第17話

文字数 1,580文字

 僕の家には望遠鏡は無かったから、毎日のように夜になると外に行っては空を見上げていた。当時はインターネットの情報もそれほど詳細なものではなかったので、人工衛星の軌道も知る事が出来なかったけれど、ある日、偶然見た人工衛星の軌跡は、天頂付近をまっすぐに進んでいて、それだけで胸が一杯になったのを今でも覚えている。家から少し離れて、街灯のないところで見る星空は視界いっぱいに広がっていて、その一つ一つの光は望遠鏡で見るものよりも小さく瞬いていたけれど、寒さが増すごとに、見上げる星の数は増えていき、その輝きも増しているのが手に取るように分かった。
 彼女と知り合って、つまり僕の図書館通いを始めて半年ほど経った頃だったと思う。たまには望遠鏡で見てみたいと思っていたら、彼女の方から誘ってくれた。
「最近、空気が綺麗みたい」
 唐突に言い出したのだけれど、それが天体観測にちょうどいい、という事を言っているのだという事ぐらい、その頃になると僕には分かっていた。
「冬の空だね」
 彼女もその頃になると、それだけで僕の言う事が分かるようになっていたのだと思う。
 約束の時間に彼女の家に行くと、ガレージには咲子さんの車は無かったので、今日は大砲を屋上まで担ぎ上げる事が出来ない事が分かった。チャイムを鳴らすと彼女が部屋まで通してくれた。白い大砲は屋根つきのベランダに置いてある赤道儀に括り付けられていて、それはいつも通りだった。ベランダの屋根は開閉式になっていて、南の空のほとんどをカバーしていたし、大砲をバズーカ砲のように肩に担いで運ぶ事さえ出来れば、家を取り巻くように延びたベランダが東の空も、そして西の空も観測させてくれるようになっていた。既に屋根は開かれていて、望遠鏡の筒内も気温と同じになっているようで、いつでも空の光が見れる状態となっていた。彼女の言ったとおり、空気が綺麗なのは確かで、その証拠にその日の木星はあの縞模様が今までよりも鮮明に見えた。夏に初めて見たときから、何度か見させてもらっていて、その度毎に操作も教わっていたし、感覚さえ掴めば、顕微鏡と同じように思えて、僕も望遠鏡の使い方には少し慣れ始めていた。好き勝手に動かしていると、僕の横に佇んでいた彼女が目を細めて優しく微笑んで、それが遠い星空を見ているような表情をするものだから、僕は少し寂しく思ってしまったけれど、それはその夜の澄んだ空気のせいなのかもしれなかった。その日の星空がどのくらい綺麗だったかというと、普段雲にしか見えない子持ち銀河もそれを構成する星の一つ一つが見えるような気がするぐらいのものだった。ときおり、吐く息が接眼レンズにあたって白くなるのを何度も繰り返しながら、僕は夢中で見ていたけれど、体の方は正直なもので、段々と体温を奪われていくのを拒むように時折、勝手にブルッと震えていた。
「あっ」
 背後に彼女の気配を感じ、次の瞬間優しさが僕を包んだ。少なくとも僕にはそうとしか思えなかった。寒さで震える僕を見て、彼女は部屋の壁にかけてあったマフラーを僕の首に巻いてくれた。とても暖かくて柔らかいその感触を僕の敏感な首の神経は、その電気信号を胸に切り裂くように送り続けていた。
 僕はその柔らかさに包まれながら、暫く目につく星を片っ端から眺めた後、もうそろそろ帰らなくてはと思い、最後に月を見た。銀河を見た後だったし、倍率を下げた分だけ光量も増大し、眩しささえ感じた。太陽の光を反射する月。今日最初に見た木星もそうで、光でさえもその往復だけで、1時間もかかっているんだ。でも、その果てしない距離さえも、広大な宇宙から見れば、実はとんでもなく近い距離に過ぎない。そして僕は目の前にいる彼女との距離が宇宙から見たら天文学的に近いにも関わらず、全然近づいていない事にやきもきした。
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