土曜日

文字数 5,655文字

 7時のけたたましい携帯アラームをなんとか止める。布団に入ったままゆっくりと目を開けると、閉め切ったカーテンの隙間から天気の良さそうな朝日が差し込んでいた。
 昨日のこと。
 昨日はあれから飲み直すって話になって、コンビニで酒とおつまみを買ってから俺ん家に向かった。美佐も俺も割と良い具合に酔っぱらっていた。美佐なんか、顔はもう傍から見てても分かるほど真っ赤になっていて、Tシャツから伸びた色白の腕も薄桃色になっていた。俺にしても、いつもより飲み方が少なかったはずなのに、何故かとても酔いが回っていた。だから本当は追加の酒なんて要らなかったんだけれど、それでも俺たちには言い訳が必要だったから申し訳程度の買い物をしたのだった。
 それでも、俺と美佐はもうどうとでもなれという気持ちで二次会の乾杯を大きな声でした。それから、何の話をしたっけ、とにかく、俺たちは色んな話をした。それはまるで、まだ出会って1週間しか経っていないのにこんな関係になってしまった、弁解というか、あるいは、普通の恋人ならば当然長い時間を掛けて育むだろうお互いの深度のようなものを、慌てて一気に取り戻そうとしているかのようだった。
 美佐は自身の今まで育ってきた環境のことを少しずつ教えてくれた。彼女が生きてきたこれまでのこと。


 美佐は花園町で育った。
 両親は地元の人間相手に自宅の1階で居酒屋をしていた。美佐が生まれてからも商売はそれなりに回っていたようだったが、その間も父親は博打と風俗に金を費やしており、美佐が中学を入る頃には家には金が無くなっていた。その頃から父親は酒を飲んで暴れるようになり、母親に手を上げるようになっていた。元々美佐は居酒屋を手伝ってもいたが、夜の店でもアルバイトをするようになった。そして、その頃からだった。父親が美佐に客を取らせ始めたのである。
 美佐の初体験は近所に住む常連の土方の親父だった。
 ある日、いつものように美佐が店の手伝いをしているところで、父親がふいに美佐に声を掛けた。
 「ちょっと、お前、2階行ってきてくれ。」
 その日は店は繁盛しており、席はほぼ満席だった。こんなにも店が忙しいのに、父親が頼み事をしてくるなんて一体何なのだろうと思ったし、そもそも2階に行ってきてくれ、というその要領を得ない問いに対しても疑問を感じない訳ではなかったが、近頃の父親の言動に危険を感じていた美佐は、文句も言わず父親の言う通り2階に行くことにした。店の厨房の奥から階段を上って2階に行くのであるが、油っぽい階段の手すりに手を掛けたところで、何とはなしに店内に目をやると、母親が此方を向いていて目があった。が、美佐と目があった瞬間に困ったような顔をした後すぐに仕事に戻っていた。美佐は何だろうと思ったが、特に気にすることもなく、とっとっととリズム良く階段を上った。
 2階には両親の部屋と美佐の部屋の二つがあった。階段を上ってすぐ右手に廊下があり、まず両親の部屋の扉があった。そしてその奥に美佐の部屋の扉がある。
 父親の『2階行ってきてくれ』という言葉を律儀に守ろうとする美佐は、とりあえず両親の部屋の扉を開けてみた。其処にはいつも通りの何の変哲も無い部屋があった。美佐はその部屋に父親の発言の意図を探ろうかとドアノブを握ったまま1分ほど考えたが、やはり特に何も分からなかったので静かにドアを閉めた。次に美佐は自分のドアの前まで来て静かにドアノブを回した。いつも通りの感覚でドアを開けた美佐は、部屋を見て少し驚いた。
 其処には何故か美佐の布団が綺麗に広げられていた。美佐は疑問に思った。何故なら、自分の布団を敷くのは当然自分だし、今まで両親がしてくれたこと等なかったからだ。まるで旅館みたいだなぁと思った美佐は、その光景がとても特別に思えて単純に嬉しかった。そうか、今日はもう仕事を終えて休めという事を父親は言っていたのかと美佐は理解した。
 そう思った美佐が、戸を閉めて自室に入ったその時、声が聞こえた。
 「美佐ちゃん、」
 美佐は思わずぎょっとして、声を上げそうになったが、なんとか踏み留まった。だが、その予想外の声はまだ中学生の女の子にはとても恐ろしく思えた。身体が固まったまま動かない。身体がわずかに小さく震えているのが分かった。それでもなんとか、恐怖を押し殺しながら、声の聞こえる方を見てみる。
 其処には、入ってきたドアから死角になるような位置に、常連の滝井という男が座っていた。滝井は50過ぎの中年男で、今は離婚をして一人身だった。頭髪は既に薄くなっており、土方業で一日中太陽に身体を晒されている所為か、皮膚のところどころに黒いシミが見受けられた。美佐はこの男のねっとりとした細い目つきが苦手だった。
 「た、滝井さん… …」
 美佐はなんとか声を絞り出した。部屋に居たのが泥棒では無く常連の男だったということで中学生の女の子は安心、するはずが無い。何故、店の常連である人間が自分の部屋に当たり前のように座っているのか。そもそもこの男と友達なのは自分の父親なのであって、美佐自身はこの男とは店の客ということ以外、一切の繋がりは無かった。一体誰の断りがあって、この人は私の部屋に居るんだろう、と思った。
 「なんで、私の部屋に?… …」
 美佐がそう言うと、胡坐をかいて煙草を呑んでいた手が一瞬止まった。
 「あれ。お父さんから何にも聞いてへんの?」
 滝井は少し焦るかのような表情をして、気を使いながら美佐にゆっくりと言った。美佐はいよいよ男が何を言っているのか分からなくなった。一体、この状況はどういうことなのだろう。私は父親から2階に行くように言われただけだ。
 「えっと… …。え、わ、私。お、お父さんに、2階、に、行くように、ゆわれた、だけで…」
 心臓が早鐘を打っている。喉から言葉がうまく出てこない。何がどうなのか、一向に理解できなかったが、とにかく分かっているのは、今、とても怖い、ということだけだった。その言葉をじっと聞きながら、滝井は美佐を諭すように答える。
 「うん、うん。そうやね。うん、そう。それで合っとうよ、」
 「え、え…」
 「ほやから、とりあえず、こっちにおいでぇな。おっちゃんと、ちょっとお話しような。」
 滝井はそれからゆっくりと四つん這いになり、美佐の布団の上までのろのろと移動していく。美佐はいよいよ、堪らなくなった。とにかくこの部屋を出ようとドアノブに手を掛けたその時、外側からの力でドアノブがぐるりと回った。
 ドアが開くと、其処には父親が立って美佐を見下ろした。


 「お父さん!!」
 美佐は思わず大きな声を上げた。そして、其処に父親が居ることがこの上なく心強く思えた。だが、肝心の父親は美佐を無表情に見た後、すぐに滝井の方を見て会話を始めた。
 「どうすっか?」
 父親が薄く笑みを浮かべて滝井に話掛ける。
 「陽介ちゃん。なんか、美佐ちゃんに話通ってないみたいやけど、大丈夫なん?俺、無理やりとかイヤやで。」
 「いや、そんなことないですって。大丈夫ですわ」
 大丈夫ですわ、と言いながら、美佐の頭を父親がくしゃくしゃと撫でた。美佐はその時、父親の顔を見上げながら困惑した。大丈夫って、一体何が大丈夫なんだろう。
 美佐がそう思ったのとほとんど同時に、父親が美佐の顔に目線を落としてきた。美佐は、やっと父親がまともに自分の話に取り合ってくれると思った。
 「お、お父さん、あのね、美佐が部屋に入ったらね、そしたら、滝井さんがおってん。私、めっちゃびっくりして。なんで滝井さんが、美佐の部屋に居てるんやろうって、思って。どうしたんかな。身体の調子、悪いんかな、」
 美佐は、まるで自身の感情がとりとめもなく口から溢れ出すのを感じた。とにかく、この感情を全て吐き出さずには居れなかった。まとまりの無い言葉が次から次へと飛び出してくる。その言葉を父親は聞いているのか居ないのか、何も言わずにただ、待っていた。それから、少しずつ美佐の言葉が途切れ途切れとなってきたところで、ゆっくりと美佐に諭すように話掛けた。
 「美佐、あのな。今日は下の接客はせんでええわ。下はお母ちゃんと何とかするから。その変わり、お前はしばらく滝井さんの相手してやってくれ。」
 美佐は自身の顔から血の気が引くのを感じた。
 「え、え。… …あ、で、でも、わた、私も、1階で注文取りするから… …」
 美佐はそう言いながら、必死で笑顔を作って父親に話しかけた。何故だか、笑顔を作って話さないといけないような気がした。
 「いや、お前は今日は接客はええ。お前の仕事は、今日は滝井さんの相手や」
 「え、いや、私も、下で接客するから… …」
 「いや、あかんて。」
 「な、なんで?!嫌や。私も、下で接客するって!今日、忙しいやろ?私も手伝うから…」
 その時、美佐の左頬が大きな手の平で叩かれた。部屋に鋭い音が響く。
 「分からん奴やな、お前!ええ加減にせえよ。お前の今日の仕事は、滝井さんの相手やゆうてるやろ!!」
 父親が目を見開いて大声で美佐を怒鳴りつけた。その父親の顔は、酒を飲んで大暴れするときの顔だった。
 「… …で、でも……。」
 「大丈夫やから。滝井さんは優しい人やから、な?ほんの1、2時間、おっちゃんと遊んでやってえな。お前みたいなええ子と、ちょっとお話したいんやって。」
 「…… …………お、お母さんは?」
 美佐はいよいよ涙目になってくる。母親と、なんとか話がしたいと思った。
 「お母さん?お母さんは、下で接客中やがな。忙しいねん。ほな、な。後、お前に任せるからな。」
 そう言うと、父親はもう一度美佐の頭を強く撫でて、ほな、頼んます、と滝井に会釈して部屋を出て行こうとドアを開けた。
 その時、美佐はドアの向こうに母親の姿を見た。美佐と目が合いながら、何も言わずに目を反らし、母親は父親と一緒に1階へ下りていった。その姿を見て、美佐は何かが壊れたような気がした。後ろから、滝井が美佐の名前を呼んだ。


 それから高校を卒業するまで、それは続いた。
 「一応、家の稼ぎは、ほぼ私が稼いでてん。だって、居酒屋で稼いだ分は全部、借金と博打で消えていくねんもん。なんか、もう忙しかったわ、あの時は。」
 中学生で客を取り始めて以来、美佐の仕事は、自宅のちょんの間だった。
 近所の男たちは、若い少女とやれるという噂を聞きつけて、美佐の家の居酒屋に押し寄せた。そのおかげで居酒屋はとても繁盛するようになった。美佐はもよほど体調が悪い時以外は、身体に支障の無い程度に客と取った。勿論それは、家計を手助けする為だった。両親は美佐に対して感謝を述べるものの、その行為自体を止めさせることはなかった。途方もない借金がある為、一番の稼ぎを無くす訳にはいかないからだった。
 「な、終わっとうやろ、私。」
 そう言うと、美佐は俺の胸の中で渇いた笑顔を作った。そんな事無いって、と俺が言っても、終わっとうよ、と繰り返した。
 セックスをした後、ベッドの中で小さくなりながら、美佐は自分の事を淡々と話した。丹念に、丁寧に。記憶を一つづつ包み隠さ無いように、俺に今まで隠していた全てを打ち明けるかのように話した。それを聞きながら俺は美佐の髪の毛に顔を埋めていた。
 だが、美佐がそういう生活を当たり前のように送っていた頃、一人の男が現れた。
 「私な、その生活がもう当然になっててん。そんな生活に、何の疑問も持たへんようになってた。」
 ある日、突然きたその男は、明らかに近所の男とは雰囲気が違っていた。どう見ても堅気では無かった。
 「ある日、夕方、店開けた途端に、その人が来てん。そんで、お父さんを突然、思いっきり殴りつけてん。」
 男はやくざだった。
 と言っても、まだ若い衆と言ったところで年は24くらいだった。
 美佐の父親は身長が180近くあったが、それよりも低い男が父親を投げ飛ばし、馬乗りになって父親の顔面を何度も殴りつけた。厨房のあちこちにはおびただしい鮮血が飛んだ。
 「おのれは非道かッ」
 男は大声で怒鳴りつけていた。男の片腕に母親が必死で抱きかぶさり、何とか止めようとしていたが、男の暴力は一向に止まることがなかった。美佐はその光景をただ黙って傍から見ていた。
 「… …だから、その人には恩があるねん。返されへんほどの恩が。」
 そう言いながら、美佐は俺の胸で俯いていた。美佐の表情が見えなかった。
 その男が、美佐にとって普通の男であるはずがなかった。そして、それが美佐の憂いの原因であることも。
 だけど、それ以上のことは俺も聞かなかったし、美佐もそれ以上、話そうとはしなかった。
 美佐は話し終えると、俺の胸に潜ってきた。俺は美佐の小さな身体を抱いた。
 しばらく。本当にしばらく、無言の時間が流れた。二人とも何も話せなかった。だけど、それから、糸が少しづつ紡がれるように美佐が話始めた。
 「… ……… ……。……… …あたし、適当な気分で、隆志とこんなことしたんと、違うから。」
 独り言のようにそう言うと、美佐はそれからしばらく俺の胸の中で泣いた。


 7時の携帯アラームを止めてから、俺はゆっくりと身体を起こした。
 ベッドの上には俺以外、誰もいなかった。
 テーブルには昨日の二次会の名残があった。其処には美佐の居た形跡があった。
 それから俺は服を着替えてアルルカンにモーニングを食べに行ったけど、カウンターにはマスターしか居なかった。マスターは、また美佐ちゃん無断欠勤や、と決まり悪く笑った。俺もその笑顔にバカみたいに同調した。
 俺は会社を休んで一日中アルルカンに居たけど、美佐はもう戻らなかった。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み