水曜日②

文字数 8,572文字

 大阪城から出発する水上バス。
 大きなグリコのマーク、通称グリコサインがあるひっかけ橋へ下るルートを航行する船は、正式にはアクアminiと言う。
 定員は30名。屋根のない小型船で、オープンデッキには簡素な椅子が並んでいる。
 大阪城を南に望みながら第二寝屋川を西へ進み、京阪電車が見えたところで東横堀川へ下りていく。それから道頓堀のひっかけ橋を抜けて、その先のなんばハッチが終着地点。ここまでで50分の道のりとなる。
 予定通り船に乗って、そろそろ東横堀川へ入ろうという直前で、それまで夢中で景色を眺めていた美佐が振り向いて俺に言う。
 「ちょ、ちょっと待って!」
 「何。どないしたん」
 「私…、こんな綺麗な大阪見たん、初めてやねんけど」
 「えらい大げさやな。」
 「私、大阪って、ただの薄汚い街やと思ってた…」
 「今までどんなとこ住んでてん。てか、それ主にミナミのこと言うてるやろ。」
 「めっちゃ感動するわー。景色綺麗すぎるし、なにより川がめっちゃ広い!それに何、あそこの島!」
 「あちらは中之島公園になります。」
 「あの島行きたいわぁ~」
 「いや、別に行けるから。あのう、興奮してるところ大変申し訳ないんやけど、あんまり阿呆みたいに大声でゆわんといて、恥ずかしいから。周りの人、チラチラ見てるやん」
 「やーばーいー」
 美佐の興奮度は、出発10分にして既にクライマックスを迎えようとしていたが、それはちょっと早すぎる。興味深い景色が見られるのは、むしろこれからだ。
 「今からこの東横堀川を南下して、街中を川下りしていくよ。ここからが本番やねんから。」
 「私これ以上楽しんだら死ぬかも」
 と言いながら、美佐は溢れ出そうな笑みを両手で抑えた。


 船は徐々に南を向き、葭屋橋(よしやばし)と今橋の下を(くぐ)っていく。
 二つの橋はこの北浜一帯の要所であり、日頃から交通量の多いところだ。見上げれば頭の上には沢山の車と人が行き交っている。更に橋の上には阪神高速が走っている。つまり地理的に非常に騒がしいところなのである。しかし、これが川の下から眺めると景色はすっかり一変する。
 東横堀川は二本の橋と阪神高速の真下に位置しており、またその阪神高速は縦に伸びている東横堀川に沿って走っている。そういった理由でこの川は、外は晴天でも日の光があまり届かない。橋の下は常に薄暗く、それが少しの心細さを演出してくれるのだ。
 船が東横堀川に差し掛かると、辺りはひんやりとしている。通り抜ける風が涼しくて心地良い。まるで洞窟探検をしているかのような不思議な空間を、船はゆっくりと進んでゆく。
 両脇には雑居ビルが立ち並んでいる。船の上から見るそれらは、道路側から見るときとは少し違う表情を見せる。非常階段や灰皿のある休憩所、ベランダに掃除道具が散乱していたりと、普段歩くときは見えない川沿いのビルの裏側が垣間見える。そんなものを見ながら川下りするなんて、なんとも変な感じだ。
 「うわ、橋の下を通ってるー。てか、なんか怖い感じがするね。」
 「えーと、もうちょい行くと、あれが高麗橋(こうらいばし)やわ」
 「高麗橋。へぇー。なんか、橋の下がアーチの形になってるね。」
 「この橋超えたら、そろそろやで。ここからが、ちょっと面白いよ」
 「えー、何なんやろ?」
 美佐が目を凝らして橋の向こう側を眺める。美佐の顔が橋の下を潜って影になり、抜けるとまた光を反射させる。
 高麗橋を越えると、少し向こうに水色をした水門が見えてきた。水門は閉まっている。
 船は少しずつスピードを緩め、水門の手前でついに止まってしまった。
 「え、なに。どうしたの?」
 「ふふふ。」
 すると、今度は船の後方で大きな金属音が聞こえたかと思うと、そこにもう一つの大きな水門が現れ、前方と同様に閉塞していった。美佐が、閉まった!と当たり前のことを大声で叫びながら、前後の水門を一生懸命見比べている。
 そのうちに後方の川の両端から、大量の水が噴水のように噴射された。
 「なにこれ。USJのアトラクションみたい」
 「おもろいやろ。上流と下流で川の水位が違うから、ここで水を増やしたり減らしたりして合わせてるねん。大雨や高潮やったら水門を閉めて、浸水せんようにしたりするの。」
 「へー、そんなん、せなあかんのや」
 「もうちょいしたら、前の門が開くで」
 「早く開け~」
 その間も美佐は周辺の観察に余念がない。普通の子はこういうところでは、携帯のカメラでインスタ映えな写真をこれでもかと撮影するんだろうが、美佐はそういうことは一切しなかった。写真を撮る暇など勿体ない、一つ残らず見てみたいといった感じで、色々な所へ顔をせわしなく動かしていた。
 一しきり水が注入されると水位が安定したのか、水門はゆっくりと鈍い音をたてながら開いていく。
 「お!」
 と言いつつ、美佐が唐突に俺の肩を平手で叩く。
 「イタッ!」
 「調整終わったん?!」
 「痛いなぁ。」
 「いいね!ほんじゃ、張り切っていこう!」
 「お前は一体誰やねん」


 「見てみて、ほらー。なんか、知ってるところ、見えてきたよ~」
 東横堀川を最後まで下りきると、川は西側に向いている。進路のまま西に曲がると、そこはもう道頓堀川。両脇に見える街並みは、既に美佐にも俺にも見慣れた光景だ。まだまだ遠いが道頓堀名物のドン・キホーテの観覧車が見えてきた。
 道頓堀川に入って一つ目の下大和橋(しもやまとばし)(くぐ)る際、橋の上にいた若いカップルが船に向かって手を振ってきた。美佐は満面の笑みで大きく振り返した。
 「ばいばーい」
 美佐が手を振り返したところで、船はすぐに橋の下に入ってしまった。そのまま、美佐は橋の底に手をつけて走らせる。水面の光が橋に反射している。
 「うふっ」
 「どしたん?」
 「こうゆう場面でお互い気さくに手を振り合うけどさ。じゃあ、いざ面と向かって喋ろうってゆわれても、お互い、あ、うん、みたいな感じで気まずくなるよね、ぜったい。」
 「あぁ。まぁそやろなぁ。こうゆう一瞬やから、お互い気さくにできるんやろうしな」
 「それ想像したら、なんか恥ずかしい、って思って。」
 そう言いながら、美佐が前を向いている。一しきり騒いで満足したのか、彼女の身体は椅子の中に小さく収まっている。
 「自分、そういうこと考えるんやな。なんか意外やわ。」
 「そういうことって、どういうこと?」
 「なんか、そういう、どうでもいいこと。」
 「そうかなぁ。結構考えるで。どうでも良いこと。まぁ、昔ほどではないけど。」
 「ふぅん。」
 座ってる脚の上で両手で頬杖しながら美佐が話す。耳に掛けた長い髪の毛が少し零れた。
 「昔はほんま暗かったなぁ。今は、その反動かもしれへんわ。」
 「昔って、まだ若いやろ。そういや、自分、歳なんぼなん」
 そういえば、美佐がいくつか聞いてなかった。多分ものすごく若いと思われます。おそらく23ほどでしょう…と予想したところで。
 「21」
 「に、にじゆ!ういち!最近まで未成年の小娘!…21が昔語るとか、一体いつの話してんねん。昔って5歳の頃か」
 「ちがうわ!」
 「あー、おじさん、眩暈してきたわ。阿呆くさ。昔ゆうんやったら、せめて10年は経過しといてほしいもんですねぇ」
 美佐が眉間にシワを寄せ、細目。睨みながら無言の肩パン。
 「イッタっ!!」
 「よし!次、観覧車、あれ乗るで!!」
 いつの間にか船はドン・キホーテの前まで来ていた。まだ先のなんばハッチが終点だが、ここでも途中下車できる。
 「え、まだ先あるよ?」
 「なんばハッチまでって、多分特に見どころもないやろ?だってあの辺なんもないやん。それやったら、もうここで降りて違うことした方が、効率良いやん。」
 確かにここからなんばはっちまでのルートは、特に見るべきところはなかった。なので、端折っても良いには良い。実際観光客の多くは、このドン・キホーテ前で降りてしまうのだった。俺と違って合理的に考えられる美佐はきっと頭の良い女の子だ。という訳で、俺は美佐に手を引っ張られるようにして船を降りた。下船した目の前が目的のドン・キホーテだった。

 戎橋(通称ひっかけ橋)のすぐ脇にある6階建てのドン・キホーテ。
 このドン・キホーテのビルは、ビル全体を覆うような形で長円型の大観覧車(えびすタワー)が併設されている。必ず目に付く前面の戎様のモニュメントは、ミナミのランドマークとして親しまれている。
 ドン・キホーテ1階の店頭は、雑然とした商品の山と大量のポップで溢れ返っていた。そして、そのポップの中には、近年増加している観光客向けの外国語文字が躍っていた。店内も観光客の団体でいっぱいだ。俺は、このドン・キホーテの殺伐とした雰囲気が結構好きだったりする。下世話で雑多で、整理整頓という言葉からは縁遠い物々しい雰囲気。そういう滅茶苦茶具合が如何にもミナミに合っているし、何よりアルルカンの住人に似ていると思っていた。
 アルルカンに来る人達も、そのミナミという土地柄上、色んな境遇の人間がいる。それぞれがそれぞれに色んな事情を抱えて、色んな主義や主張がある。時にはそれで喧嘩になることも少なくないけれど、俺たちにとってはそれが普通のことだ。お互いに相手の価値観は理解できなくとも、だからと言って排除はしない。いつも鬱陶しい隣人として存在している。そういう雰囲気がこの場所にはある。どんなにみすぼらしくなっても許してくれるから、俺はとても居心地がいいと感じるのかもしれない。かもしれない、と思いながら、立っていると
 「何やってるん!」
 と向こうから美佐が叫んだ。
 ふと顔を上げると、美佐はもうすでに脇の階段の方に向かっている。観覧車の受付はそこから3階に上ったところにある。
 「あ、ちょー待って!」
 咄嗟に呼ぶ。美佐はこっちを振り向いて、階段の上を指さす。
 「いっぱい並んでたらあかんから、はよ走るで!隆志も早くっ」


 「なんぼ?」
 「えっと、一人600円かな。15分やってさ。結構、ちゃんとしてそうやね。」
 「こんな街中の観覧車、そんなに高くないんちゃうん」
 どうせなんちゃって観覧車じゃないのか、と階段を上った受付フロアを見ながら、俺は訝し気に思った。フロア全面の内装がド派手すぎて非常に胡散臭い。
 「高さは、えーっと… …77.4メートル。座席が水平回転して、全員が外側の景色を楽しめます、って書いてあるよ。まぁまぁ普通に高いみたい。わくわくするのう」
 「ふーん。」
 「じぶん、ここの乗ったことないの?」
 美佐が俺をほんの少し見上げて言う。美佐の背は多分160cmくらいあるだろうが、それでも175cmの俺の横に立つと、首を上に向けて話す格好となる。
 「うん。あんま食指が動かんくって。今まで乗ったことないわ」
 「ほな、今日一緒に初体験やな!」
 俺たちの前には観光客と思しき外国人が二組待っていた。一組は中国人の集団でもう一組は白人だがどこの国の人かは分からない。皆旅行を謳歌しているようで、とても賑やかだった。
 俺はいつもはこういう集団はうるさくて面倒だと感じることが多いが、今は気にならなかった。なぜかというと、目の前に一人で騒いでいるミサミサがいるからだ。傍から見ている分では飽きなくて、とても暇つぶしになる。
 待ってる間も彼女はフロア中を動き周り、一人であぁだのこうだの、難しい顔をしたり驚いたりしている。きっとこの子は周りに誰もいなくても、すぐに楽しいことを見つけて遊んでしまうんだろう。そうこうしているうちに、もう順番が回ってきそうだった。
 「美佐、次やで」
 壁に貼ってある何らかの写真を凝視していた美佐は、俺の呼びかけに反応すると、物凄い勢いで戻ってきた。そして俺の左腕を抱き込むようにくっついてきた。
 「ドキッ」
 美佐は俺を見上げて無言で笑顔を見せた後、すぐに前を向いた。
 前を向きながら
 「口から心臓の音が出てるで」
 と言った。
 「心臓に悪いこと止めてよ…。びっくりするやん。人肌なんて、しばらく風俗嬢のしか知らんねんから」
 あほ!と言いながら、美佐がまた俺の肩を叩く。
 店内から乗り場スペースに出ると目の前には、大きなゴンドラがゆっくりと稼働していた。
 「わくわく…」
 「わくわくを口に出して言うか」
 「口から心臓の音出てる人に言われたないわ。うふふ」
 目の前に空の観覧車が到着した。係員がどうぞと呼びかけて、俺たちは乗り込んだ。


 「では、安全バーが下りますので、気を付けてください」
 店員が呼びかけると上から安全バーが下りてきた。そのまま席全体が180度回転して外側に向いた。
 「おー!」
 感心で声がハモる。
 観覧車は四人掛けで横一列になっていた。右端に俺が座り、その横に美佐。眼下には道頓堀川と今下りてきた船着き場が見え、沢山の人が行き交っている。目の前の全面が大きくガラス窓になっている。床は普通なのだが、窓が足元近くまであって外が透けて見えているので、中々のスリル感だ。そして今ここで告白するが、実は俺は高所恐怖症だ。これは正直やばいかもしれない。そんな俺を後目に美佐は楽しそうに一人ではしゃいでいる。
 「もう結構高いなー。おもろーい。ほら、あそこ!あそこから船下りてきてんで」
 「… …な、なんかさー、この目の前のガラス窓と床の間がさ、ちょっと空間あるやん…」
 「空間?…あ、ほんまや。隙間があるね」
 「ここ危ないよね…」
 「何自分、怖いん?もしかして高所あかん人?」
 美佐が横目で面白がって見る。
 「ええ大人やのに、情けないなぁー。まだ全然怖くないやん。あ、ほら、あそこ。あそこの学生っぽい女の子の集団。こっち向いてるんちゃう?おーい、ばいばーい」
 美佐が眼下に小さく見える集団に、大きく手を振る。それが見えたのか、女の子たちも笑顔で手を振り返してくれる。
 「あ、振り返してくれたで。ほら、隆志も一緒に振ろう」
 「えー」
 「ほらほら!」
 美佐に急かされるように俺も手を振る。眼下の女の子たちもそれに呼応するように、両手で何度も手を振り返してくれた。反応が返ってくるのは結構楽しい。
 「女の子ら振り返してくれたやん!ほんで、お兄さん、鼻の下伸びてますけど。」
 「え。…ちょ。見んといてくれる」
 やばい、自然に半笑いになっていた。無防備になった自分が恥ずかしかったので、少し顔を反らした。そのとき美佐が左手を繋いできた。
 「これで怖くないんちゃう」
 「あ、…うん。まぁ」
 美佐は俺を見ながら少し笑っている。
 「ほな、そういう方向で。」
 そういう方向がどういう方向なのか分からないまま、美佐はまた外の景色に目を移す。俺はいよいよ若い女の子の考えがよく分からなくなってきた。一体どうしたら良いんだろう。もやもや。
 「このガラス、見晴らし良いけど、真夏とかめちゃくちゃ暑そうやね」
 「た、確かになぁ。てかそれより、なんか、マジ高ない?」
 「それは、ちょっと私も思ってた。」
 街中のドン・キホーテの観覧車。それだけで奇抜さが優先する。奇抜さで目を引かせるが実際はそうでもないといった商品が多いことにつき、街中の観覧車ってカテゴリについても俺は正直舐めていた。完全に舐め切っていたのである。俺は今ここに、街中の観覧車を完全に舐め切っていたことを深くお詫び申し上げます。本当に申し訳ございませんでした。陳謝。嘘偽りなく、正しくちゃんと高かったです。しかも、周りに比較対象の人や建物が多くあるおかげでよりその高さが際立つという、街中にあることによる相乗効果。滅茶苦茶怖いです。美佐もこの高さは予想外だったのか、頂上に近づくにつれて少し顔が引きつっている。
 「ほら、ここ見て。このゴンドラ、片っぽしかくっついてないから、なんか落ちそうで怖い」
 「ちょ、ちょっと、そういうことゆうのやめて!既に俺、高さだけで十分やばいねんから」
 観覧車は、ビルの形に添った長円型をしている。そしてその形状に伴って、ゴンドラも釣り鐘式ではなくレール式となっている。そしてレール式とは、常に内側のみでゴンドラを支えているという形状なのだ。安全上は問題ないのだろうが、この形状を視覚的に目の当たりにすると、ゴンドラの片側だけで支えるというその心許なさに、高度が上がるにしたがって恐怖感が増してくる。また、その割れるような稼働音も演出に一役買っているのだ。さすがの美佐もゴンドラの形状にすくんでいる。心細くなってきたのか、いつに間にか俺の左腕にくっついていた。そうこうしているうちに、もうすぐ頂上に到着しそうだ。
 「怖いね…」
 「俺まじ、あかんわ」
 俺は最早、目を閉じつつある。辛うじて景色の輪郭が見えるくらいだ。心頭を滅却して恐怖を押さえようという試みである。
 「あ、見て。向こう、あべのハルカスも見えるよ。怖いけど景色は良いで。見てみ。ほれ、ほれ」
 ほれほれ、と言いながら、美佐は自分の指で俺の目を開けようとする。
 「ちょっ、ちぇ!開けてるって」
 「下は見んと、景色だけ見てみって」
 仕方がないから、下を見ないように注意しながら、なんとか目を開けてみる。
 「お?… …お。おおー」
 景色は本当に良かった。天王寺のあべのハルカスや、向こうの生駒山までが抜けるように見えた。そして、その広大な景色の上を真っ青な空が包み込んでいる。
 「絶対に下は見たくないけど、景色はほんまにええな。」
 「うん」
 今は14時前。平日昼間の大阪の景色は綺麗だった。眼下の喧騒は、ゴンドラの中までは聞こえてこなかった。
 「なぁなぁ。」
 「うん?」
 「私が、隆志って呼び捨てにしてるの、気づいとった?」
 「あー。… …まぁ。気づいてたよ」
 「嬉しかった?」
 「嬉しいって、どういうことよ。」
 「どうなんよ。」
 美佐が凝っとこっちを見てくる。いつだったか、アルルカンで俺を見てきたときのように、まっすぐ曇りなく。
 「あー、まぁ。うん」
 「私は、嬉しかったよ」
 嬉しかったよ、と言いながら、美佐は相変わらず俺にひっついている。
 こういう状況なので正直いうと最早、観覧車の高さとか、恐怖感とか、世間の平日の喧騒とかは、既に二の次になっていた。つまりどうでもよかった。
 ちょっと進展が早すぎる、って思うのは古い感覚なのか?とか思いながらも、少し迷ってから美佐とキスをした。


 「めっちゃ怖かったねー」
 受付の階段を下りながら、美佐が言う。手は繋いだままだ。
 そして、こうなるとやることは一つしかないのでは?と俺は先ほどからずっと思っていた。
 「えーっと、一つご提案なんですが、なんか、そろそろご休憩的なところに行ってもいいのではないかな。と…」
 俺のあまりに本能に忠実な答えに、美佐が怪訝な顔をする。繋いだ手を強く振りながら、少し怒る。
 「私は、観覧車の感想を聞いている!」
 「まぁ、思ってたより、怖かったです。いやほんとに。ドンキの観覧車、舐めててすみませんでした。」
 「うーん。まぁ、いいでしょう!」
 いつの間にか店側の人になった美佐を後目に、ひっかけ橋の方を眺めてみる。いつも通りの凄い人通りだ。とりあえず俺たちは、そっちの方を目指して歩いていくことにした。
 「えーっとさ。そろそろ、アルルカンに戻ろう思うねん。」
 美佐が唐突に言う。
 「え!今日、仕事するの?」
 「うん。ほんまやったら出勤やもん。たまたま、それ買いに行くから外出許可が出ただけで。」
 言いながら、美佐は俺の持っていたコーヒーカップセットを指さした。
 「そうやけど、もう休んでるんも一緒やん。」
 「まぁ。でも、コーヒーカップセット、マスターに渡さなあかんし。それに、今日はちょっとこれで終わりにしたくて。」
 「何をこれで終わりにするの?」
 「隆志と遊ぶの。あんまりずるずる行くと、あかん気がするから」
 何がずるずる行くとダメなんだろう。やっぱり俺にはよく分からなかった。だけど、美佐がそういう気持ちでいるのなら、そうしようと思った。多分、俺が20代だったら猛烈に押して押して押しまくるんだろうな。年月が経つと、俺みたいな人間でも多少は分別ってものがついてくる。
 「そっか。じゃあ、アルルカンもどろっか」
 「うん!」
 悔しいが、そのうんは割りと強力に俺の心を揺り動かした。つまり可愛かった。美佐はその決定に心底喜んでいた。
 美佐と俺はひっかけ橋の端っこで多少の相談をして、少し散歩してからアルルカンに戻ろうということにした。手を繋ぎながら人通りの多い心斎橋筋商店街をゆっくり歩いて帰った。




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