3.水面

文字数 2,414文字

わたしの三度目は、はたして正直だったのだろうか。

「そう。お疲れ様。余ってる有給のこと、頼むよ」
数秒こちらを見た上司の目は、すぐにPCに向き直る。

ご迷惑をおかけしましたと頭を下げ、だれの視線も感じないままデスクに戻る。
もともとそんなに荷物もない。段ボールは、ひとつで十分。
二十五歳の冬に出した二度目の退職願は、あっさりと受理された。

初めての職場は、地元の中堅企業の事務だった。
わりと忙しいところで、研修を終えて数か月すると、だんだんと残業も増えていった。とはいえ残業といっても、別に120時間系のブラックだったわけでもない。
たぶん、10~15時間の周辺をうろうろしていたくらいじゃないかと思う。

というか、どちらかというと今の時代にしてはまあホワイト寄りの場所だった。
おはようございますと、お疲れ様ですと、業務上のやりとり。少しの談笑。

問題は、それ以上のことが、わたしにはいつまでもできなかったことだった。

べつに人間関係が嫌いだとか、そういうわけじゃない。
強気でも孤高でもなんでもないのに、わたしはむかしから、笑う、楽しむというのが苦手だった。

わたしが、小学生のとき。父がほろ酔いでどこからか買ってきた、緑色の小さな石を、家に帰って宿題が終わると、ずいぶん長い間、わたしは毎日のようにそれを見つめていたらしい。

初めて就職が決まったとき、「まだ小さいのに、あのころは将来がちょっと心配になったわよ」と、苦笑交じりの母からその話を聞いた。同級生が遊びに来たのも数えるほどで、当時の母はずいぶん心配したらしい。

そう言われて思い出す限りで、自分の部屋に戻ったときに調べてみた。いろいろ見比べてみると、たぶん「マナカイト」という水晶の一種に似ていた気がするけど、おおかた露店かなにかで売っている類のものだったのだろう。本物の水晶は、ほろ酔い気分で買えるようなものじゃないし、そもそも父がそんな店に行くわけがない。

けれどその石を、わたしはけっこう長い間、手元に持っていたらしい。「水晶」という言葉は知らなくても、漠然と、これはとてもきれいなものなんだという意識があったのかもしれない。

それにしても、「ふり」というのは、時間が経つと、なぜだかわりと簡単にほころぶらしい。

笑顔、元気、積極性、楽しみ、(一時的なものであっても)充実、趣味、仲間。

誓っていうけれど、わたしもそうしたものは、とくに社会人をやっていく中では、全部が全部じゃないけどすごく大事なことで、足りないものはクロスワードの空欄を埋めるように、それなりに考えたりもした。
さすがに大きな声でハキハキととまではいかないまでも、出社してすぐのあいさつは欠かさなかったし、同じ仕事場の人たちだと思うと、それなりに親近感だってわく。少しでも職場の利益になるように、読んだこともないビジネス書だって読んだ。

最初は、そんなわたしのことを、みんなが「努力家」だと歓迎した。
それでも、やっぱりそれは、どこにいっても「ふり」だった。
もちろん第一は、わたしの仕事の上達がさほどではないということでもあるだろうけど、もっといえば、いろいろな意味での「からぶり」だった。

自分のことで唯一腑に落ちたのは、当時しばらく一緒の案件にかかわり、面接官の経験もある先輩から言われた言葉だ。

「鈴原さんってさ、それなりに話して、何回飲みに行っても、履歴書より先のことがなにもみえないんだよね」

同じ類の言葉は、きのこの胞子みたいに、徐々にまわりに浸透していたらしい。

ということを、よくある話だけれど、昼食前に立ち寄った、トイレの個室で知った。わたしが「なにを考えているかわからない」人間で、「じつは根暗」で、「いろいろやったり居残っているわりにはたいして使えない」人間で、小さい職場の複数名にとって、「なんかじめっとしてきそう」な、「あんまり好きじゃない」人間だということも。

ある朝。
あれ?と思った。身体が、動かない。日ごろから早めに起きる方ではあるが、出社しないといけない時間はそれでもせまってくる。なんとかギリギリの時間に連絡ができて、その日は体調不良で休ませてもらった。
もちろん、病院にはいった。異常はなかった。

だんだんと、そういう日が増えた。診察券は増えたけど、原因はわからない。わからないから、会社にも説明しようがない。上司の心配の言葉は、徐々にため息になり、謝罪に対する返答は、PCのキーを叩く、ひどく規則正しい音だけになった。

入社2年目。最初の会社を、わたしは辞めた。
じつはやっと仕事を覚えて、これからも頑張ろうと思っていた。

二度目は派遣で、地元に近い小売業の事務職に就いた。3か月が近くなったころ、ちょうど欠員が続き、運よく正社員登用された。わたしも両親もこころの底から安堵した。

けれど、だめだった。

それは人間関係いろいろあるから、そりの合わない人間だっているし、だいたいわたしだってそうだ。そのまえに、会社は働いて給与をもらう場所なのだから、割り切って目の前のことに集中して、空いた時間にリセットすればいい。

たぶん、それって正しい。だけど、わたしはどんどんそれが下手になった。
下手なことが増えすぎて、叱責されることも増えた。償いのような気分で残業を繰り返して提出した資料でまたミスが出てくる、そんなことも続いた。

冷蔵庫には、食べ物より目立つ、毒々しいエナジードリンクが次第に増えていった。
遅刻しないギリギリまで今日こそは、今日こそはと、何を望んでいるのかわからないことを思って、朝食代わりの、逆流しそうなエナジードリンクを流し込む。
そんな生活が続いたある日、わたしはよりにもよって、資料を渡そうと立ち上がった瞬間、中身をぶちまけていた。

帰り道。とくに悲しくはなかった。泣きたいような気がしたけど、たぶんちがった。
ただ、「マナカイト」もどきにすら、わたしはなれなかったんだなと、なぜか思った。

そういう、わたし。
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