29.交換

文字数 2,716文字

ちっぽけな感傷に浸っていると、あっという間に朝が来た。

単に食べたいだけかもしれないけれど、血糖値が下がっては仕事にならないので、
今日は目についた食パンに、はちみつを広げることにした。
前に帰省したときにもらったきりのそれを、ようやく開封する。

年末に立ち寄った久しぶりの実家で、当たり障りのない話だけして、
そろそろと帰ろうとしたときに、埋め合わせのようにもらったものだ。
頂き物だということで、ラベルにはなんだか高級そうな養蜂所の名前が見えたけれど、帰ってネットで調べたら、実際けっこう高価なものだった。

トースターにパンを放り込む。
ついでにコーヒーを淹れていると、はぁ・・・と、ため息が出た。

「言葉って、難しいよ・・・」

文脈無視の独り言は、けっこう核心をついていたりする。

あのころ友美が言ってくれたこと、あのころわたしが言えなかったこと、大人になったわたしが、まだ言えないでいること。あのとき立花さんたちに言えなかったように、喉から無理やり飲み込んでしまうようなことも。

ケトルで湧いたお湯の音。気がついて、慌てて火を止める。
今日はこれから仕事だ。いつまでも感傷に浸っている時間はない。

まだ朝の6時半だというのに、窓からは熱のこもった朝日が差し込んでくる。
雨の時期を通り越せば、今年もまた殺人的な暑さが訪れる。

そのころまでに、わたしはどうしているだろう。
あの子に、佑都くんに対して、どうしているのだろう。
大人として、というより、わたしとして。わたしの言葉で。
それならわたしはどんな言葉を、持ち合わせているというのだろう。

葉桜と、雪柳。温かい太陽の光と、公園のベンチを思い出す。
季節の輝きに彩られたあの風景の中で、あの子の目が湛えていたのは、
悲しみの色だった。どこにも折り込むことができない、悲しみの色。

考えすぎなのかもしれない。余計なことを。
大丈夫だよって、そんなことを言うべきなのかもしれない。
けれどもわたしは、どうしてもそれを言うことができなかった。

ぼんやりしながらとろりと垂らした、はちみつの黄金色。
修学旅行先で見つけた、貝を閉じ込めた琥珀の色に、よく似ていた。



「鈴原さん、最近元気なくないですかー?」

「え、そうかな?」

隣で作業する長瀬さんの不意の一言に、データを打ち込む手が止まる。

「・・・そう見える?」

「んー、わかんないです」

わからんのかい!と、口に出さずにツッコミを入れる。
とはいえ、意外に勘が鋭い子なのかもしれないと思いながら、PCの画面に向き直る。

昨日の夜は、なんだかんだでいろいろに浸っていたせいか、少し寝不足なのかもしれない。それに朝食はちみつトーストと、加えて今日の依頼量は、そんなに多くはない。繁忙期は一応は過ぎていて、今はひとまず落ち着いているというところか、最近の業務は、少し少なめという日が続いていた。時給制なので、正直にいえば、このほうがありがたい。ずっと続けば続いたで、嫌になるだろうけど。

キーボードを叩くカタカタ音。とはいえ、いつも通り、騒然としている編集部。
電話を置いて飛び出していったのは、宮原さんと、続いて新人の金子(かねこ)さんだろう。様子からして、あまりいい予感はしない。

けして、こちらが遅くやっているというわけではないけれど。
同じ会社にいながら、まったく流れている時間が違う。
営業の中川さん曰く、隅に置かれている段ボールには、私物から共有になったという寝袋が複数入っているという。正直、ホラーだ。時間どころか、住んでいる世界が違うというしかない。

隣のデスク、校正士の須藤さんが半休を取っているのと、今日の依頼数が少ないためか、就業時間中は口数が少ない長瀬さんが、また話しかけてくる。

「悩みごとですか? 今日のランチ、一緒行きません? あたし、美味しい店知ってますよ?」

「ありがと。でもわたし、人が多いところちょっと苦手だから・・・」

それに、わたし好みの美味しいお店なら、ミステリーショッパーの副業でそこそこ情報はあるとは、もちろん言えない。正規に許可はもらっているとはいえ、後ろめたいとも違うけれど、なんとなく、あまり知られたくない。
登録したサイトには思い出したころにふらっとログインしてふらっと立ち寄ることもあったけれど、そういえばジェルモーリオを見つけてからは、そもそも思い出すこともまれになってきていた。・・・って、それよりも・・・・・・。

「なんか、長瀬さんこそ、大丈夫・・・?」

口にする言葉とは裏腹に、影が差しているというか、なんとなく顔色が暗い。

「あー・・・、あたし、あれ重いんですよ。昨日からなんですけど、今度の、きつくて」

ああ・・・、そういうことか。
思い出して、ちょっと待ってねと、足元の鞄を探る。

「これ、前に買ったのだけど、よかったら使って。お腹に貼ると、少しは楽だよ」

わたしが取り出したのは、貼るカイロ。デスクの下で、長瀬さんに差し出した。

「え、こんなのまだ売ってるんですか? 6月ですけど」

「わたし冷えやすいから、冬に買いすぎちゃって。入れっぱなしになってたので、わるいけど・・・」

言い終わる前に、なぜか手を握られていた。

「鈴原さん・・・マジ、神。このご恩は忘れないですっ!」

言うやいなや、行ってきますっ、と小走りで駆け出していった。
あれ、響かないかな・・・。

元気がないのは、わたしではなくて、長瀬さんだったのだろう。
PC作業とはいえ隣同士で、なんとなくいつもとは違うとは思っていたけど。
こういうことなら、もっと早く気がつけばよかった。
まあ、こうして気がついたのだから、結果オーライか・・・。

缶コーヒーを傾けたり、振り返ったり、喧騒をチラ見したりと、そわそわしながらゆっくり目にキーを叩いていると、少しして長瀬さんが戻ってきた。
指で、「OK」サインを送ってくる。

「効いた?」

「んー。まだわかんないですけど、さっきよりはいい気がします」

「今日、なんか冷房効いてるのもあるかもね。外は暑いけど、こういうときに貼っていいのかな」

「どうでしょうね。けど、鈴原さんホントありがとうございます! 嬉しいです!」

満面の笑み。心なしか、さっきよりは顔色がよくなったような気がする。
あ、そういえば。

「長瀬さんって、下の名前、友美(ゆみ)さんだったよね」

「あ、覚えててくれたんですか? そうですー。どうかしました?」

ううんと、面映ゆくなって画面に向き直った。
友美(ともみ)と同じ字なんだなと、まっすぐな笑顔が、ちょっとくすぐったくなったのだ。

その日の退勤時間。

例の「お裾分け」はもちろんなく、代わりにランチのときに買ったらしいフロマンタンを手渡して、長瀬さんはいつものように、お疲れ様です!と、帰っていった。
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