第2話

文字数 3,495文字

 その日もプラネタリウムの映写室はキンキンに冷えていた。多分、それから暫くの間もそうであったろうと思う。クーラーの冷気が大好きな僕は、ここ数日ここに入り浸っていた。猛暑日の連続日数を毎日更新するのは、この時期では当たり前の事で、30℃を優に越えるそれら下界からこの部屋に入ると、その寒暖差に全身の細胞が引き締まり、神経が一斉に喜ぶのをその度毎に感じていた。でも、入って暫くするとその刺激にも慣れてしまい、今度は序々に体の内の方まで冷やされていく。女性や年輩の人にとっては耐えられないのか、夏だというのに長袖の何か羽織るものを手にしていたけれど、暑がりの僕はこの冷気を楽しんでいた。

 受験を終えて、なんとか志望校に入学出来たものの、実際の高校生活はあんなに大変な受験勉強をしてまで入るほどの楽しみも充実感も与えてくれるものでは無かった。クラスの友達も何人かは出来たけれど、義務教育を終えて、これから大人になる第1歩というには何か満ち足りず、夢や希望に満ちあふれた高校生活はドラマや小説の中の話である事を目の前に突きつけられたような感じさえしていて、どこか冷めた空気が辺りを支配していた。それでも、その平凡な空気は妙に居心地が良かった事だけは確かで、悠々と過ごしていた時間はいつしか安堵に包まれ、周りに流されやすい僕の成績は急降下の一途を辿っていた。部活もアルバイトもしないで済むそれらの環境は余計に僕から刺激を奪い、更に充実感を欠く日々をもたらしていた。それでも、まだ学校に行っているときはましな方で、朝起きて、学校に行き、帰ってきての繰り返しはそのときどきで僅かな刺激を与えていたのだろう。そうして漫然と過ごしていた1学期が終わり、長い夏休みに入ると、僕はようやく焦った。中学まではあんなに口やかましく小言を繰り返していた両親も高校に入ると、あとはお前の人生だから、と言わんばかりに手の平を返す様に僕に干渉しなくなった事も拍車をかけた。と言っても今何をすべきかと言われても、将来の夢も特に持っていなかった僕は、その努力の方向性も分っていなかったので、勉強する事ぐらいしか思い浮かばなかった。こうして、僕の夏休みの図書館通いが始まった。
 こう書くと、僕は何やら努力家で真面目な性格と思われるかもしれないけれど、半分ぐらいは当たっているものの、残りの半分は何処にでもいる面倒臭がり屋の高校生に過ぎなかった。だから入った高校も中の上の成績でも受験勉強という一過性の努力だけで入る事が出来る程度の名ばかりの進学校だった。そんなものだから、図書館に来て席に座ったものの、一日、いや半日もずっと座って勉強する集中力は持ち合わせていなかったし、今までのように受験という目前の目標というものも無かったから、それは随分気の抜けた内容となっていた。場所取りをして1時間も経つ頃には、目の前の教科書やら参考書にも飽きてしまい、つい近くの本棚から興味のある本や読みかけの小説などを持ってきて息抜きをするのが当たり前になり、最初の頃にあったそれらの罪悪感もいつしか無くなっていた。そして、その息抜きの方が自習より多くなってきた頃、2階にあるプラネタリウムに目を向ける事になった。 

 地方のベッドタウンの役割を担うとても小さな行政単位の街は、図書館といっても大げさなものではなく、会議室とホールと、そしてプラネタリウムを併設した文化センターの一部として形成されていた。この街で生まれ育った者としては、それだけでも大した建物に違いなかったけれど、残念な事に、それを構成する一つ一つの要素はどう控えめに見ても中途半端にしか見えなかったのも事実だった。でも、それまでに何度か入った事があるプラネタリウムも、同じように中途半端な大きさではあったものの、それは格別で、僕に特別な印象を与えていた。まず何がすごいかと言うと、昼間でも星が見えて、実物よりも沢山の星が見えて、季節とか関係なく星が見えて、たった数分で、すべての星が見える、という、プラネタリウムだったら、ごく当たり前の「星が見える」という条件を満たしていたからに違いなかった。そして、その日常とは違う世界は、静かに星が瞬き、幻想的な星座とか昔話を聞かせてくれるナレーションは僕を包み込み、見せ掛けの勉強の疲れを癒してくれる最高の息抜きとなっていた。最初のうちは週に2回ぐらいだったろうか。次の週になると3回ほどに増え、その翌週になると毎日2階に上っていた。僕にとってはその建物の2階は星が良く見える山の天辺だった。
 プラネタリウムの星々に魅せられたというのも本当の事だったし、息抜きというのも事実だったけれど、実はもう1つ目的が出来たのは、2週目あたりからだった。そのプラネタリウムで彼女を見かけるようになったからだ。彼女も僕に負けじと通っていたようで、大体半分ぐらいの確率で、ひざ下の長いスカートの彼女と丁度反対側の椅子で会う事になっていた。満員なんて絶対にならないプラネタリウムはどちらかというと、いつもガラガラで、学生なんて滅多に見かける事は無かったから彼女の存在は一際目立っていた。もちろん彼女にとっては僕なんかの事は意識の中にはなかっただろうから、一方的な知り合いに過ぎなかった。でも、その関係はある日、突然破られる事になった。
 いつものように冷気の漂う中、プラネタリウムの上映が終わり、観客がしずしずと映写室を後にする中、僕は下界にある図書館の席に戻りたくなくて、時間稼ぎにだらだらと猫のように両手をいっぱいに伸ばして欠伸をしてみた。リクライニングの角度が大きくとれるプラネタリウムならではのシートを思う存分生かして伸びきった後、ふと、何気なく彼女が座っていたシートを見ると、何かが置いてあるのが目に入った。なんだろう、と思いつつ近づくと目薬が転がっていた。目が何か悪いのかな?と一瞬思いはしたものの、それは眼科でもらう丸い容器ではなく、市販の平型の容器だったので少し安心した。おそらく彼女のものだろう。係員に渡してもいいのだろうけど、多分彼女は問い合わせもしないだろうし、無くしても気にさえしないように思えたから、僕は手に取り、プラネタリウムの部屋を出て、階段を一段抜かしで駆け下りた。山の天辺とは違って下界のロビーは少し蒸し暑いので、この瞬間はいつもは嫌になるのだけれど、そのときは彼女を探すのに集中していたせいか、大して気にもならなかった。そして、彼女はいた。彼女は図書館前のロビーの椅子に座っていた。携帯を見るでも本を見るでもなく、ロビーのあちこちをぼんやりと眺めているようで、まるで僕を待っていたかのようにも見えたけれど、多分そんな事はないだろう。そして、僕はというと、彼女の事を追いかけてきた筈なのに、実際にその姿を見ると、声をかけたものかどうか迷ってしまっていた。でも、どうせ僕の事は知らないだろうから、特に気にする必要はないんだと自分に言い聞かせて、それを前提に素知らぬ顔で話かける事にした。
「目薬、落としませんでした?」
 彼女は、あっという顔をして、ベージュのカーディガンのポケットに手を入れてゴソゴソしだした。でも、その動きは特段と慌てた様子ではなかったので、僕の予想は当たっていた事になる。僕は平たい容器の目薬を彼女に見せて伝えた。
「椅子の上にありました」
 彼女は少し間を置いてから僕から目薬を受け取り、僕に初めてその声を聞かせてくれた。
「ありがとう」
 その声は期待していた声とは違っていて、少しだけ音域が高かった。そして、それより気になったのは少しぶっきらぼうに聞こえた事だった。でも、そのせいで、あまり気を使う必要もないように思えたので、僕もフランクに話をする事が出来た。
「よく来てますね。星が好きなの?」
 何でもないように、興味なさそうに訊いてみた。とはいっても、緊張していたのは言うまでもなく、目に映る情報が一瞬遅れて脳に到達するような、そんな感じで、少し、ぼぉっとしてしまっていた。だから、彼女が僕を見て、フフッと笑ったような気がしたけれど、それが事実で、彼女が左手で口元を押えて上目づかいで僕を見ていたのに気付いたのは、僕がようやく意識を取り戻し、あらためて彼女を見たときだった。
「あなたもそうじゃない」
 何処か責められるような口調で、でもその音質はどこか温かみを感じさせ、僕の心臓は少しだけ脈打つのが速くなったようだった。そして、その活発な性格をさらけだす言葉に僕は逃れられなかった。
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