第18話

文字数 2,785文字

 それは後から思うと、突然だった。なんの前触れも無かったのかもしれないし、実はそれまでの言葉や仕草の端々にヒントぐらいはあったのかもしれなかった。でも、僕にとっては唐突過ぎたし、それに残酷すぎた。もしかしたら、彼女にとっても同じように残酷だったのかもしれない。
 それは3学期の期末テストの最終日だった。その日は前日からの雨が朝まで残り、午後には上がったものの、道には水たまりが出来ていて、そこに写る雲が余計に寒さを増していた。彼女を驚かせようと学校帰りに図書館に寄ったのだけれど、彼女はそれを予期していたらしい。僕は「やぁ」と手をあげて挨拶すると、彼女は含んだ笑みを返しただけだったから。そして、いつもと同じように時間を過ごした。最近「フフッ」と笑うのが少なくなっていた彼女だったけれど、今日は前みたいに笑ってくれた。最初はあんなに気になって、どちらかというと嫌な気分にもさせられていたというのに、その彼女の「フフッ」を聞いて、嬉しくなる気持ちが大きくなるのがとても不思議だった。でも、閉館時間が近づくにつれて、彼女の表情が変っていく事に気付いた。でも、それを言ったら、なんか彼女に悪いような気がしたので、僕はいつもと変わらないように振る舞うのがいいと思い、その通りにしていたのだけれど、最後に彼女は意を決したように話し出した。
「そろそろね」
「なにが」
「フフッ。たぶん、今日あたりになりそう」
 僕はまた何か企んでいるのかと不安と期待をしたけれど、次の言葉に息を飲む事になった。
「最後かな」
「え?最後って」
「うん」
 それ以上は何を聞いても、あの「フフッ」しか言わなくなった。でも、さきほどまでの「フフッ」とは明らかにそのトーンも微笑みの柔らかさも違っていたので、僕はいつもの何気ないやりとりを続けるのが精いっぱいだった。
 閉館の音楽が流れて、その音楽も終わってから暫く経って、周りに誰も居なくなっても僕たちは席に座ったままだった。顔見知りの図書館の女性が、そろそろ、と言ったのがきっかけとなり、僕たちはようやく席を立つ事にした。文化センターの大きな扉の前まで歩くと、彼女は立ち止まったので、僕は振り向いた。彼女は僕を見つめたままだった。僕は何か言わなくちゃいけない衝動に駆られて口を開こうとした瞬間、彼女は優しい表情になり、
「それじゃ、寒いでしょ?」
 と言い、あのマフラーを僕に巻いてくれた。僕はいつも薄着でいる事が多かったので、いつも彼女に心配されていた。
「君が寒くなるよ」
「大丈夫。咲ちゃんが迎えに来るから」
 そういうと、彼女はさよなら、と右手を振ってくれた。だから、僕はそのまま帰るしかなくて、道に向かって歩き始めたのだけれど、傘を忘れた事に気付いて、図書館に戻る事にした。まだ開いているかな?と思い、文化センターの扉まで戻ると、駐車場に向かう彼女の後ろ姿が目に入った。次の瞬間、彼女は急にしゃがみ込み、手で顔を覆っているようだった。突然の出来事に僕は見ては行けないものを見てしまった様な気がして、咄嗟に物陰に隠れる事になり、そして、近づく事も、そこから離れる事も出来なくなってしまった。ほどなくして、咲子さんの車が駐車場に入って来たのが見えた。その頃になると彼女のむせぶ声は僕の耳にまで届くくらいだったので、僕は見ていられなくなり、そして表にも出られず、その声だけを聞くしかなかった。そして、暫くすると、車も彼女も居なくなっていた。
 何があったのかは分からないけれど、とても大変な事があったのではないかと、そのぐらいの事は僕でも分かった。
 それから暫く、彼女を見かける事がなくなってしまった。でも、また少ししたら現れるかもしれない。
 そういえば、寒くなってきた頃から、彼女は図書館に来ない日が続く事があり、でも、今まではなんだかんだ言っても居なくなる前には2週間ぐらいとか、今度は3週間ぐらいとか、彼女は予め教えてくれていた。今回はなんて言ったか思い出してみた。確か、最後だね、と言っていた。
 僕は急に心配になり彼女の家に行く事にした。土曜日に行ったけれど、誰もいなかったので僕は余計に心配になり、翌日もまた行くと、するとそこには咲子さんの車があった。
 チャイムを鳴らすと咲子さんがリビングに通してくれた。僕は彼女の事が聞きたかったけれど、本当の事を聞くのがが怖くてなかなか話し出せず、それでもとうとう口に出した。
「彼女、美知香さんは」
「うん、ありがとう。美知香、たぶん喜んでいるよ」
 それがきっかけとなり、咲子さんは彼女の事を話し出した。多分、咲子さんも話出すのが辛かったのかもしれない。でも言わなくてはいけないと思っていたらしい事は分かった。
「圭介君と会った頃から、美知香、少し変わったよ。勉強も好きな子だったけど、向かっている方向が決まっていなかった感じ」
「そうなんですか」
「好きなものがあるのに向かえないって酷な話だよね。圭介君がその障害物を取り去ってくれたんじゃないの?だから、走り出した」
「どこへ」
 すると、咲子さんは窓から見える空を指差した。その仕草は彼女のそれと似ていたから、僕はまた彼女の事を、一緒にいたあの時間を思い出してしまい、悲しくなってしまった。僕のそんな表情を見て、咲子さんはとりなすように笑いながら言い訳みたいな事を言った。
「言わないで、って釘を刺されちゃったから、ごめんね」
 僕はそんな事を聞いてもどうしていいか分からず、黙ったままでいた。咲子さんはそんな僕を見て言葉を続けた。
「照れてるのよ。圭介君にはなんでも知られちゃったから」
「僕は何も知っていませんよ。何を聞いても教えてくれた事より、教えてくれなかった事の方が多かった。それに今だって、何も言わずに、いなくなってしまった」
「ひどいわよね。でも、知られちゃったのよ。美知香が頑なに守ってきた壁の内側」
 僕は分かったような分からないような、いやそれすら考える事も出来なくなっていたし、まるで雲にまかれたような気分にもなり、それ以上言葉を発する事が出来なくなってしまった。
 しばらく、音の無い世界が辺りを支配していた。でも、やっぱりと言うか、それは当たり前のように咲子さんが壊してくれた。
「恥ずかしくって、今は会えないんじゃないの?」
「いつまで」
「それは美知香に聞かないと」
「でも、どうやって」
 流石の咲子さんもこれ以上どうしたらいいのか分からなかったのだと思う。暫く沈黙が続いた後、呟くように一言だけ言った。
「美知香は忘れないと思う」
 その言葉は僕を慰めるつもりで言ってくれたのかもしれなかった。それでも、そのなんの根拠もないその言葉をその日から、僕は胸の中に大切にしまっておく事になった。

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