第19話

文字数 4,152文字

 多分、彼女の影響を受けたのだろう。怠け者の僕にしては、勉強するようになったと思う。それでも、ガリ勉といえる程は出来なかったのは僕の最終学歴が「東京の」大学でも、「東京の」工業大学でもないのが証明していると思う。
 あれから、彼女とは会っていないどころか、連絡も取っていなかった。でも、何度か咲子さんとは会う事があった。あれから最初に会ったのは、僕の20歳の誕生日の日の事だった。大学に通っていた僕はその頃、実家暮らしで、その日もいつもと変わらぬ一日を終えようと家の前まで帰ってきたときだった。家のほど近いところに車が止まっていて、開いた窓から手を振っているのが見えた。誰だろう、と思っていたら、ドアを開けて下りてきたのが咲子さんだった。あの頃と変わらない活発な雰囲気はそのままで、「夕食でもどうかな?」と僕の心の中にさっさと入り込むところはこの家系の変らぬ特技だった。僕を助手席に乗せた車はイタリア料理のレストランに止まった。咲子さんは大学を卒業後、大手の出版社に就職して編集員として働いているらしい。ほとんど寝る暇もない生活だけれど、楽しくて仕方ないと言っていた。だから少しでも睡眠時間を得る為に、今は会社の近くに住んでいるらしく、彼女の家は今は空き家のようになっているとの事だ。席に着くと、メニューらしきものも渡されずに、グラスにワインを注がれ、料理がどんどん運ばれてきた。僕の誕生日という事で、ご馳走してくれた。なんで、急にこんな事、と思っているとその訳を少しずつ教えてくれた。彼女の母親が日本に帰ってきて、話をするうちに僕の話題になったらしい。彼女の母親は僕の事は彼女から聞いていたので、とは言っても彼女の事だ。断片的にしか言ってないのだろう。その証拠にどんな子なのか咲子さんにいろいろと訊いてきたみたいだ。咲子さんも僕と直接会ったのは何回かしかないので、彼女から聞いた話をするだけだったとの事。どうやら、咲子さんと彼女の母親と、そして彼女の共通の話題に僕がいるかと思うと、とても不思議な感じがした。
「はい、誕生日、おめでとう」
 綺麗に包装された細長い小さい箱はご丁寧にリボンまでついていた。すぐに開けてみるのも大人げないと思いつつも、結局僕は咲子さんの目の前で包み紙を破きだした。それを見ながら咲子さんは早口で教えてくれた。
「叔母さんね、圭介君に感謝してたよ。なんでかって、本当は内緒なんだけどね、美知香、今アメリカにいるの」
 遠いところに行ってしまったとは思っていたものの実際に聞くと余計遠くに感じた。
「美知香さんのお母さんもアメリカなんですか?」
「えぇ、でも叔母さんはハワイにいるから、あまり会ってないみたいだけど。美知香ね、あれから、叔母さんを頼ってアメリカの大学に行ったの。なんかね、2人の間にあった壁が取り壊されたみたい」
「うまくいってなかったのですね」
「うーん、そういえば、そうなのかも?結局、二人とも不器用だったって事。分かるでしょ?」
 僕は彼女の事しか知らないけれど、なんとなく想像はついた。
「だから、圭介君のおかげ。美知香、私が今日圭介君と会う事は知ってるよ」
 その言葉だけで、なんとなく彼女とつながっているような気がした。箱を開けると、万年筆が入っていた。見るからに高価なそれは、僕の思った言葉を気持ちよく導き出す秘密兵器のように思えた。
「大切に使わせてもらいます」
 そう言うと、咲子さんが「フフッ」と笑うものだから、それを見たら彼女をそれまでより強く思い出してしまい、僕はもしかしたら少し泣きそうな顔になってしまっていたのかもしれなかった。それを誤魔化す為に僕は言葉を絞り出した。
「美知香さんのお母さんは、もう日本にいないのですか?」
「えぇ、またハワイに戻ったわ」
「あっ、すばる!」
 僕は日本で一番有名な天文台の名前を口にしたら、咲子さんは微笑みながら頷いてくれた。その後、咲子さんは僕の家まで送ってくれて、最後に、
「あ、それ、美知香からだから」
 と、万年筆の事を教えてくれた。
 それから、不思議な事に咲子さんとは何かと僕の人生の節目毎に会っていたように思う。だから多分、咲子さんの影響なんだろう。宇宙に関する仕事に就きたいと思っていたものの、そんなに間口が広い訳でもなかったので、僕は結局、一般向けの科学誌を出版している会社に就職した。勿論、編集員として第一線で活躍している咲子さんにも相談した。
 そこは比較的大手であったので、入社したからと言って希望する部署には就く事が出来なかった。僕の配属は昨今の健康志向にあやかった『体』をテーマにした月刊誌の編集部で、食事や医療や、そしてスポーツまでもカバーしなくちゃいけなくて最初は大変だったけれど、それでも入社して5年も経つと、その仕事にも楽しみを見出すようになっていた。
 経験した事のない仕事をする度に知識や実力が向上するのが実感出来、更に違う世界を見させてくれた。そして、人との繋がりや出会いもその1つで、実はその方が遥かに僕をより高いところに連れて行ってくれていた。
 この前も国内最大と言われる自転車のロードレースの取材に行かされたときの事だった。有名だという外国人選手が沢山、本場の欧州から訪れる中、何も知らない僕は少しでも知識を増やそうと、前日の夜、コースを車で回ってみる事にした。峠の天辺まで来ると、僕が会社から貸し出されたものとは比較にならないくらいの見るからに高級なカメラ機材をぶら下げたジャーナリストがいた。大砲のような白いレンズを腰にぶら下げたそのジャーナリストは短い白髪交じりの頭髪で眼鏡のその奥は流星塵のように光っていた。聞けば、自転車専門でフリーで活動しているらしい。下見ですか、と訊くとそうではなく、ここは星が綺麗なんだ、と言っていた。その人は自転車を撮る前は天文を撮っていたので、僕達はすぐに意気投合する事になった。そして、自転車レースの事も短い時間ではあったけれど、沢山教えてくれた。歳は親子の差ほどあったものの、その後もメールで近況など、連絡を取り合っている。こういう出会いや繋がりは仕事の中でも役に立つのは言うまでもないけれど、実はそんな事だけじゃないんだという事は、僕の今までの短い人生でも分かるようになっていた。
 そんな頃だった。
 日本とアメリカの共同スキームで打ち上げられた宇宙探査機が話題になっていた。日本が誇る燃費の良いイオンエンジンは宇宙空間を長期間航行する探査機と相性が良い為、最近では各国が注目していた。でも、僕が気になったのは、その探査機が『ダフニア』という愛称で呼ばれていた事だった。大きな太陽光パネルを動かす事で生じる反作用を利用して簡単な姿勢制御をするらしい。図解ではまるで水泳選手がバタフライするようなマンガ絵が描かれていた。でも僕にとってはそんな事はどうでもよく、この『ダフニア』という愛称は天文台に勤務する日本人女性の言葉が発端だったという事に目を引いた。僕はすぐにJAXAの、続いて国立天文台のHPを次々と開いていった。
 そして、果たしてそこには、彼女がいた。
 何枚か掲載されていた写真の一枚に左手で口を軽く押さえたあの笑顔があった。彼女はそこで『ダフニア』、つまり、日本語に訳すとミジンコと名付けられた探査機の事を語っていた。
『これとは別件なんですが、NASAで打ち合わせをしていたときにパネルが動くCGアニメを特別に見せてもらったんです。その瞬間。あ、ミジンコだって。それがプロジェクトのスタッフに伝わったらしいです。えぇ、普通は思いつかないかもしれませんね。ミジンコの思い出ですか?実は、まだ若い頃、ミジンコを観察するのが好きな男の子と知り合ったんです。私は望遠鏡、その子は顕微鏡をそれぞれ見せ合って、お互い宇宙だねって。そして、その子に流星塵を見せてもらったんです。そこからですね。私が天文台で働きたい、って真剣に思うようになったのは。その子、恩人ですね、これからも、ずっと。フフッ、元気かな?おーい(笑)』
 最後の(笑)は間違いなくあの笑顔に違いない。僕はついデスクトップに映る彼女に向かって話しかけていた。
 君の方こそ恩人なのに。
 自分の事が嫌いで仕方なかった僕も今では少しは好きになれている。今の仕事だって、君と出合わなければ違っていたものになっていた筈。
 
 だから、今があるのは、
 あのとき、君がいたからで。
 あのとき、君の家の屋上で望遠鏡を見せてくれたからで。
 あのとき、マフラーを首にまいてくれたからで。
 あのとき、「フフッ」と微笑んでくれたからで。
 
 当時の事が頭の中でぐるぐると周りだし、やがて気づくと視界全体がゆらゆらとピントが合わなくなっていた。僕はいてもたってもいられなくなり、今でも飛び出しそうな勢いだったけれど、寸前の所で思い留まった。今の世の中では、君を見つけ出す事はとても容易いのかもしれない。でも、僕は君に会う為に歩き出したりはしない。だって、君が今、それを望んでいないのが分かるから。
 
 だから、僕はいつもと変わらず
 そして、君もいつもと変わらず
 お互い、いつもの、以前、繰り返した毎日のように
 
 昼間の太陽が眩しくて
 望遠鏡で見る月も同じように眩しくて
 プラネタリウムの、あの丸い宇宙に気持ちが漂うのを感じながら
 
 あの頃の世界を、ただ懐かしくて生きていきながら
 今の自分を大切にして

 でも、もし、もし偶然出会うとしたら
 もし、僕があの町に帰っていたとき
 もし偶然、君があの家に戻っていて
 
 あの町で
 あの図書館の駐車場で
 あのプラネタリウムに続く階段の下のロビーで
 あの自動販売機の前の長椅子で
 
 もし、奇跡が訪れて
 君の横顔が目の前にあったりしたら

 僕は話しかけてもいいかい

「やぁ、良く見かけるね」と
 そしたら、君はこう言ってくれるだろ
「あなたもそうじゃない」
 
 君は左手で口もとを塞いで
 いつものように

「フフッ」と

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