20.問い

文字数 2,693文字

「鈴原さん、今日はその辺でいいよ」

須藤さんにそう言われ、わたしはずっとにらめっこしていた紙面から顔を上げた。腕時計を見ると、17時を少し回っていた。

今日はいつものデータ入力業務ではなく、校正のほうの業務の日だった。
まあ、派遣の立場なのは変わらないし、臨時なのだけれど。

「時間、忘れちゃいますね」

そう言うと、須藤さんは「まあね。わかる」と、苦笑した。
そして、須藤さんはすぐに原稿用紙に向き直った。
ペンの音が、素早く走る。

須藤時音(すどうときね)さんは、現在わたしが校正の業務に回っている際に、先輩として机を並べている、正社員の校正士の方だ。30代半ばで、お子さんが2人いると聞いたことがある。シャープな顔立ちで長い黒髪を後ろに束ねた、しゅっとした感じの凛々しい美人。わたしはひそかに憧れていたりする。

数か月前、須藤さんよりもベテランの校正士、都築良子(つづきよしこ)さんがご家庭の事情で退職することになり、校正実務講座を修了しているという理由から、佐藤編集長は、わたしを事実上の都築さんの代役に指名した。
ただし、正社員登用の予定はなく、あくまで「来年度半ば」まで、だけど。

社内外でのやり取り、校正記号の使い方、その他の校正実務の基本的なところを都築さんから数日指導していただいて、こうして須藤さんと机を並べることになった。
ちなみに都築さんは、「鈴原さんなら大丈夫」と言ってくださったけれど、それは都築さんの穏やかな性格と、丁寧で根気強い指導のおかげだ。運がよかったと思う。

須藤さんに対しては、正直言うと、最初は少し怖いと感じていた。
もともとクールな顔立ちなので、仕事中の真剣な様子に声をかけるのにも余計に勇気がいったし、これは仕方のないことなのだけれど、須藤さんの忙しい時と、わたしのミスが重なることもあった。

「校正やるほうが問題起こしちゃいけないの、わかってるよね?」と、じっと真顔で言われたときは、自分への情けなさも手伝って、正直半分くらい泣きそうな思いだった。
「そう」とだけ言われて作業に戻った須藤さんを見て、思わずうつむくしかなかった。
どちらかというと職人気質な方で、業務上以外の会話をすることも少なく、正直な話、わたしは須藤さんが少し苦手だった。

とはいえ、須藤さんは叱りっぱなしの人ではなかった。その日は、何度目かの須藤さんからの指導を受けた帰り道。ところどころ硬いシャッターの下りた商店街の道を行きながら、それまで受けた指導の苦い記憶の部分を反芻していた。

きっかけは、わからない。今日は夕飯に、その辺の総菜屋さんで何か買っていこうかと思ってふと立ち止まったときだった。わたしはふと、受けた指導のことをまとめたノートを鞄から取り出した。

本来わたしは、物事の全体を見通してまとめる、そんな作業は苦手なほうだ。
けれどわたしのノートを見ると、いつの間にか業務上の注意点は端的にまとまっていて、まとめ直せば、ハンドブックとしても使えそうなものになっていた。

冷たいと感じた須藤さんの一言の指導が、端的な指導の要点だったと、そのとき気づいた。必要以上の注意はしない。例えば前に勤めていた場所のように、「だいたい鈴原さんはね・・・・・・」のような、そういう言葉がなかった。かといって、見放しているわけでもない。思えば、どんな日でも須藤さんはこちらを見てあいさつをしてくれていたし、こちらを叱るときは、なんというか、その場面が悪目立ちしないときばかりだった。

もちろん、それは半ば、わたしの勝手な解釈だったり、推測だった。
けれどけっきょくのところ、それは当たっていたと思う。

わたしの目で原稿を見ているんじゃないかと思うくらい、須藤さんの指導は適格だった。わたしは、とにかくそれを取りこぼさないで頑張ろうと、はっきり思った。

ある日の昼休憩。そういえば須藤さんがよく、デスクでお弁当箱を開いているのに、わたしはようやく気がついた。卵焼き、ミートボール、プチトマト。ちらっと見えたのを、今でも覚えている。

「お子さんの分、ですか?」

内心、じつはまだ恐る恐るの質問だった。そして須藤さんのほうも、少し驚いた顔をしていた。

「そう。思春期の子って大変だけどね。ま、わたしも大変だったけどね」
そう言って、須藤さんはいたずらっぽく笑った。

それを機に、須藤さんの隣、わたしのデスクで、わたしも昼休憩を過ごすことが増えた。とはいえ、昼休憩中も会話に花が咲くというわけでもなく、どちらかというと須藤さんがなにやら勉強していたり、考え事をしているときも多かったけれど、気にならなくなった。

あれはある日の、昼休憩半ば。
「疲れた。コーヒー飲まない?おごるよ」と言ってくれて、お言葉に甘えた。
そのときもらったコーヒーの銘柄は今は新商品にとって代わられてしまったけれど、わたしは今もその銘柄を覚えている。そのとき、言われたことも。

「鈴原さんさ、校正係がしてはいけないこと、憶えてる?」

壁に背をもたれた須藤さんの、不意打ちの質問。

「え? あ、はい、間違いを間違わない・・・・・・ですよね」

思い返せば、日本語がおかしい。けれど須藤さんは、

「そう」

とだけ言って、「さて。午後の部、やろっかね」と、歩き出した。

格好いい背中だった。理由なんて、なかった。ただ、そう思った。
思えばそのときから、わたしは須藤さんの背中を追いかけているのかもしれない。

原稿をまとめ、須藤さんはじめ、部署の他の人にもあいさつして、会社を出た。
外はまだ明るく、けれど徐々に空気が湿り気を帯びて、重たくなってきた。
今年も、雨の季節がやってくる。去年は蒸し暑いばかりの空梅雨だったけれど、今年はどうなんだろう。電気代も、そろそろ考えないと。

商店街の近くの大型モールにさしかかると、中高生が制服姿で騒いでいる。
噴水の出る大時計の前で、たわいもない会話ではしゃぐ彼らを見て、正直うるさいとも思うけど、ちょっと微笑ましいような、羨ましいような気持ちになった。

笑い合って走る男の子たち。あの背丈は、中学生だろう。
元気。わたしが同じことをすれば、運動不足がすぐに露呈(ろてい)する。
ちなみに、チャンネル登録だけしたヨガの動画は、とうに隅に押しやられている。

割高だけど、自動販売機で水を買った。
がこん、と音を立てて、ペットボトルが落ちてきた。

じつはわたしは、少しだけ後悔していた。
いずれ須藤さんに聞きたかったことを、けっきょく飲み込もうと決めたことを。

「学校に行けなくてつらい思いをしている子に、何て言ってあげたらいいでしょうか」

須藤さんならあのときのように、答えてくれる気がした。
けれどわたしには、言えなかった。
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