6.葉桜

文字数 2,260文字

焼き菓子の残り香が消えるころ、ちょうど予備のノートが埋まった。
帰ってから、これをもとにしてレポートの清書を書く。

ぐぐぐっと背伸びして、ついでに首を回すと、思ったより盛大にごきごきっと音がした。
思わず周囲を盗み見てしまった。
奥の席で、色あせた本のページをめくるおじいさんがいただけで、気にも留めていないどころか、聞こえた様子もない。

最近出不精になっていて使わなくなっていたけど、そろそろ入浴剤のお世話になってもいいころかもしれない。そんなに行かないことだし、どうせなら、今あるドラッグストアのポイントも使ってしまおう。

わたしのレポートは、相関図のようなものを書くことから始まる。
感覚や記憶から語彙を呼び出し、ひとつひとつ紙の上に配置していく。

あのお店の味は、たしかにけっこう美味しかったけど、それ以上に、なんだかとてもやさしい香りがした。その「やさしい」のまわりに漂うあれこれを、言葉にして、配置して、文章にする。あれこれ迷って、いくつかの言葉と、最後の一文だけは決まった。

とはいっても、わたしは別に作家でもなんでもないし、そもそも言葉をそんなに知らないから、手をかけるわりには代わり映えのする文章がいまいち書けないのだけど。

あの感じは、パズルのピースを埋めるのに近い感覚だけど、ちょっと違う。
それがどんなものなのか、それこそ語彙が拾えなくてわからないのだけれど。

入ってみると、見た目より広い図書館だった。
外装は上塗りされてつやつやしたコンクリートで、どこか銀色を思い出した。
利用の順序をあまり覚えていなくて、ひとまず図書カードを作ってもらった。

作ってもらったカードをスマホケースのポケットにしまう。
案内板を見て奥のスペースに向かった。
平日の二時過ぎという時間帯のせいか、人はまばらだった。

主に調べもの用だろう。
少数だけど、大人も使用できる自由スペースがあったので、ありがたく使わせてもらった。

たぶん感染症対策で、そんなに長くはいられないだろうと思っていた。
けれど、感染症もある程度落ち着いてきたためか、出入り口の手指消毒のお願いを除いて、館内の滞在時間の制限は廃止しましたと、張り紙がしてあった。

それにしても、図書館に来るのも久しぶりだ。
「知る権利」の保証に基づいて設立されているというこの場所は、わたしには同時に静けさの権利を保障してくれる場所のように感じた。それはどこか、夜に似ている。まだ明るいけれど。

最初はそのまま帰るつもりだったのだけれど、並んでいる活字をみて、なんとなく気が変わった。そんな言葉をあてはめるほどのものかとも思うけど、職業柄、というものなのかもしれない。

世の中には、いろんな本がある。何を探すわけでもなく、書棚の間を歩く。
文芸、哲学、倫理学、心理学、医療、福祉、工学、建築学、経済学、政治学、その他いろいろ、聞いたこともないジャンルもたくさんある。

ちょっと変則で寄り道してみれば、手芸、服飾、ハンドメイドや、刺繍。
児童書、絵本ももちろんちゃんとある。

魔法でお菓子をつくる女の子の本も、お腹の空いたあおむしの本も、たくさんたくさん、生きたネコもいた。どれも今でもどうどうと棚に並んでいて、なんだかちょっとくすぐったくて、ほほえましい。

かと思えば、まるでミュシャのように綺麗な絵柄の表紙の絵本もあって、ちょっとどきっとした。スクラッチアートは見たことがあるけど、最近流行っているらしい大人の絵本というのは、ああいうのなのかな。だったらけっこう、好きかもしれない。

ほぼ一通りの書棚の間をぶらぶら歩いて、また入口のところに戻る。すれ違ったのは、小さいお子さんを連れたお母さんらしき女の人と、わたしより少し上くらいの若い男のひとと、時期的にはまだ早いんじゃないかな、帽子をかぶった男の子。

すれ違いざま、男の子とほんの少し肘があたってしまった。それだけなのに、向こうから「あ、ごめんなさい」と言われて、「あ、す、すみません」と返してしまった。どっちが大人なんだかと、ちょっと恥ずかしかった。

それにしても。そうそう、図書館って、こういう感じだった。大事にされている紙の匂い。物語の香り。ここにいるよって、なんかそんな気配がする。

カウンター前の「今週のおすすめコーナー」には、文具についてのいろいろな本が並べられている。
藍色のガラスペン表紙が少し気になる。けれどちょうど係のひとがやってきて、追加の本を並べ、配置を整え始めた。
少しだけ迷ったけど、あとにしよう。あの藍を、覚えていたら。わたしはけっこう、仕事のこと以外のことは、忘れがちなのだ。

それはともかく。そういうわけで、少しだけ空き時間ができてしまった。学生のときはちょこちょこ小説も読んでいたけど、ほんとうに数えるほどだったので、正直読める自信がない。

さっきの絵本のコーナーには、お孫さんだろうか。小さな女の子が絵本を開くのを、傍らのおばあさんがにこにこしながら見守っている。・・・あ、ちょっと思い出した。

少しだけ。少しだけ、鼻の奥が、つんとする。
けど、それはわたしにはもう遠いことだ。

振り返ると、係のひとの作業はもう少しで終わりそうにみえるけど、まだ終わってはいない。一冊一冊、そっと角度を変えて並べている。「こころがこもっている」というのは個人的には半分死語だと思っていたけど、やっぱりわたしはただのひねくれ者だ。

係の人の作業を少し離れてみていたい気もするけど、なんだかそれもどうかなと思う。

となると、まあなりゆきというか、見てみたくなるものだよね。
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