ良い?
 恐ろしいまでの緊張感と恐怖が襲ってくる。
 今にも、逃げ出したい衝動に駆られる。
 しかし、澄香は歯を食いしばり、それに耐えている。
 澄香は、覚悟を決めたのだ。
 目の前に広がる現実を受け入れることを。
 もう逃げないと。
 だが、それは簡単なことではなかった。
 この場で死ぬかもしれないという恐怖が、彼女を包み込んでいた。
 それでも、彼女は戦う。
 父と母の無念を晴らすために。
 澄香に多人数剣の経験は、これで三回目になるが、未だにその要諦は掴めていない。
 だが、それでも戦わなければならない。
 彼女は覚悟を決めていた。
 たとえ、ここで死すことになろうとも、戦い抜くと。
 それが、両親に対する手向けの花だと。
 彼女は、目を瞑った。
 それは、死を覚悟しての行動だ。
 その時が来るまでは生きようと決めたからだ。
 だが、いつになっても攻撃は来なかった。
 代わりに聞こえてきた声があった。
 澄香は声の方向を見る。道場の入り口に二人の男が居た。
 一人は車椅子に座した老人・印藤隆元。
 そして、もう一人は志良堂源郎斎。
  隆元は、車椅子に座りながら、澄香を見据える。
 その表情は険しく、目は鋭かった。
 一方、隆元は笑みを浮かべていた。
 まるで、面白いものを見るような目で、こちらを見ている。
 そして、口を開いた。
 その言葉は、衝撃的なものとなる。
「――お主が、娘か」
 その言葉に澄香は嫌悪感を抱く。
「ふざけるな。私の父は、角間道長。誇り高い士族だ!」
 そう言い放つ。
 それに対し、隆元は、笑い出す。
 腹を抱えて笑う。何がおかしいのか。
 澄香は、怒りの感情が湧き上がる。
「そうじゃったの。元、娘じゃ。まさか秋香が、儂以外の男に股を開いているとは思わなんだ」
 隆元は、ニヤリと嫌らしい笑みを見せる。
 その発言に、澄香は絶句する。
 そして、その顔がみるみると紅潮していく。彼女は、怒りの感情を抑えられなかった。
「ゲスが。母に詫びろ! 母が本当に愛していたのは父・道長だけだ。金と権力で体を汚されても、心まで売った訳ではない!」
 澄香は、叫ぶ。
 彼女は刀を構える。
 だが、隆元は全く動じない。
 むしろ、不遜(ふそん)な態度を取っていた。
 自分の優位を確信しているかのように。
「源郎斎から、鬼哭館の情報が雑に調べられていると聞いた。どんな情報屋から、この場所を探し出させたのかは知らんが、追跡されていることも知らずに。愚かなことよ」
 その言葉に、澄香はハッとする。
 夏菜子に鬼哭館の場所をスピード重視で調べてもらった。情報調査の慎重性を見落としていたことに、後悔が押し寄せる。
 そんな彼女に、追い打ちをかけるように、隆元は話を続ける。
 それは、あまりにも非情なものであった。
「面白い余興が見られると思うて来たが、まさかここに来たのが、そんな汚い首を盗み出すことじゃったとは、期待外れもいいところじゃ」
 澄香は、その言葉を耳にし、怒りの感情が爆発する。
「父を侮辱するな! この外道が!!」
 怒りに任せ、澄香は隆元に斬りかかりたい衝動に駆られる。
 だが、周囲の状況から感情のままに、うかつに動けば、命を落とす危険性があると判断し、冷静さを取り戻す。
 怒りを鎮めつつ、周囲を確認する。
 そこには、複数の男達が居た。
「斬り刻め」
 隆元は言った。
 すると周囲の男達が一斉に動き始めるのが分かった。
 そこに鶴の一声があった。
「待て」
 源郎斎だ。
 隆元は源郎斎を見る。
「何じゃ源郎斎?」
 源郎斎は、澄香を一点に見つめている。
 その瞳には、何かしらの意思が宿っているようだった。
 源郎斎は言う。
「御老公が自らおいでになったにも関わらず、そのようなリンチのようなものを、お見せするわけにはいきません。我々は暴徒や暴漢ではない」
 隆元は、鼻で笑う。
 馬鹿にしたような態度だ。
 そして、源郎斎の言葉に対して返答をする。真意を試すかのような質問であった。
「ほう。ではどうするつもりじゃ?」
 源郎斎は答える。
 それは、隆元にとって予想外のものだったが、同時に納得できる答えでもあった。
「俺が相手をしましょう。単身で鬼哭館に乗り込む、その度胸は見事です。斬り刻まれるよりも、鮮やかな一閃で華々しく散る。それこそが剣士の本懐というものです」
 隆元は、ニヤリと笑みを浮かべる。
 だが、すぐにその笑みは消え失せる。彼の視線は、澄香に向けられていた。
 隆元は、その目つきを変えずに尋ねる。
 それは、疑問ではなく確認といった口調だ。
「お主、本気で言っているのか? あの娘の剣の腕は、到底、お主のような達人が相手になるはずがない」
 源郎斎の実力は、隆元も知っている。
 だが、それでも尚、心配をしているのは、澄香の腕前を疑っているからだ。
 それは当然の反応だ。
 しかし、源郎斎は自信満々に返す。
「そうとも言えません。情報では、あの娘。《なにがし》と果たし合いを挑み一太刀を浴びせています」
 源郎斎の言葉は力強い。
 隆玄は目を見開き驚く。
「ほう。お前が認める、あの魔物の剣を受け継ぐ《なにがし》か。そいつは面白い。ならば、その腕を見せてもらおうか」
 隆元は、そう言い放ち澄香を見る。その眼は愉悦と期待であり、好奇の感情に溢れていた。
 源郎斎は上がり口の階段を、強者の風格を以って降りていく。
 澄香は、それを黙って見つめていた。
 源郎斎は五間(約9m)の間合いで止まる。
 彼は鞘口を握ると、親指で鯉口を切る。
 そして、刀身を引き抜く。
 刃長二尺五寸(約75.8cm)、切先両刃造。
 銘を今焔食(いまほのおばみ)
 刃紋は、互の目乱れ。
 その刀身を眺めると、源郎斎は目を細める。
 澄香の方へと顔を向ける。
 澄香は、恐怖していた。
 目の前にいる男は、得体の知れない恐ろしさを放っていた。
 その目に睨まれただけで、足が震えてくる。
 その威圧感は尋常ではない。
 彼女は今まで対峙してきた、どの敵とも違う感覚に襲われていた。
 だが、ここで退くわけにはいかない。
 澄香の中に、その覚悟はある。
 なぜなら、この男こそが母を斬った(かたき)なのだから。
「源郎斎。貴様が、お母さんを!」
 澄香は、怒りを露わにする。
 そんな彼女に、源郎斎は冷たい視線を送る。
 その目は、まるで虫けらでも見るかのような冷酷なものだ。
 そして、彼は静かに告げる。
 まるで死を告げる死神の囁きのように。澄香の耳に届く。
「秋香の娘か。確かに似ている。なら、斬り心地も、さぞや良いものだろうな」
 澄香は歯噛みする。
 怒りが更に湧く。
 この男の所為で、母は死んだのだ。
 この男が殺したんだ。
 その怒りを原動力に、澄香は精神を集中させる。
 そして、その怒りをぶつけるように、刀を構えた。
 顔の右。
 刀身を立てて両手で構える八相の構え。
 左手を柄頭に近い位置に軽く置き、刀身を少し前に倒した。
 澄香が独自に改良した変形八相の構え。
 これは刀の加速が落ちるが、刀を最初から前へと傾けていることから素早い斬撃が可能となる。相手の攻撃よりも先手を取る為のものだ。
 古流剣術にある構えとしては、高波の構えに近い。
 だが、澄香は、敢えて自らの名を冠さなかった。
 それは、未だ修行中の身であり未熟者だからだ。
 澄香の母も剣士だったが、澄香の剣は、母から受け継いだものではない。
 父が教えてくれた剣だ。
 父から学んだ剣を自分のものにしつつも、自分なりに自ら編み出した剣。
 それが、彼女なりの古流の剣だった。
 源郎斎は、その様子を見て、笑みを浮かべた。
 それは、どこか哀れみを込めたような表情だった。
 言葉を口にする。
 それは、澄香の心に突き刺さるような鋭利な刃物だった。
「形にこだわっているようでは、俺には勝てん」
 澄香は、その言葉を気にする。
 だが、すぐに気を取り直す。
 確かに形には拘っているかもしれない。
 だが、それでいいと思っている。
 澄香が目指すものは、強さだ。それは、ただ単に強くなることだけではない。
 澄香は、父のようになりたいと思っていた。
 そして、その背中を追いかけている。
 澄香は、亡き母の願いである、強く優しい剣士になることを夢見ていた。
 だからこそ、その思いに応えられるように強くなりたいと願っていた。
 だが、現実は厳しいものだった。
 源郎斎は、その考えを否定する。
 だが、それならば、どうすればいいのか?
 澄香は迷う。
 答えは出ない。
 それならばと、澄香は思う。
 答えが出るまで戦えばいい。
 対する源郎斎の構え。
 彼は刀身の切先を地面に向け、峰に右手を添えるようにしている。
 そして、右足を前に出し半身に構えている。
 上段刺突構えを、そのまま中段にした刺突を目的とした構えだ。
 刀の峰を右手で支えている為に、柄を握る左手にかかる負荷は軽減され、刺突を繰り出しやすい。
 両者は動かない。
 静寂の中、夜の境内に緊張が走る。
 それは張り詰めた空気だ。
 二人の呼吸音だけが聞こえる。
 その緊迫の瞬間は、唐突に終わりを迎える。
 先に動いたのは、源郎斎の方だ。
 彼は左足を踏み込むと、澄香の胸に向けて刀を突き出す。
 想像を絶する速さだ。
 構えから繰り出される攻撃は刺突であることは分かっていた。
 だが、澄香は動けなかった。
 源郎斎の攻撃が速すぎたからだけではない。源郎斎は、いっさいの起こり((きざ)し)を消して斬り込める体捌きを体得していた。
 つまり、初動がまったく見えていなかったのだ。
 澄香は、右にあった刀をとっさに左へと動かすと共に、左脚を引いて半身になる。
 突き込まれる刀に対し、澄香はその軌道を逸らすように刀身を横から当てた。
 源郎斎の刀の鎬と、澄香の刀の鎬がぶつかり合い、削り合う。
 鋼の焼ける臭いが発生する。
 澄香は、その衝撃を利用して後ろへと下がる。
 痛みがあった。
 澄香の左腕上腕の外側が斬れていた。
 刺突を逸らせたハズだったが、源郎斎は刀の峰側の反りを使い、澄香の刀を支点にして切先で突き斬ったのだ。
 切先両刃造の刀でなければできない芸当だ。
 澄香は、その攻撃を受けつつも、軽症で辛うじて避ける。
 そして、澄香の身体を掠めながら、刀が通り過ぎていく。
 彼女の着ていた制服が破れ、肉から血が流れる。
 だが、その程度だ。
 澄香は、目配せて傷の具合を確認する。
 それほど深いものではなかった。
 源郎斎は、再び間合いを詰める。
 今度は、澄香の左肩目掛けて斬り下ろす。
(雁金狙いか!)
 澄香は、後ろに下がりたい気持ちを殺し、前に出る。
 源郎斎の手首を狙って、下から斬り上げる。澄香の刀が、源郎斎の手首に食い込んだ。
(違う)
 刀身から伝わる感触は肉と骨ではない。
 斬ったのは、袖の生地だ。
 澄香は歯噛みする。
 源郎斎は、その攻撃を予測していたかのように、澄香の顔に向かって刀を振るう。
 澄香は首を捻ると共に、体捌きを加えて避けた。
 頬に赤い筋ができる。
 僅かにかすめたのだ。
 だが、澄香は怯まない。
 彼女は、そのまま刀を返し振り抜く。
 その攻撃は、源郎斎の逆胴(左胴)を狙ったものだ。
 脇差が邪魔になるために、少し上を狙っての左薙ぎだ。
 しかし、源郎斎は体を入れ替えるようにして、澄香の背後に回り込む。
 見事な足捌き。
 源郎斎は、澄香の背中に刀を突き出した。
 澄香は振り返らず、そのまま前へ飛び込むように飛ぶ。
 源郎斎の刀は空を切る。
 澄香は、一度転がり起きあげると共に体勢を立て直すと同時に前に出ようとする。
 だが、そこに源郎斎の蹴りが入る。
 それは、澄香の脇腹に直撃した。
 澄香は横に飛ばされた。
 地面に転がると、そのまま勢いよく地面の上を転がっていく。
 澄香は、ようやく止まると顔を上げる。
 息が詰まりそうになる。
 口の中に鉄の味が広がる。
 だが、まだ立てる。
 澄香は立ち上がる。すると、源郎斎が声をかける。
 それは、どこか憐れむような響きがある。
 まるで、澄香のことを見透かしているかのような言葉だった。
 源郎斎は告げる。
 それは、澄香にとって残酷な宣告だった。
「助けてやろうか?」
 彼の言葉が、澄香の心に突き刺さる。
 澄香は怒りを覚えた。
 この男は、澄香のことを見下している。
 そして、その心を折ろうとしていた。
 澄香は、刀を構え直そうとする。
 だが、足が動かない。
 源郎斎の言葉によって、心が折れかけていた。
 そんな彼女に対して、源郎斎は更に言葉を紡ぐ。
「女を殺すのは俺も本意ではないが、鬼哭館は御老公の傘下にある。ただという訳にはいかんが、命は助かる。角間の首もくれてやる。だから、負けを認めろ」
 源郎斎の口調は、どこまでも冷たく突き放すものだった。
「……条件があるということか」
 澄香は訊く。
 源郎斎は、冷酷に言い放つ。それが当然だと言わんばかりに。
 そして、それは澄香の心を完全に打ち砕く。
「御老公の子を産め」
 源郎斎は、そう言った。
 澄香は息が詰まった。顔を上げ源郎斎を見上げる。その眼は驚愕に見開かれていた。
 彼は、澄香を睨みつける。
 その視線は鋭く、そして冷たい。
 澄香は、何も言えなかった。
 彼は続ける。
 澄香を追い詰める。
 源郎斎は、澄香の心の内を暴こうとする。
「ドナーが未だに誕生していない以上、未だに候補は必要だ。そうすれば、少なくとも命だけは助けてやれる。その子が適合者だった場合、その身は一生安泰にもしてもらえるだろう。どうだ?」
 それは、澄香にとっては屈辱的な要求だ。
 澄香は父の首の入った木箱を見る。
 一瞬だけ考える。
 だが、すぐに答えを出した。
 答えは決まっている
 その答えを口にする。
 それは、自分の思いを全て込めた一言だった。
「黙れ下郎!」
 澄香は、はっきりと拒絶の意思を示す。
「女と見れば、子を生むだけの存在にしか見えないのか。奴のような男に、私を好きにさせるものか! 仮に敗北し、この場で殺されるならば、私は、士族として、この場で腹を切って果ててみせる!」
 澄香は、精一杯の抵抗を見せる。
 彼女は構える。
 それを見た源郎斎は、残念そうな表情を浮かべる。
 それは、彼にとって、とても悲しいことだった。
 澄香が、そこまでの覚悟を決めているとは思わなかったのだ。
 そして、源郎斎は思う。
 目の前の少女は、あまりにも純粋で美しいと。
 だからこそ、源郎斎は悲しくなる。汚れきった自分自身に。
 同時に、澄香の精神の美しさと気高い魂に敬意を示していた。
 源郎斎率いる鬼哭館は、黒瀧の武力として影から支えつづけてきた。それは、黒瀧の繁栄と共にあったからだ。
 黒瀧は、日本の経済成長と共に大きく力をつけていった。
 そして、黒瀧は鬼哭館の後ろ盾となり、様々な便宜を図ってきた。鬼哭館にとって、黒瀧は主であり、その庇護を受ける立場であった。
 だが、常に庇護にあった訳では無い。
 鬼哭館自身も、独立した経済活動を行っており、その力は黒瀧なしでも充分に活動できるだけの経済力を持つようになった。
 源郎斎は、ずっと考えていたのだ。
 いつかは、この関係は終わるのではないかと。
 その時が来たら、自分は何をなすべきか。
 そして、結論が出た。
 黒瀧からの独立だ。
 鬼哭館は、黒瀧の敵に対し武力や暗殺を請け負っていたが、次第に隆元の私兵として動くようになり、今回のような御老公の私欲で動くことはなかった。
 御老公の権力基盤が揺らいでいる今、黒瀧そのものが鬼哭館に牙を向ける可能性は高い。
 だから、彼は考えた。
 鬼哭館が独立できるだけの力を蓄えるまでの時間を稼ぐ方法を。
 そして、それは彼の中に既に出来上がっていた。
 源郎斎は、今回のドナー計画に関わることで、黒瀧に対する切り札にしようとしていた。
 誕生したドナーを使って隆元が治療を成功させた時が、黒瀧と完全に袂を分かつときだと決めていた。
 源郎斎は、澄香に告げる。
 それは、彼の決意表明だった。
「そうだな。誰が好き好んで、あんなジジイの子供を産みたいものか。俺も若ければ、もっと違ったかもしれないがな」
 源郎斎は自嘲気味な笑みを浮かべる。
 それは、どこか寂しげなものだった。
 だが、その瞳には強い意志があった。
 澄香が見つめ返すと、源郎斎は門弟に対し告げる。
「この勝負。誰も手出ししてはならん。例え俺が倒れることになってもだ!」
 そこには、もう迷いはなかった。
 澄香は問う。
「貴様が望むものはなんだ?」
 源郎斎は答える。
「鬼哭館の始まりは、戦後の闇市の治安維持だった。人々を脅かす鬼。それを哭かせる存在となって、鬼を斬るために剣を取った。
 その理念に立ち返りたい。最早、それは叶わぬことだがな」
 澄香は答えない。
 ただ黙って聞いていた。
 源郎斎は更に語る。
 それは、まるで自らの心を吐き出すかのように。
「こんな時代だが、純粋に剣士として生き剣の道に邁進(まいしん)したかった」
 その言葉に、澄香は何かを感じ取る。
 それは、彼なりの願いだった。
 それは、澄香への敬意でもあった。
 澄香の呼吸は落ち着いていた。
「そうか。なら、この勝負。私は、母の(かたき)討ちとして使わせてもらうぞ!」
 そう言うと、澄香は刀を左八相に構える。
 そして、静かに目を閉じた。
 精神を集中させる。
 その瞬間、澄香の世界から音が消えた。
 彼女の心の中には、母との思い出だけが蘇っていた。
 母はいつも優しかった。
 母が好きだった。
 そして、父もまた誇りだった。
 父は厳しい人だった。
 だが、それは自分のことを思ってのことだと分かっている。
 自分が辛いときには、必ず助けてくれた。
 父の背中は大きかった。
 澄香は、二人のことが好きだった。
 二人とも澄香にとってはかけがえのない家族だった。
 だからこそ、許せなかった。
 父を殺した隼人が、母を殺した源郎斎が。
 澄香は、目を開く。
 その眼は真っ直ぐに前を見据えている。
 澄香の心に、再び炎が灯る。
 澄香は、心の内に燃える怒りの炎を刃に乗せる。
 それは、澄香の覚悟だ。
 澄香は駆ける。
 彼女は、ただ一筋の矢となり、源郎斎に向かっていく。
 源郎斎は、それを迎え撃つ。
 澄香は右袈裟懸けに斬りかかる。
 源郎斎は左へと動く。
 開き足。
 前進してくる相手を躱す。相手の攻撃や、動きをかわしたりするときに使う、相手を中心に円を描くような動きをするための足捌き。
 澄香の刀が躱される。
 返す刀で、澄香は源郎斎が避けた右の空間に向けて刀を薙いだ。
 しかし、そこに源郎斎は居なかった。
 源郎斎は前へと進みいで、体を捻り、澄香の右後方に位置取りをしていた。 
 源郎斎は左脚を軸にしながら体を回転させ、回避するだけでなく、澄香の死角に入ったのだ。
 だから、澄香の横薙ぎを無意味にさせた。
(しまった!)
 澄香は逃げるように身を引く。
 源郎斎は、その勢いのまま澄香の右肩を薙ぎ払った。
 澄香の肩口から血飛沫が上がる。
 確かな手応えが源郎斎にあった。
 だが、澄香は止まらない。
 痛みに耐えながらも、そのまま振り向きざまに刺突きを放つ。足元が定まっておらず、完全に手打ちの一撃。
 腕の力と、刀の重さしか活かせないので、致命傷にはならないが、それでも繰り出さない訳にはいかない。
 澄香が今できる、精一杯の攻撃。
 だが、源郎斎は、半身で避ける。
 そして、澄香の腹に蹴りを入れた。
 澄香は、地を転がる。
 咳き込み、左手で腹部を押さえる。
 だが、澄香はすぐに立ち上がる。
 澄香の瞳には闘志が宿っている。
 それを見つめる源郎斎の目には哀れみの色があった。
 彼は、澄香に告げる。
「勝負あったな。その傷では、満足に刀を触れまい」
 それは、勝利宣言だった。
 確かに、澄香の受けたダメージは大きく、これ以上の戦闘は不可能だろう。
 だが、澄香は諦めていなかった。
 彼女は、セーラー服のスカーフを解くと、右手と柄を結び付ける。
「これで、刀を取り落とすことはない」
 澄香は乱れ髪の向こうから源郎斎を睨む。
 その姿を見た源郎斎は思う。
 なんと気高く美しい姿だろうかと。
 源郎斎は、彼女に告げる。
 それは、彼が彼女に送る最期の言葉だ。
「見上げた根性だ。殺すには惜しいが、次で終わらせてやる」
 源郎斎は、構える。
 それは、澄香にとっての最後の剣だ。
 澄香も応えるように構えを取ろうとするが、刀が持ち上がらない。
 そして、膝が崩れる。
 その様子は誰が見ても限界だった。
 止めを刺せる絶好の機会ではあったが、源郎斎は動かなかった。
 その時、隆元が声を上げる。
「源郎斎。面白かったぞ。だが、もうよい。殺せ」
 源郎斎は、隆元の方を向く。
 隆元の顔は、どこか嬉しそうだった。
「風花澄香、貴様の剣。見事だった」
 源郎斎は澄香に近づき、刀を振り上げる。
 そして、無慈悲に振り下ろした。
 澄香の意識は薄れていく。
 視界は暗くなり、何も見えなくなる。
「クソ……」
 (かたき)も取れず悔しくて仕方がなかった。
 澄香は、自分の弱さに絶望していた。
 源郎斎の刀が澄香に迫った時、その刀を打ち据える光があった。
 その輝きが、澄香の命を救った。
 光が、地面に刺さる。
 それは、脇差だった。
 澄香は、それに見覚えがあった。
 源郎斎は、その場を離れ周囲を警戒する。
「誰だ! この勝負一切の邪魔は許さんぞ!」
 だが、返事はなかった。
 代わりに、源郎斎は山門に立つ少年を目撃した。
 黒い打裂羽織を着た、少年。
 《なにがし》の諱隼人であった。

(第47話 『魔物』に続く)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

 諱隼人《いみな はやと》

:現代においても刀を持ち続ける高校生。剣士として生き人を斬ることを生業とする。

 《なにがし》と呼ばれる剣の使い手で、《闇之太刀》という剣技がある。

 鍔の無い刀・無鍔刀を使う。

 風花澄香《かざはな すみか》

:戸田流の剣士。高校生。

 依頼を受けて麻薬の売人をしていた鷹村館・世戸大輔を斬る。

 《なにがし》の情報を求め、隼人を討つために動く。

 月宮七海《つきみや ななみ》

:黒いチュールワンピースに、黒のブラウスを羽織った妖艶な女。

 金次第で何でも請け負う、社会の裏に潜む仕事の斡旋人。

 隼人に、麻薬の売人であった杉浦正明の殺しを斡旋する。

 霧生志遠《きりゅう しおん》

:最古の剣術流派・念流の剣士。

 道場では師範代を務める、美しい男性。

 澄香に隼人を斬る助太刀を依頼される。

 紅羽瑠奈《くれはるな》

 居合道を志す少女。

 中学生時代に隼人と知り合う。

 |漆原《うるしばら》|夏菜子《かなこ》

 風華澄香のビジネスパートナーを務める。

 志良堂源郎斎《しらどう げんろうさい》

:鬼哭館の館長。鬼面の剣士を抱える。

 御老公とという老人に従い、隼人の始末に刺客を放つ。

 木場修司《きば しゅうじ》

:鬼哭館・師範代。源郎斎の右腕的存在。

 御老公

:氏名は現在不明。源郎斎を従える。

 杉浦正明に人身売買による女の供給をさせていた。

 高遠早紀《たかとう さき》

:隼人のクラスメイト。遅刻の常習者故に、生徒会副会長・小野崇から叱責を受ける。離婚で父親がおらず、母親、弟、妹と暮らす。

 友人に相川優、小森結衣が居る。

 黒井源一郎《くろい げんいちろう》

:質屋の主人。隼人に刀を売るアウトロー。

 隼人とは、お得意様の間柄。

 黒井沙耶《くろい さな》

:源一郎の娘。小学生。

 隼人とは顔見知り。

 

 世戸大輔《せと だいすけ》

:鷹村館の師範代。

 剣士でありながら女をターゲットに麻薬の売人を行う。

 《なにがし》の情報を得る為に、澄香によって斬殺される。

 杉浦正明《すぎうら まさあき》

:人身売買を行い、御老公に女の供給を行っていた男。

 隼人に始末される。

 《鎧》

:三人組の流れの剣士。志良堂源郎斎より、隼人の刺客として向けられる。

 「数胴」「袖崎」「兜」という名前。

 世戸重郎《せと しげろう》

:50代の剣術道場・鷹村館の師範。

 世戸大輔の父親でもあるが、道場の名誉を守る為に、澄香に大輔の殺害を依頼する。

 澄香の諱隼人のこと、《なにがし》が《闇之太刀》という秘太刀を使うことを伝える。

 小野崇《おの たかし》

:隼人が通学する高校の生徒会副会長。

 剣道を行うが、責任が強すぎる一面がある。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み