第8話

文字数 4,154文字

 彼女が描いてくれた地図を頼りに自転車を走らせた。約束の時間よりかなり早く家を出たのは、たとえ迷子になったしても時間だけは守ろうとしたからだ。土地勘はあるし、ましてや方向音痴でもない僕は地図の通りに来たはずなのに、目的の家を見つける事が出来なかった。まさか、騙された訳じゃないだろうし、何か見落とした事はないのか、確認するために、あたりを自転車でうろつく事になった。約束の時間が刻々と近づき、電話でもしようかと思ったときだった。何度も確認した筈の屋敷の前に彼女が佇んでいるのが見えた。確かにそこは彼女が描いてくれた地図の目的地に違いは無かったけれど、表札が違っていたので、勝手に間違えたと思い込んでいた。その大きな一枚板で作られた表札には『葛西』という字が堂々と刻み込まれていた。彼女は表札を見る僕を見て、
「あ、それお父さんの名前」
 と僕が迷子になった理由と彼女の今の境遇について、あっけなく種明かしをした。


「やっぱり、重いね」
「圭介君、そっち大丈夫?重いでしょ?」
「大丈夫です。もう少しです」
 彼女と彼女の従妹の咲子さんと僕の3人は2階の彼女の部屋から「どこか広場みたいなところ」である屋上までの階段を3人がかりで望遠鏡を運んでいた。文化センターの望遠鏡よりは小さく見えたけれど、彼女の部屋に通されたとき、部屋の中で見るそれは白い大砲に見えたぐらい、そのぐらい大きかった。咲子さんは前もって彼女から聞いていたらしく、気合ばっちりで、「さぁ、圭介君、見せ所よ」と一体なんの見せ所なのかよく分からないまま、その大砲を『広場』まで担ぎ上げる事になった。望遠鏡の値段やその価値もよく分からない僕でも、どう見ても高価なものにしか見えなかったから、僕の汗は暑さのせいなのか、その緊張のせいなのか、既に分からなくなっていた。ようやく運び上げると『広場』の真ん中に三脚が置かれていて、僕たちは彼女の指示でそこにセットした。彼女の額も、うっすらと光っていたので、初めて見るそれはなんだか貴重なものに思えて、とっさに綺麗だと思ってしまった。そしてついマジマジと見ていたので、彼女に気付かれてしまった。彼女にしては珍しく恥ずかしかったようで、タオルか何かを取りにすぐに部屋に戻ってしまった。
「さすが圭介君、男ね~」
 咲子さんが明るい声で僕をねぎらってくれた。
「いや、咲子さんがいなければ、僕一人ではとても。あ、でも三脚はどうやって?これも相当重そうですけど」
「あ、それね。美知香が頑張ったの。階段に一段ずつ置きながら」
 彼女が一人でこんな重そうなものを?あの彼女がそんな事をするなんて。先ほどの額の汗もそうだったけれど、いつも「フフッ」と笑っているだけしか印象にない彼女がしたなんて僕には全く想像できなかった。そうしているうちに、彼女が階段を上ってくる足音が聞こえた。
「今の内緒だからね」
 少し離れていた咲子さんが口元を僕に向けてそんな事を言った。それで彼女と咲子さんの関係が少し分かったような気がした。『広場』に戻ってきた彼女はペットボトルを抱えていて、烏龍茶を先に咲子さん渡し、残りの2本のサイダーはもちろん僕と彼女の分だった。僕達はお互いに労をねぎらい、喉を潤す事にした。咲子さんと彼女は、久しぶりね、とか言っていたので、以前にもここで見ていた事があるのが分かった。彼女が表札の事を言っていなかった事を詫びていた。あれじゃ、分からないよね、と。彼女にしたら既に日常の事になっていたので、気付かなかったらしいから、これは事故みたいなものだった。それから、自分の家にいるというのもあっただろうし、大砲を運んだ労働の後なので、気分がいつも以上にリラックスしていたようで、彼女は自分の事を話し出した。それによると、彼女の苗字は母親のもので、両親は2年ほど前に離婚したそうだ。家は父親の名義になっているものの、父親はその前から家には住んでいない。そこへ大学進学をきっかけに、咲子さんが居候しているという事だった。さらさらと出てくる言葉の中に重い出来事が何個も含まれていたので、僕は驚くばかりだった。
「今日はお母さんは?」
 初めて他人の家に行くのに、親の留守に行くのはよくないような気がしていたので、聞いてみた。
「うーん」
 と彼女は人差し指をあごにあてて、首を傾けて唸っていた。
「分からない」
「え?どういう事?」
「多分、あっちかこっち」
 と彼女は空に向かって何箇所か指差した。僕は何を言っているのか分からなかったけど、咲子さんはとても楽しそうに笑っていた。それを見て、亡くなった訳ではなさそうだとなんとなく納得はした。でも、狐につままれた気分になったのも事実だった。それでもいつもの彼女にしては、随分ちゃんと話をしてくれたので、気にはしない事にした。
 いざ、望遠鏡を見ようと思っても、僕には操作する事が出来ないので、彼女の出番となった。僕は待っている間、この前見た土星を思い出した。あのとき、土星を映していた接眼レンズの世界が自分だけのものになったような感覚があった。あれは、そう顕微鏡と同じだ、と後から思った。だから、これから彼女の望遠鏡を見るという事は彼女の宇宙を見るような気がして、どこかドキドキしている自分がいるのが分かった。
 最初に見せてくれたのは、月の巨大なクレーターだった。そのあまりの美しさに、今までの月の概念を根こそぎ取られてしまった気がするくらいのインパクトだった。よく見ると、クレーターの淵には影が出来ていて、そのせいでクレーターの輪郭がくっきりと炙り出されているようだった。光と影が、この光景を作り出しているんだと思ったら、昼間に聞いた彼女の言葉を思い出した。僕は目の前の光景に夢中で、目を離すのも勿体なかったものだから、望遠鏡を覗きながら訊いてみた。
「月の影の部分はやっばり見えないの?」
 彼女と咲子さんが顔を見合わせて、笑っていたようだった。なんだか、いつもの僕の知ってる彼女と違う。家族の前ではいつもこうなんだろうな、と思った。
「想像して」
「そうなんだ」
 僕は少しがっかりした。望遠鏡ならばなんでも見えると、ましてや一番近い星である月ぐらい、とそう思っていたからだ。接眼レンズから顔を上げると彼女の白い顔が目の前にあったので、僕はまだ望遠鏡を覗いているような気分になっていた。
「何?」
「月かと思った」
 彼女は「フフッ」と笑い
「ひどいわね。あんなに凸凹?」
 と自分の頬を指差した。
「いや、似てないけど、同じくらいき・・・」
 僕は寸前のところで意識を取り戻し、自分の意志で言葉を遮った。
「え?なになに?」
 と耳のところで手をダンボのように広げた彼女がまだ間近にいるものだから、多分僕の顔は真っ赤になっていたに違いなかった。でも、この暗がりでは分からない筈だと自分に言い聞かせて何事もなかったように振舞う事にした。案の定、彼女は次の瞬間には何事もなかったように、望遠鏡を操って僕に見てごらんと手で合図した。覗き込むと僕はまたもや声を上げてしまった。目に映ったのは輪のある惑星で、この前より鮮明に映っているような気がした。僕も最近は宇宙や地球の事を自習の息抜きに勉強?していたので、多少の知識が増えつつあった。でも、知識も楽しさを増加する要素だけれど、目の前の、実際に網膜に映る宇宙や星はとても綺麗で、それだけで充分のような気がして、彼女がこの前言っていた事に偽りはない事を確信した。だから、その日は彼女のペースを邪魔しないように熱心に、そしてたっぷりと宇宙を観光した。
 彼女がトイレか何かでいなくなったとき、咲子さんと話をした。
「圭介君、ありがとね」
「何がですか?」
「分かるでしょ?今日の美知香を見れば」
 僕には図書館にいるときの彼女しか知らないから、今日の彼女も家では普通だと思っていたので、咲子さんの言葉は意外だった。
「いつもと違うのですか?」
「変らないわよ。だから、ありがとう、って事」
 僕はどういう意味なのか、考える時間が欲しかったけど、咲子さんは言葉を続けた。
「あの子、とても敏感でね。それにとても真面目で、親の前ではいい子にしてなくちゃいけないとずっと思ってて、そして実際にいい子だったわ。それに頭がいいの。叔母さんもまた、凄くよくて、私とは正反対。でも小さい頃から馬が会うみたいで、夏休みが楽しみだったな」
 僕はあっとひらめいて
「咲子さんの実家って、サイダーの家ですか?」
「サイダー?」
「美知香さん、夏休みに田舎でサイダーを毎日飲んでたって」
 咲子さんはあはは、と声を出して笑った。
「そんな事、言ってたんだ」
 そう言って、咲子さんは微笑みながら僕の事をまっすぐに見るものだから、僕は恥ずかしくて下を向きそうになった。咲子さんも彼女とタイプは違うけれど、綺麗な大人の人だったからだ。
「ありがとう」
 とても優しい笑顔は、どこか彼女がときおり見せる柔らかさに似ていたので、もっと彼女の事を知りたくなり、やはり気になっていた事を咲子さんに訊いてみた。
「お母さん、美知香さんのお母さんは、どんな仕事をしているのですか?」
 どこにいるのか、という質問だとまたはぐらかされそうだったので、僕は質問を変えてみた。でも、やはり、というか半分覚悟はしていたものの、咲子さんは星空に向かって指差しただけだった。でも、もう少しだけ教えてくれた。
「そのせいで、美知香は星ばかり見るようになったのかも。小さい頃から。今は、もしかして同じものを見ている、そう思ってるんじゃないかなぁ」
 もう少し、彼女の事を訊きたかったけれど、これ以上は多分咲子さんは教えてくれないだろうし、僕も彼女本人から聞かなくてはいけない事なんだと思った。
 その日の夜の星は望遠鏡を使わなくても、全てキラキラと瞬いて、しかもいつもよりよく見えたのは錯覚ではなかったと思う。現に鼻をつまんで空を見上げたところで、その美しさは全く変る事はなかった。でも、それより、僕の気持ちを満たしたのは、彼女の事を少しでも知る事が出来た事だった。
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