第5話

文字数 2,070文字

「あ、咲ちゃん」
 彼女は辺りを見回していたので誰かを探していたのは分かっていた。その相手は階段付近にいたらしく、見つけるとそこに向かって手を振っていた。ここにいる事を伝えているのだろう。
「なんだ、こっちに居たの?望遠鏡の方ばっかり探しちゃった」
 暗闇の中でも良く通る声を発しながら、1人の大人の女性が近づいてきた。
「ごめんね。先輩に会っちゃったから」
「え?先輩?」
 咲ちゃんと呼ばれたその女性は僕達の近くまで来たので、ようやくその姿を見る事が出来た。第一印象は一瞬前に聞いた声の通りで、見るからに活発そうで、細身のジーンズがとてもよく似合っていた。それはヘアスタイルがショートカットだったというのもあるのだろう。耳につけたピアスがわずかな光にも反射して光っていたので、僕は先ほど見た土星を思い出し、ついじっと見てしまっていた。すると、また横で「フフッ」という声が聞こえて、僕はもうそのときには次に何を言われるのか想像がついていた。
「美人だもんね」
 僕はむっとしたまま彼女を睨み返したけど、何を言っても無駄に終わりそうだったので気持ちを持ち直して、『咲ちゃん』に挨拶をした。
「はじめまして。寺田といいます」
「はじめまして。美知香の従姉の咲子です。先輩?」
 咲子さんは彼女に確認するように問い直した。多分、どう見ても彼女より大人っぽくは見えないからだろう。
「えぇ、高校1年生だって」
「あぁ、そういう事」
 咲子さんは彼女の物言いに慣れているのか、それだけで分かるなんて、さすが従姉だと妙に感心してしまった。そして、咲子さんは彼女に「はい」と持っていたレジ袋を渡した。
「咲ちゃん、ありがとう。何があるのかなぁ。あ、私これ」
 彼女はレジ袋の中からペットボトルを取り出して、「好きなの選んで」とレジ袋ごと僕に手渡した。いいのかな、と思いつつも、遠慮してはかえって失礼に当たるような気がしたので、僕はその中から麦茶を選んだ。残りを咲子さんに手渡そうとしたとき、レジ袋のガサッという音に併せて、プシュッという破裂音がしたので少し驚いてしまった。彼女がペットボトルのキャップを開けた音だった。僕も彼女ほど大きくはない破裂音を発して、「いただきます」とお礼を言って喉を潤した。
 咲子さんは、せっかくだから私も星を見てくると言い、僕達を残して望遠鏡の方に行ってしまった。咲子さんは彼女を車で送った後、喉が渇いていたのでコンビニに飲み物を買いに行っていたらしい。僕も星を見に来たのだけれど、彼女と一緒にいる時間の方が貴重に思えたので、そのまま彼女と居る事にした。
「2つ上って事は中学のときに会っていたのかもね」
「そうかもね。でもあまり行ってなかったから」
「ふーん」
 何故なんだろう、と思いはしたものの、そんなに踏み込んで訊いてはいけないような気がしたし、彼女の事だから理由なんて無いような気もした。
「こっちに来てた方が多かったかも」
 そう言って彼女は右手の人差し指を屋上の床に向けた。話の内容としては自嘲的な筈なのに、彼女は本当に可笑しそうに言ったので、僕もなんだかつられて笑ってしまい、彼女は僕が笑っているのを目を細めて微笑んでいた。風がピューと吹いてきて、僕達に少しばかりの冷気を運んできた。それが合図になり、僕と彼女は再び校舎を眺めながらペットボトルを傾けた。


 望遠鏡のあの土星の光景が忘れられず、僕の頭の中は丸い接眼レンズに映る宇宙でいっぱいになってしまった。だからといって、それまで見ていた山の天辺の景色が色あせた訳ではなく、むしろ輝いて見えるようになった。プラネタリウムも望遠鏡の接眼レンズと同じ円形の宇宙で、その見えているものが全世界の象徴のような気さえした。そんな事だから、僕のプラネタリウム通いは完全に日常のリズムになったし、午前と午後の2回、欠かさず『息抜き』するようになった。そして当初の目的であった自習も息抜きの為にしっかりするようになったし集中力も上がって来たように思う。それはおそらく彼女の存在のせいであるのは自分でも分かってはいたものの、否定したい事実の一つだった。自分の為にしている勉強なのに、何故か彼女の前だとやる気が出るなんて、今までの僕からしたら考えられない事だった。ましてや年上なんて、向こうからすると子供扱いを受けるのは分かっているのに。でも、分かっている答えなら、そう向き合えばいいんだ、という考えに落ち着いたとき、そう開き直る自分が少し大人になったような気もした。
 彼女も図書館の愛用者だったらしく、プラネタリウムと同じフロアにある自習室に通っていたらしい。土星を見た翌日、僕がいつもの席で問題集を解いていると、いつの間にか彼女が目の前に座っていた。見ると英語で書かれた小説か何かの本を読んでいて、僕の視線に気付くと、「フフッ」と笑い、顔を僕の方に突き出し、小声で、
「やっと気付いた」
 と囁いた。
 その日から僕と彼女の自習は、夏休みの終わるまで毎日続いた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み