水曜日①
文字数 6,563文字
「隆志さん、こっち」
大阪城公園駅の改札を抜けて外に出ると、まだ眠気の覚めない俺に向かって美佐が言った。
「ここからすぐに降りれる」
声がした方を振り向くと、すぐ脇の小さな階段を指さしながら美佐が待っている。
まだ時間は朝の10時過ぎ。フレックスなのかサラリーマンやOLが早歩きで俺の横を通り過ぎていく。皆一様に目の前の広い階段を下りていくから、俺もてっきりそっちに行くものとばかり思っていた。
「え、こっちじゃないん?」
「ライブ行くんならそっちで良いけどね。私らはとりあえず北の橋を渡らないと」
「そっか」
大阪城公園駅は、大阪城ホールの最寄り駅だ。
大阪城ホールは最大16,000人収容と大阪でも有数のライブ会場だ。それだけのキャパがある会場なので、そこでは有名なアイドルグループのライブ等が定期的に行われている。環状線に乗っていると、この駅でライブ終わりのファンに遭遇することがあるが、あのお喋りの中に巻き込まれるのは正直勘弁してほしい。
美佐が動きの遅い俺を、早く来いと急かす。
「そんな急いでも、まだ店は開いてへんのとちゃうかなぁ」
「着いたら丁度良い時間になるって。目当てのやつ、無くなったらイヤやし」
そう言うと、美佐は少し速足に階段を下りていく。低血圧の俺はそんなに早く動けない。君は俺よりとんでもなく若いから、有り余る体力を無尽蔵に発散させてもいいけれど。もう中年に入るとね、燃費する時と場所、すなわちTPOを弁えないといけないんです。じゃないと過労で死んでしまうんです。
「ええっと、ですねぇ。この道をずっと進みますと、第二寝屋川があります。それをとりあえず、超えます。」
美佐がスマホを見ながらナビゲートしてくれる。道は彼女に任せっきり。というか、俺はただ単に付き添いしてるだけなのだ。
今日は仕事が休みだったから、俺は9時過ぎにアルルカンにモーニングを食べに行った。
いつも通り鈍いチャイムを聞きながら扉を開けて、いつもの席が空いてたのでそこに座る。
アメリカンを頼んでゆっくりと飲んでると、マスターと美佐がノートPCを食い入るように見ている。
俺の目標はお腹を満たすことにある。だもんで、さっきモーニング注文したはずなのに、なんだかどうみても作り始めている気配がない。あんまり二人が眺めているもんだから、俺はだんだん心配になってきた。ちゃんとモーニング、すなわち朝食にありつけるんだろうか。なんとなく、俺は気になって聞いてみた。
「あの、お二方。俺のモーニング、ちゃんと作ってくれてるんやんね…」
遠慮気味に聞いた俺。その声にマスターが即座に答える。
「そんなん後や!!」
「な、なんで?!」
マスターの言葉に、俺は深く傷ついた。そして傷ついた俺に更に追い打ちをかけるように、
「お前はちょっと、黙って座っとれ!!」
… …うん。すんごい。
食事を求めている客に向かって、ただ座っておれと命令する喫茶店。さすがミナミ。この大阪に生まれ落ちて齢30数年の身なれど、未だこのように驚かされる出来事が発生しようとは。客に断食を命じる喫茶店。断食喫茶。自身の存在意義を問いただすメタ喫茶だと。さすが俺の惚れ込んだ街。半端ない。
「ちょっと、めちゃくちゃ可愛いコーヒーカップセットが売ってるんですよ」
ゴミのような扱いを受けている俺を憐れむように、ついでといった風に美佐が説明してくれた。
「ぶっ… …。…は?コーヒーカップセット?」
俺は珈琲を吹き出しそうになった。
「はい。なので、モーニング、ちょっと待っといてください」
美佐もマスターと同じくPCに噛り付いて、こちらを視界に入れようともしない。
どうやら、俺のモーニングはそのコーヒーカップセットとかなんとかよりも、ぷらいおりてい、ちうやつが低いそうだ。そりゃそうだ。モーニングなんて、そんなもん。低いに決まってる。低いに決まってらぁ。ねえ。そりゃ低いよ。モーニングなんて。そんなもん非国民が食うようなもんだっての。は!ちゃんちゃら可笑しいや。ねぇ。へっ。阿呆くさ。そりゃ、低いに決まってるっての。低いに決まってるから、おいらはアメリカンをとりあえず啜っちゃう。啜っちゃうよおいら。ね。啜ちゃうの。ね。ってって、
「いやいやいやいや!」
俺は思わずその場に立ち上がって、漫才の突っ込みのようにカウンターに向かって手を鋭く延ばした。延ばしましたとも。悲しい乗り突っ込み。
「いやいやいや!おかしいでしょ!お客さんやで!?喫茶店ってさ、俺の記憶が確かならば、飲食を提供することで対価を得るってのが、業務やし命題やと思うんやけど?しかもお客様がモーニング作ってくれてるんやね?って遠慮気味に聞いてるのに、黙って座っとれ!って、そんな状況って皆さん経験ある?俺はあるよ!今まさに体験しているこの状況がそうだよ!どうなの!すごいでしょ!」
俺はあまりの出来事に、心が暴走してしまった。少し大人気なかったかも、となぜか反省してしまった。が、マスターと美佐は俺の言葉を聞いて、やっと俺の方をゆっくりと向いた。
「… ……」
美佐がまんまるい目をしながら、俺の顔を無表情に見ている。マスターは愕然、といった感じの顔を俺に投げかけており、その時間実に2秒ほど。俺はなんだか居たたまれなくなってきたところで、マスターが言った。
「それもそうやな。お前も客やった。すっかり忘れとったわ」
「?」
「私もてっきり、どうでも良い人かと…」
「ど、どうでも良い人…」
何事もなかったかのように、てきぱきと動きを始めるアルルカンの店員たち。そこに一人立っている場違いなお客が一人…。なんだか辱められたような釈然としない気持ちのまま、俺はまた着席した。
「あのね、マスターがすごくかわいいコーヒーカップセットを見つけたんです。」
美佐が嬉しそうな顔しながら、さっき言ったことと一字一句同じことを俺に報告する。
「コーヒーカップセットて…。心底どうでも良い…」
俺はそれよりも朝食が食べたいだけなんだが。
「お前は全然分かってへん」
マスターが俺の言葉に鋭く反応する。
「何が」
「コーヒーカップがええとな、コーヒーの味も変わってくるんや」
「嘘つけ!そんなことより、俺にモーニングを早くよこせ!!」
「あ、マスター。なんか、大阪で売ってるみたいですよ!」
美佐がネットで何かの記事を見つける。ってお前、てきぱき仕事始めてくれたんじゃなかったのかい?その声にマスターが嬉しそうに反応する。
「え!ほんま?!」
「はい!えーっと、ここは…。ちょっと待ってくださいよ。えーっと。うーん、最寄りは、大阪城公園駅か…」
美佐は集中しているのか、どんどんノートPCに顔が近くなっていく。眉間に凄いシワだ。そして、それに負けないくらいマスターの顔も真剣だ。この人たちは一体何をしているのだ。営業時間に。
「美佐ちゃん!」
「はい。」
「今から、この店行って買ってきて!」
マスターが堪らず大きな声を出す。
「え、今からですか?!でも、お店がありますけど」
「ええ!ええねん、店なんか。それより、こっちの方が大事や!」
「こっちの方が大事や!って…」
大阪城公園駅の階段を下りながら、
「一体全体どういうことやねん」
俺は独り言ちる。
「結局モーニング食う時間なかったし」
そういうわけで、俺と美佐はマスターの鶴の一声でアルルカンから追い出された。コーヒーカップセットを必ずゲットするという特命を受けて。まったく、人心をここまで乱すコーヒーカップセットとは一体どんな魔力を秘めているのか。隆志と美佐を待ち受ける運命とは如何に!?
「運命とは如何に?!とかゆうとかんと、やっとれんわ。」
阿呆なことを言っている俺を見つけて遠くからミサミサが言う。
「何をさっきから独り言ゆってるんですか?」
「モーニング食べる時間なかったし!」
お腹がぺこぺこの俺は、恨み言を投げる。
「それ電車乗ってる間、ずっとゆってますやん。しつこいなぁ、良い大人のくせに。」
「…ぐ、ぐぬぬ」
こんな小娘に諫められるとは、口惜しい。ちょっとかわいいからって!
「あ、あった。これが第二寝屋川ね。」
少し歩くと、橋に着いた。いつまでもごねてても仕方がないから、当面の目的に集中しようと思います。
「へぇ、これって寝屋川やったんや。」
「東大阪の方から続いてるんよね」
美佐がスマホを見ながら言う。なにやら興味深げに河川図を眺めている。
「ふーん。なんなん。川、好きなん?」
「川?うーん。好きってわけではないけど。なんか、面白いやんね。どこから、どうこの川が流れてきてるのか、とか。上流まで辿っていってみたくなるやん。行ったことないけど」
そんな、取り留めもないこという割には、なんだか楽しそうだ。
「へー。」
「なんで?」
「ふん。あそこ、見える?」
俺は、俺たちが立っているところから反対側の川を指さして言った。
「あそこ。川沿いのところに、船着き場あるやろ」
「船着き場?」
美佐がつま先を延ばしながら、懸命に川の方を見つめる。
「うん、なんかあるね。」
大阪城駅前から改札を抜けて、大阪城ホールに行く方向の階段を降りる。そこから川沿いに向かって歩いていくと船着き場があるのだ。実はそこから大阪の街中を川下りができる。
「あそこから、道頓堀川まで船が出てるんよ」
「え?!どういうこと?」
何気なく思いついた情報だったのだが、美佐が予想以上の反応を見せる。か、顔が近くてびっくりした。
「ちょ、ちょい落ち着いて。」
「う、うん!」
美佐の鼻息が荒くなっている。
「あそこから、船が出ててさ。ほんで、街中の川を道頓堀まで南下していくコースがあるんよ。街中の橋の下をぐんぐん進んでいって、最後はひっかけ橋の方まで行くの。今まで自分らが生活してたところを下から見上げるような感じで、結構新鮮でさ。そういう景色、中々興味深いよ。」
「何それ!めっちゃ面白そう」
物珍しい川下りは、美佐の琴線に予想以上に響いたようだ。で、だけどなんだか響きすぎて、船着き場を見ながら、スマホで検索を始めてしまう。すっかり足が止まってしまった。それよりも早く買い物しに行くんじゃなかったのか。マスターに特命を受けてたろう。自分の興味については正直に、全力でメーターを振り切る。これが若さってやつなのか?!
「あー、いやいや。昔付き合ってた子と一緒に乗ったことがあってさ。結構面白かったなぁって、思い出しただけやねん。思いだしただけやから、あの、うん…。」
「えーっと。うんうん、アクアライナーってゆうのか…」
「あのー、ちょっと。もしもしー」
恐る恐る様子を見ていた俺の顔を、突然思い出したように見上げるミサミサ。いちいち動きが機敏すぎて、おじさんビックリするよ…
「ヒイッ!」
「ちょっと、買い物終わったら、船のろう!!」
「は?!」
ミサミサがスマホの画面を俺の顔に押し付けてくる。
「近い近い!近くて見えへん!」
公式サイトの時刻表を指さしながら、不敵な顔して彼女が言う。
「12時からの便があるね…」
お目当てのお店には開店と同時くらいに到着して、お目当てのコーヒーカップセットもばっちりゲットできた。
美佐は購入したばかりの荷物をさっそく俺に持たせて
「割ったら台無しやからね!」
と念入りに注意を促した。こういう割れ物の荷物は本当に苦手だ。知らない間にヒビが入ってたりするから。
「分かったよ」
俺はいっつも、買い物袋を持ったときは手をブラブラする癖がある。そのせいで、商品をそこら中にぶつけてしまうのだ。それは長年の自分との付き合いで知ってる。だから、それの対策も自分なりに身に着けてもいるのだ。というわけで、俺は胸の前辺りに荷物を置きつつ左手で商品の底を持った。両手でガードするのだ。これで間違いない。
俺が俺のことで精いっぱいになっていたところで、美佐は本命の予定に向けて既に動き出していたのだった。
「今11時すぎか。ちょっとお店で長居してもうたかな」
「目当てのもんあるのに、他のやつ見すぎ」
「だって可愛いの、いっぱいあってんもん」
もうそろそろお昼になる。こう見えて俺は基本的に三食ちゃんと食べる人間なのだ。しかし今日は食べてない。俺のお腹は限界に達そうとしていた。
「ど、どっか食い物屋入らんへん?」
「ダメダメ。とりあえず、船着き場まで行かんと。12時ちょうどやからね、出発」
「それまでに人が一人、死んでまうかもしれんよ?」
「うーん、そいつは困ったね…」
あんまりメシメシ俺が言うもんだから、さすがに何か探してくれてるみたいだ。
ってゆうか、でもきっとこの優しさには裏がある。きっとそうだ。例えば、俺の体調が悪くなったら船に乗れないかもだし、商品を割ってしまうかもだからだ。そうだ、そうに違いない。まったく。危うく騙されるところだった。ほんと、女ってやつは!
「あ!」
「な!何」
俺は心の声が聞こえたのかと思って驚いた。
「あそこに屋台があるよ、大阪城公園駅の下の方。多分、今日も誰かのライブなんやろうな、きっと。あそこまで、我慢できる?」
「えー、マジか」
「私がおごったげるから、頑張って!モーニング食べれんかったお詫びや」
さっきの橋を逆戻りして、なんとか大阪城公園駅に戻ってきた。
辺りにはいくつか屋台がある。てか、屋台じゃなくてもなんだかお洒落なお店も出来ていた。こっちの方が、美味しいもの食べれるのかも!俺が涎をこぼしながらカフェ等を物色していると、その視線に気が付いたのか
「カフェはあかんで。そんなとこ入っている時間ないから」
「えー…。」
腕時計を見ると、確かに今11時半くらい。店に入って飯を食べるには微妙な時間だ。
しょうがないので、俺は屋台の中から何を食べるか考える。っていってもお腹がペコペコな人間には屋台の食べ物だって、どれも輝いて見えた。
「や、やばい。どれにしよ。唐揚げ、やきそば、箸巻き…」
「食べれるんやったら、全部食べたら良いやん」
美佐が必死な俺を見て、呆れたように言った。
「マジか、ほな、全部」
「はいはい」
屋台で唐揚げと焼きそばと、それから箸巻き二本。一本は美佐が自分の分で買った。一つを俺の口に放り込んでくれる。俺は心が口から飛び出そう。
「美味い、美味すぎ!!」
船着き場は屋台のすぐ裏手にあった。
俺たちはそのすぐ横にあるテーブルに座って、乗車時間まで少し休憩することにした。
美佐も自分の箸巻きを食べる。
「あ、美味し」
「あのね!屋台の箸巻きと、キャベツ焼きはね、人類の画期的な発明やと思うねん。外でも手軽に食べれて、ほどよく小腹も満たしてくれて。何より、めちゃめちゃ美味しい。こんな、全てにおいて最高得点のやつないわ、ほんま。あ、いや!ええでええで。ええねん、同意せんでも。大丈夫、同情票は要らないよ。これは、俺の中で確定事項やから!」
「何を必死にゆうてはんのやろ、この人…」
自分の分をゆっくり頬張りながら、美佐が言う。
今は良い…。年が20個くらい離れている少女に、侮蔑的でかつ軽蔑的な目線を投げかけられようとも。大人の尊厳を蹂躙されようとも。そんな、何物にも代え難い美味しさと崇高さという物が、まさに今ここにはある。大丈夫、それを知っているのは俺だけで良い。
なーんてことを思いながら、引き続き焼きそばと唐揚げにも武者ぶりつく。お、美味しい。と、一人必死な大人気ない大人をどういう気持ちで見ているのか。美佐は何も言わずにただ、俺が食ってるところを普通に見ていた。ときおり太陽の反射した川を眺めながら。
大阪城公園駅の改札を抜けて外に出ると、まだ眠気の覚めない俺に向かって美佐が言った。
「ここからすぐに降りれる」
声がした方を振り向くと、すぐ脇の小さな階段を指さしながら美佐が待っている。
まだ時間は朝の10時過ぎ。フレックスなのかサラリーマンやOLが早歩きで俺の横を通り過ぎていく。皆一様に目の前の広い階段を下りていくから、俺もてっきりそっちに行くものとばかり思っていた。
「え、こっちじゃないん?」
「ライブ行くんならそっちで良いけどね。私らはとりあえず北の橋を渡らないと」
「そっか」
大阪城公園駅は、大阪城ホールの最寄り駅だ。
大阪城ホールは最大16,000人収容と大阪でも有数のライブ会場だ。それだけのキャパがある会場なので、そこでは有名なアイドルグループのライブ等が定期的に行われている。環状線に乗っていると、この駅でライブ終わりのファンに遭遇することがあるが、あのお喋りの中に巻き込まれるのは正直勘弁してほしい。
美佐が動きの遅い俺を、早く来いと急かす。
「そんな急いでも、まだ店は開いてへんのとちゃうかなぁ」
「着いたら丁度良い時間になるって。目当てのやつ、無くなったらイヤやし」
そう言うと、美佐は少し速足に階段を下りていく。低血圧の俺はそんなに早く動けない。君は俺よりとんでもなく若いから、有り余る体力を無尽蔵に発散させてもいいけれど。もう中年に入るとね、燃費する時と場所、すなわちTPOを弁えないといけないんです。じゃないと過労で死んでしまうんです。
「ええっと、ですねぇ。この道をずっと進みますと、第二寝屋川があります。それをとりあえず、超えます。」
美佐がスマホを見ながらナビゲートしてくれる。道は彼女に任せっきり。というか、俺はただ単に付き添いしてるだけなのだ。
今日は仕事が休みだったから、俺は9時過ぎにアルルカンにモーニングを食べに行った。
いつも通り鈍いチャイムを聞きながら扉を開けて、いつもの席が空いてたのでそこに座る。
アメリカンを頼んでゆっくりと飲んでると、マスターと美佐がノートPCを食い入るように見ている。
俺の目標はお腹を満たすことにある。だもんで、さっきモーニング注文したはずなのに、なんだかどうみても作り始めている気配がない。あんまり二人が眺めているもんだから、俺はだんだん心配になってきた。ちゃんとモーニング、すなわち朝食にありつけるんだろうか。なんとなく、俺は気になって聞いてみた。
「あの、お二方。俺のモーニング、ちゃんと作ってくれてるんやんね…」
遠慮気味に聞いた俺。その声にマスターが即座に答える。
「そんなん後や!!」
「な、なんで?!」
マスターの言葉に、俺は深く傷ついた。そして傷ついた俺に更に追い打ちをかけるように、
「お前はちょっと、黙って座っとれ!!」
… …うん。すんごい。
食事を求めている客に向かって、ただ座っておれと命令する喫茶店。さすがミナミ。この大阪に生まれ落ちて齢30数年の身なれど、未だこのように驚かされる出来事が発生しようとは。客に断食を命じる喫茶店。断食喫茶。自身の存在意義を問いただすメタ喫茶だと。さすが俺の惚れ込んだ街。半端ない。
「ちょっと、めちゃくちゃ可愛いコーヒーカップセットが売ってるんですよ」
ゴミのような扱いを受けている俺を憐れむように、ついでといった風に美佐が説明してくれた。
「ぶっ… …。…は?コーヒーカップセット?」
俺は珈琲を吹き出しそうになった。
「はい。なので、モーニング、ちょっと待っといてください」
美佐もマスターと同じくPCに噛り付いて、こちらを視界に入れようともしない。
どうやら、俺のモーニングはそのコーヒーカップセットとかなんとかよりも、ぷらいおりてい、ちうやつが低いそうだ。そりゃそうだ。モーニングなんて、そんなもん。低いに決まってる。低いに決まってらぁ。ねえ。そりゃ低いよ。モーニングなんて。そんなもん非国民が食うようなもんだっての。は!ちゃんちゃら可笑しいや。ねぇ。へっ。阿呆くさ。そりゃ、低いに決まってるっての。低いに決まってるから、おいらはアメリカンをとりあえず啜っちゃう。啜っちゃうよおいら。ね。啜ちゃうの。ね。ってって、
「いやいやいやいや!」
俺は思わずその場に立ち上がって、漫才の突っ込みのようにカウンターに向かって手を鋭く延ばした。延ばしましたとも。悲しい乗り突っ込み。
「いやいやいや!おかしいでしょ!お客さんやで!?喫茶店ってさ、俺の記憶が確かならば、飲食を提供することで対価を得るってのが、業務やし命題やと思うんやけど?しかもお客様がモーニング作ってくれてるんやね?って遠慮気味に聞いてるのに、黙って座っとれ!って、そんな状況って皆さん経験ある?俺はあるよ!今まさに体験しているこの状況がそうだよ!どうなの!すごいでしょ!」
俺はあまりの出来事に、心が暴走してしまった。少し大人気なかったかも、となぜか反省してしまった。が、マスターと美佐は俺の言葉を聞いて、やっと俺の方をゆっくりと向いた。
「… ……」
美佐がまんまるい目をしながら、俺の顔を無表情に見ている。マスターは愕然、といった感じの顔を俺に投げかけており、その時間実に2秒ほど。俺はなんだか居たたまれなくなってきたところで、マスターが言った。
「それもそうやな。お前も客やった。すっかり忘れとったわ」
「?」
「私もてっきり、どうでも良い人かと…」
「ど、どうでも良い人…」
何事もなかったかのように、てきぱきと動きを始めるアルルカンの店員たち。そこに一人立っている場違いなお客が一人…。なんだか辱められたような釈然としない気持ちのまま、俺はまた着席した。
「あのね、マスターがすごくかわいいコーヒーカップセットを見つけたんです。」
美佐が嬉しそうな顔しながら、さっき言ったことと一字一句同じことを俺に報告する。
「コーヒーカップセットて…。心底どうでも良い…」
俺はそれよりも朝食が食べたいだけなんだが。
「お前は全然分かってへん」
マスターが俺の言葉に鋭く反応する。
「何が」
「コーヒーカップがええとな、コーヒーの味も変わってくるんや」
「嘘つけ!そんなことより、俺にモーニングを早くよこせ!!」
「あ、マスター。なんか、大阪で売ってるみたいですよ!」
美佐がネットで何かの記事を見つける。ってお前、てきぱき仕事始めてくれたんじゃなかったのかい?その声にマスターが嬉しそうに反応する。
「え!ほんま?!」
「はい!えーっと、ここは…。ちょっと待ってくださいよ。えーっと。うーん、最寄りは、大阪城公園駅か…」
美佐は集中しているのか、どんどんノートPCに顔が近くなっていく。眉間に凄いシワだ。そして、それに負けないくらいマスターの顔も真剣だ。この人たちは一体何をしているのだ。営業時間に。
「美佐ちゃん!」
「はい。」
「今から、この店行って買ってきて!」
マスターが堪らず大きな声を出す。
「え、今からですか?!でも、お店がありますけど」
「ええ!ええねん、店なんか。それより、こっちの方が大事や!」
「こっちの方が大事や!って…」
大阪城公園駅の階段を下りながら、
「一体全体どういうことやねん」
俺は独り言ちる。
「結局モーニング食う時間なかったし」
そういうわけで、俺と美佐はマスターの鶴の一声でアルルカンから追い出された。コーヒーカップセットを必ずゲットするという特命を受けて。まったく、人心をここまで乱すコーヒーカップセットとは一体どんな魔力を秘めているのか。隆志と美佐を待ち受ける運命とは如何に!?
「運命とは如何に?!とかゆうとかんと、やっとれんわ。」
阿呆なことを言っている俺を見つけて遠くからミサミサが言う。
「何をさっきから独り言ゆってるんですか?」
「モーニング食べる時間なかったし!」
お腹がぺこぺこの俺は、恨み言を投げる。
「それ電車乗ってる間、ずっとゆってますやん。しつこいなぁ、良い大人のくせに。」
「…ぐ、ぐぬぬ」
こんな小娘に諫められるとは、口惜しい。ちょっとかわいいからって!
「あ、あった。これが第二寝屋川ね。」
少し歩くと、橋に着いた。いつまでもごねてても仕方がないから、当面の目的に集中しようと思います。
「へぇ、これって寝屋川やったんや。」
「東大阪の方から続いてるんよね」
美佐がスマホを見ながら言う。なにやら興味深げに河川図を眺めている。
「ふーん。なんなん。川、好きなん?」
「川?うーん。好きってわけではないけど。なんか、面白いやんね。どこから、どうこの川が流れてきてるのか、とか。上流まで辿っていってみたくなるやん。行ったことないけど」
そんな、取り留めもないこという割には、なんだか楽しそうだ。
「へー。」
「なんで?」
「ふん。あそこ、見える?」
俺は、俺たちが立っているところから反対側の川を指さして言った。
「あそこ。川沿いのところに、船着き場あるやろ」
「船着き場?」
美佐がつま先を延ばしながら、懸命に川の方を見つめる。
「うん、なんかあるね。」
大阪城駅前から改札を抜けて、大阪城ホールに行く方向の階段を降りる。そこから川沿いに向かって歩いていくと船着き場があるのだ。実はそこから大阪の街中を川下りができる。
「あそこから、道頓堀川まで船が出てるんよ」
「え?!どういうこと?」
何気なく思いついた情報だったのだが、美佐が予想以上の反応を見せる。か、顔が近くてびっくりした。
「ちょ、ちょい落ち着いて。」
「う、うん!」
美佐の鼻息が荒くなっている。
「あそこから、船が出ててさ。ほんで、街中の川を道頓堀まで南下していくコースがあるんよ。街中の橋の下をぐんぐん進んでいって、最後はひっかけ橋の方まで行くの。今まで自分らが生活してたところを下から見上げるような感じで、結構新鮮でさ。そういう景色、中々興味深いよ。」
「何それ!めっちゃ面白そう」
物珍しい川下りは、美佐の琴線に予想以上に響いたようだ。で、だけどなんだか響きすぎて、船着き場を見ながら、スマホで検索を始めてしまう。すっかり足が止まってしまった。それよりも早く買い物しに行くんじゃなかったのか。マスターに特命を受けてたろう。自分の興味については正直に、全力でメーターを振り切る。これが若さってやつなのか?!
「あー、いやいや。昔付き合ってた子と一緒に乗ったことがあってさ。結構面白かったなぁって、思い出しただけやねん。思いだしただけやから、あの、うん…。」
「えーっと。うんうん、アクアライナーってゆうのか…」
「あのー、ちょっと。もしもしー」
恐る恐る様子を見ていた俺の顔を、突然思い出したように見上げるミサミサ。いちいち動きが機敏すぎて、おじさんビックリするよ…
「ヒイッ!」
「ちょっと、買い物終わったら、船のろう!!」
「は?!」
ミサミサがスマホの画面を俺の顔に押し付けてくる。
「近い近い!近くて見えへん!」
公式サイトの時刻表を指さしながら、不敵な顔して彼女が言う。
「12時からの便があるね…」
お目当てのお店には開店と同時くらいに到着して、お目当てのコーヒーカップセットもばっちりゲットできた。
美佐は購入したばかりの荷物をさっそく俺に持たせて
「割ったら台無しやからね!」
と念入りに注意を促した。こういう割れ物の荷物は本当に苦手だ。知らない間にヒビが入ってたりするから。
「分かったよ」
俺はいっつも、買い物袋を持ったときは手をブラブラする癖がある。そのせいで、商品をそこら中にぶつけてしまうのだ。それは長年の自分との付き合いで知ってる。だから、それの対策も自分なりに身に着けてもいるのだ。というわけで、俺は胸の前辺りに荷物を置きつつ左手で商品の底を持った。両手でガードするのだ。これで間違いない。
俺が俺のことで精いっぱいになっていたところで、美佐は本命の予定に向けて既に動き出していたのだった。
「今11時すぎか。ちょっとお店で長居してもうたかな」
「目当てのもんあるのに、他のやつ見すぎ」
「だって可愛いの、いっぱいあってんもん」
もうそろそろお昼になる。こう見えて俺は基本的に三食ちゃんと食べる人間なのだ。しかし今日は食べてない。俺のお腹は限界に達そうとしていた。
「ど、どっか食い物屋入らんへん?」
「ダメダメ。とりあえず、船着き場まで行かんと。12時ちょうどやからね、出発」
「それまでに人が一人、死んでまうかもしれんよ?」
「うーん、そいつは困ったね…」
あんまりメシメシ俺が言うもんだから、さすがに何か探してくれてるみたいだ。
ってゆうか、でもきっとこの優しさには裏がある。きっとそうだ。例えば、俺の体調が悪くなったら船に乗れないかもだし、商品を割ってしまうかもだからだ。そうだ、そうに違いない。まったく。危うく騙されるところだった。ほんと、女ってやつは!
「あ!」
「な!何」
俺は心の声が聞こえたのかと思って驚いた。
「あそこに屋台があるよ、大阪城公園駅の下の方。多分、今日も誰かのライブなんやろうな、きっと。あそこまで、我慢できる?」
「えー、マジか」
「私がおごったげるから、頑張って!モーニング食べれんかったお詫びや」
さっきの橋を逆戻りして、なんとか大阪城公園駅に戻ってきた。
辺りにはいくつか屋台がある。てか、屋台じゃなくてもなんだかお洒落なお店も出来ていた。こっちの方が、美味しいもの食べれるのかも!俺が涎をこぼしながらカフェ等を物色していると、その視線に気が付いたのか
「カフェはあかんで。そんなとこ入っている時間ないから」
「えー…。」
腕時計を見ると、確かに今11時半くらい。店に入って飯を食べるには微妙な時間だ。
しょうがないので、俺は屋台の中から何を食べるか考える。っていってもお腹がペコペコな人間には屋台の食べ物だって、どれも輝いて見えた。
「や、やばい。どれにしよ。唐揚げ、やきそば、箸巻き…」
「食べれるんやったら、全部食べたら良いやん」
美佐が必死な俺を見て、呆れたように言った。
「マジか、ほな、全部」
「はいはい」
屋台で唐揚げと焼きそばと、それから箸巻き二本。一本は美佐が自分の分で買った。一つを俺の口に放り込んでくれる。俺は心が口から飛び出そう。
「美味い、美味すぎ!!」
船着き場は屋台のすぐ裏手にあった。
俺たちはそのすぐ横にあるテーブルに座って、乗車時間まで少し休憩することにした。
美佐も自分の箸巻きを食べる。
「あ、美味し」
「あのね!屋台の箸巻きと、キャベツ焼きはね、人類の画期的な発明やと思うねん。外でも手軽に食べれて、ほどよく小腹も満たしてくれて。何より、めちゃめちゃ美味しい。こんな、全てにおいて最高得点のやつないわ、ほんま。あ、いや!ええでええで。ええねん、同意せんでも。大丈夫、同情票は要らないよ。これは、俺の中で確定事項やから!」
「何を必死にゆうてはんのやろ、この人…」
自分の分をゆっくり頬張りながら、美佐が言う。
今は良い…。年が20個くらい離れている少女に、侮蔑的でかつ軽蔑的な目線を投げかけられようとも。大人の尊厳を蹂躙されようとも。そんな、何物にも代え難い美味しさと崇高さという物が、まさに今ここにはある。大丈夫、それを知っているのは俺だけで良い。
なーんてことを思いながら、引き続き焼きそばと唐揚げにも武者ぶりつく。お、美味しい。と、一人必死な大人気ない大人をどういう気持ちで見ているのか。美佐は何も言わずにただ、俺が食ってるところを普通に見ていた。ときおり太陽の反射した川を眺めながら。