23.放課後

文字数 2,688文字

高校1年の10月は、今思えばあっという間にやってきた。

入学後。学習するべき教科も増え、それぞれの内容も中学校とは比べ物にならないくらい難しくなった。要領の良くないわたしは、特に苦手な数学の授業中は、ひたすら板書を書き写すので精一杯で、今でも授業のないより、そのときの感覚のほうをよりリアルに思い出す。
「課外授業」という名前の0時間目から、時に7時間目まで。朝から夕方までの間に先生がランダムで飛ばしてくる「この問題を・・・・・・」の先の言葉を、汲々(きゅうきゅう)として恐れていた。

もともとわたしは、中学校でもとりたてて成績優秀というわけでもなかった。
それこそ2年生の中頃から自分でも漠然と危機感を感じて塾通いを始め、そこでの指導がなんとか功を奏したというのが正確なところだ。
つまり、自頭がいい、というわけではない。少なくとも学校の授業を聞いて、自分だけの力でそれを消化して受験に臨む、ということは、わたしの中ではなかった。まあ、周りの子のことを今思い返すと、むしろそういう子のほうが少なかったとは思うけれど。

そんなわたしの場合、中のやや下の成績から中くらいに伸ばした成績と、まったくやりたくもなかった学級委員への立候補や、授業中、授業後の質問など、いわゆる内申点(後から調べると、正確にはと「内申書」というものがあるらしく、両者は少し異なるものらしい。いずれにしろ、通っていた塾では、教科の成績と「内申点」を上げろと言われるのが常だった)を稼いで、進学校にしては「自由な校風」とされていた志願校になんとか受かった、というのが実際のところだ。
もちろんそこも、偏差値60とかなんとか、そんなすごいところではなかった。
偏差値も平均値より3か4か、とにかく平均値よりも少し高い程度の学校だったのだけれど、当時のわたしにしてみれば最難関の高校と同じようなもので、合格発表の掲示板に自分の名前を確認したときは、半泣きで家族に電話したことを、今でも覚えている。

特に苦手だった科目は理数系、特に数学の類で、これについては今でもそうとう苦手意識がある。サインコサインタンジェントとでも聞けばアレルギーが出るような気持になるし、大人になってしまってはそれ以上で、自信があるのは、生活のあれこれをこなすうちに身についた、割引の計算くらいだ。友達の一人だった(かなで)ちゃん)はよく、「数式ってけっこう単純だよ。一度、これはそういうものなんだ、って分かれば」と言っていたけれど、わたしにはその感覚はいまだに未知の領域だ。

今だから笑い話・・・・・・・にはならなくて、でもまあ、少しは笑えるかなという話なんだけど。
中学校でのわたしの数学の成績だけは、どう頑張っても最後まで伸びなかった。もともとは20点台をとるようなありさまで、塾に居残って先生に個別指導をお願いして、ようやく60点近くに上がった、というくらいには。
最初の何題かの基礎問題と、因数分解。あと、比較的ミスの少なかった「証明」問題。それだけはとにかく逃さないように。それが最終的に先生と話し合って出したわたしの方針で、関数の問題や、連立方程式なんかは、正直自分の中では捨て問題扱いしていたといえば、なんとなくわかってもらえる・・・・・・かな。

そんなわたしを待っていたのは、まあ必然的にというか、テスト後の赤点、毎回の補習。付き合ってくれたのは、同じグループの友達もだったけど、もっぱらは友美だった。終わりのない登山をするような気持ちで教室で膿んでいると、購買で買った4個入りの小さいドーナッツを持って、「やっほー!」と、いつも駆けつけてくれた。

出会った日に友美はわたしのことを「文武両道」(そう)と評していたけど、実際その言葉が似あっていたのは、友美のほうだった。強いていえば友美が当初苦戦していたのは「古典文法」とその周辺くらいで、それを除けば理数系の科目も含めて、軒並み中の上か、上の成績を収めていた。一応「進学校」であるわたしの高校で、わたしには夢物語のような偉業だった。
それでいて、誰にでもくったくない、それでいてでしゃばらない態度なので、童顔とルックスも相まって、一部の女子を除き、クラスの中でも比較的だれにでも好かれていた存在だった。

「のぼりん、お疲れ! 今日は何、不等式?」

「今日は、って。まあそうなんだけど。これと、これと、これ・・・・・・」

「多い多い多い!よっしゃ、ささっと片付けてミスド行こ、ミスド!」

ペキペキとドーナッツの袋を開けながら、友美が言った。
この後ミスドかと、苦笑しながら、いちおう「太るよ?」と言ってみる。

「んなわけないじゃん。明日また走りこんでくるし。あ、のぼりんも来る?」

「・・・・・・遠慮します」

「あ、ミサちん、お疲れー!」

廊下を通り過ぎていくのは、友達の中村美沙(なかむらみさ)ちゃん。
早くも都内の大学を目指すことにしたということで、最近予備校通いを始めたらしい。「行ってらっしゃーい!気を付けてね!」という友美の声に、「あいよー!」と敬礼して、去っていく。友美とはまた違った意味で、こざっぱりした、美人系の子だ。
漠然と、すごいなあと思った。もちろんまだ進路調査票なんて回ってこないけど、今のうちから将来だったり、やりたいことがあるんだな、それに向かって、ちゃんと進めているんだなと。

姉の冴香が薬理大に行きたいと言ったとき、わたしはかなりというか、そうとうにびっくりした。そんなことをほとんど聞いたことがなかったし、片隅に積み上げられた過去問の冊子も、「なんか難しそうななんとか大学に行くんだろう」としか思っていなくて、合格祝いのときにそれをぽろっと言ったら笑われた。

「前にさ、うちらが子どものとき、薬局にすんごい優しいお姉さんいたじゃん。症状でもないのに、どうでもいいうちらの話も適当に聞いてくれてさ。それでたまに、それ、病院で一度見てもらったほうがいいよ?とか。ああいう人、ちょっと憧れてたんだよね」

そこを叶えて、正確にいうと叶える道に進んでいけるのが、まっすぐにその道を見据えていけるのが、姉の強さし、わたしはそれを今も、密かに誇らしく思っている。
真夜中の受験勉強、勉強机で声を殺して泣いていた、その背中も。

友美から、具体的のことを聞いたことはない。
けれど、友美からはなんとなく、姉に近いものを感じる。

わたしも頑張ろう。
とりあえず、目の前のことに集中しよう。
冴香や友美や、美沙ちゃんにまだなれなくても、わたしにもきっと、わたしの道が見つかるかもしれないから。

そう思って、消す文字も書けていなかったノートに向き直った、そのときだった。
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