日曜日、朝

文字数 7,122文字

 いつもの朝。いつものアルルカンのモーニング。俺は目玉焼きを頬張りながら、窓の外の夜通し燃え上がった後の()えた街並みを眺めている。カラスがくわわと鳴いて、羽をばたつかせながら、ゴミ捨て場のゴミを漁っている景色。
「ねぇー。」
 フォークを持った左手で頬杖を突きながら、呻くようにマスターに声を掛ける。我ながら、なんともダラけている。
「うん?なんや。」
 老眼鏡を掛けた顔で新聞に眼を落としながら、マスターが適当に答える。
「…… そういやさ。これって、いつもの感じやんね。」
 そう。いつもの感じ。そういえば俺は一週間前まで、こんな感じでアルルカンで過ごしていたのだった。そして、この一週間はそんなスローな暮らしをすっかり忘れていた。美佐が来たからだ。俺の言っている事が分かったようで、不意にマスターが顔を上げる。
「… …そうやなぁ。そういえば、こんな感じやったんかなぁ。こんなにウチって、静かやったっけかなぁ。」
 マスターは懐かしいような、とても昔の事を思い出すような口調でゆっくりと話した。俺はそれを聞きながら、半開きのような気の抜けた眼を皿の上に向けている。アーケード方面とは違い、日曜の朝の密集街はいつも以上に静かだ。業者の車もほとんど通る事無く、基本的には人もほとんど通らない。皆土曜の喧騒に疲れて眠っているのだった。
 マスターも俺も、たった一週間前の静寂を持て余していた。それくらいこの一週間の出来事は俺たちにとって大事件だったし、美佐の存在は既にアルルカンの一部になっていた。
 土曜に仕事を休んでまる一日アルルカンに居て、今日も朝からモーニングを食べに来ている。いつものダラけている俺に小言の一つも言いそうなものだったが、マスターは何も言わず、心無しかその横顔も寂し気に見えた。
「… ……まぁ、こういう静けさも悪く無いよね。」
 そう言いながら、俺は残ったベーコンをすくってぱくりと口に突っ込んだ。マスターも俺の食べっぷりを横目で一目見てから、また新聞に目を落とした。話題も特に無かったので俺もまたぼーっとする文字通りモーニングルーチンに戻る。こうやって俺の一日が始まるのだ、なんて、脳内で独り言ちた時、アルルカンのドアベルが重たそうに鳴った。
「… …いらっしゃい。」
 マスターが顔を上げ、老眼鏡を少しずらして声を上げる。俺も遅れて玄関の方に顔を向けた。
 そこには髪を金髪に染めて、ピンクや紫、黒といった色が入り乱れたパーカーの若い女の子が立っていた。年は20代前半くらいだろう。背が高い。170センチくらいはあるのだろうか。今まで見た事がない子だった。
 マスターがいつもの笑顔を投げかけながら、カウンターの席を無言で(うなが)したが、女の子は以前としてその場を動かない。少し伏し目になりながらも、ちらちらと俺とマスターに視線を送っている。一体どうしたんだろうと、俺はマスターに目線を送る。マスターも俺の方をちらっと見てはてなの顔をしてから、もう一度、女の子に声を掛ける。
「どないしたん。いっぱい席あるから、とりあえず座ったら?」
 全部でカウンター5席しかない所を、いっぱい席あるから、なんて言うマスターの自虐ジョークはさて置いて、マスターはカウンターに手を添えながら言った。
 女の子は俺達に軽く会釈をしてから、背中に背負ったリュックを降ろしつつ俺の隣に座った。
「何する?」
「… …ジュース、ありますか?」
 どことなく緊張した面持ちで、女の子はマスターに答える。
「あるで。アップル、オレンジ、ジンジャエール… …」
「あ、それじゃ、オレンジジュースで。」
「はいよ。」
 アメリカンに口をつけながら、俺は女の子の様子を少し見た。マスターが作業している間、女の子は店内をぐるりと観察していたが、向こうから順番に回ってきた視線の最後に俺と目があった。
「… …あ。」
「… ……こんにちわ。」
 俺は会釈してから乾杯するようにコーヒーカップを少し持ち上げた。女の子は目を丸くしながらも照れたように言葉を返す。
「こんにちわ。」
「…ここ、来たん初めて?」
「あ、はい。」
「なんでまた、自分みたいな若い女の子が、こんな寂れた喫茶店に来たん?」
 俺は作業中のマスターを伺いながら小声で女の子に聞いたが、そういう内緒話をマスターは見逃さない。
「何処の喫茶店が寂れてるってぇ?」
 俺は女の子の方を見たまま、背筋がぴんと伸びる。
「あ!… ……いやいや、そんな寂れてるとか、そんな事まではゆってへんです…」
「ほな、なんてゆうたんや。」
「えっと… …。だから、なんつーか、こんなアンティークな店に若い子が来るなんて珍しいナァ、なんてね。そういう趣旨を尋ねていたのです。ウン。ねぇ?… …えっーっと…」
 ねぇ、と俺は女の子に同意を求めるように言った。思いつきにしては中々、良い言い訳だ。
「なーにが、アンティークじゃ。悪意が見え見えやないか。なぁ?」
 マスターが片眉を上げながら此方をじろりと見て、それから女の子にも声を掛けた。俺達のいつもの掛け合いに次第に、彼女の緊張がほぐれていくのが見て取れた。
「…あ、えっと、私、水島って言います。水島真紀。雰囲気あって、すっごい素敵やと思いますよ。こういうお店、今流行ってますし。純喫茶って言うんですよね。」
「そう!そやねん、その通り。真紀ちゃんよう分かってる!分かるか、隆志。寂れてるんやないで。雰囲気があるんや。味わい深いんやなぁ。」
「… …ハイハイ。物は言いようやねぇ。古いより新しい方がええに決まってるけどなぁ」
 俺は呆れたように言ってから一気にアメリカンを飲み干した。
「…… ………。」
 空っぽになったコーヒーカップの底から目を上げると、隣からの視線に気が付いた。不図そっちに目をやると、果たして視線は真紀ちゃんだった。彼女は何を言うでもなく凝っと俺の顔を見ていた。
「… …? ……どないしたん。」
「… …隆志さんなんですね。」
「…そうやけど… …」
 そう言ったまま、真紀ちゃんは以前として俺を見ている。俺も名前を呼ばれた手前、彼女の次の言葉を待ち凝っとしていた。固まるカウンターの二人に怪訝な顔をしながら、マスターはオレンジジュースとアメリカンのお代わりをそっと置いた。俺は真紀ちゃんの目線に対抗しながら、つまり目線を外すことなく、アメリカンに手を伸ばして自分の口にゆっくりと運ぶ。真紀ちゃんの方は、以前として俺の顔と身体の観察を続けていたが、一往復するとついに口を開いた。
「美佐から隆志さんの事、良く聞いてます。」
 心臓が太鼓を叩くように、どっくんと鳴った気がした。心底驚いた。お代わりに口をつけていた俺は吹き出しそうになるのをなんとか堪えた。
「み、美佐?!」
 狭い店内に響き渡るような大声を出してしまった。驚いたのはマスターも同じだったようで、座って新聞を読み直そうとしたのも

真紀ちゃんに顔を向けた。
「美佐の事なんか知ってんの!?」
 俺は勢い余って、気が付くと真紀ちゃんの目の前まで詰め寄っていた。その勢いに、真紀ちゃんが半笑いで身体を()け反る。
「隆志!ちょっと落ち着け!」
 マスターの言葉ではっと我に返る。それからゆっくりと身体を自分の席に戻して、なんとか心を落ち着かせた。
「……あ。… …ごめん。どうぞ… …」
「あ、アハ。… …うん。元々美佐、あたしの所、居てたんです。」
「… …あぁ。あいつ、居候してたってゆうてたっけ。」
「そう。1週間前に、あの子、私ん家を出て行きました。だけど、それからもずっと連絡はとってて。だから、この1週間の出来事も色々聞いてました。隆志さんの事とか、マスターの事。ここに住み込みでアルバイトしてた事とか、色々。」
 マスターもカウンター越しに話に加わろうと、安物のスツールを近くまで持ってきて座った。
「… …仲ええんやね。」
「親友です。」
 慣れたら、真紀ちゃんは俺達に向かってハキハキと話した。だけど、その親友が今日アルルカンまでわざわざ来たのは何故だろう。
「だから今日、初めてアルルカンに来させてもらって、全部が物珍しいというか。あの子の言う通りだなって、まじまじ見てしまいました。」
「そうなんや。… ……でも、なんで今日は、ここに来たの?」
 俺は単刀直入に聞いた。きっと何かの理由があるのは間違いないし、美佐の事なら何でも知りたかった。美佐の事を知りたいって思うと、自分でも良く分からない力が湧いた。昨日から気の抜けた風船のようになっていた自分が、まるで嘘のようだ。
「昨日から、あの子と一切連絡がつかなくなって。それで、ここに来たら何か分かるかなって。」
 真紀ちゃんはテーブルに目を落としながら、思い出すように話した。
「… …だけどさ。一日連絡つかない事くらい、良くある事なんじゃない?」
「ないです!…私たち、お互いが連絡取り合わない日なんてないんです。 ……それに、時期が時期だけに、すごく心配になって。」
「心配?」
 俺もマスターも、今や真紀ちゃんの言葉を今か今かと待っていた。
「あの子、ヤクザのところ行ってもうたんかな、なんて思って。」
「… …!」
 ヤクザ。覚えている。学生の時、美佐の境遇を救った若いヤクザ。金曜の夜、美佐はヤクザとの出会いについて教えてくれたが、それからそのヤクザとの関係については、何にも教えてくれなかった。美佐はヤクザに返せないほどの恩があると言っていたし、何より、美佐がその男の話をする時、どこか懐かしさと愛おしさを感じているような雰囲気があった。きっと二人は恋愛関係にあるのだろと薄々感じていた。
「… …ヤクザってなんや?」
 事情を知らないマスターが、しかしその深刻さは感じながらぽつりと質問をする。俺は細かい事情は伏せて、過去から美佐の家とヤクザの関係があった事だけを掻い摘んで説明した。マスターは俺の話をうんうんと目を瞑りながら黙って聞いた。マスターの中ではある程度、想定していた内容だったようだ。
「……残念ながら、昨日からこっちにも姿を見せてないねん。」
「そうですか… …。」
「なぁ、俺とマスター、美佐の事、なんも知らへんねん。ここ最近の事とか。もし真紀ちゃんが知ってる事あるんやったら、教えてほしいねん。頼むわ、お願い!」
 俺はもう、恥も外聞も無く必死だった。多分傍から見れば情けないほどだったと思う。だけど、そんな事どうでも良かった。真紀ちゃんに両手を合わせてお願いした。
「… …………。そうですね。私も、この一週間の事でメチャクチャ美佐と話してました。私の相談もあったし、勿論、美佐の相談も。人生で一番話したかもしれません。… …美佐からは隆志さんの事とか、それから、ヤクザの事。これからの事を相談されました。… …それじゃ、私の家を出てからの美佐の事、私の知ってる範囲でお話しますね。」
「… ……」
 マスターが無言で指で俺に指示を出した。店をクローズにしろって事だった。俺はすぐに席を立って、店の外に出て看板を中に居れる。それから、窓のカーテンを閉めて席に戻った。
「美佐は月曜日に私の家を出ました。次の居候先が見つかったからという事でした。あの子はもう実家とは絶縁していて、帰る所が無かった。だから、友達の所を点々としていたんですが、やっぱり私の所が良いとしばらくは私ん家に居たんです。私ん家居たんは、一年くらいかもしれません。ヤクザとの関係、私は知ってました。私は美佐と幼馴染やから、地元の時からお互いの事を何もかも知ってたし、気持ちも分かってた。美佐はヤクザと出会って、なので高校を出てすぐかな、ヤクザと付き合っていました。私も何度か会った事がありますが、若かったけど本当に迫力があって、正直怖かったです。美佐は良い人って言ってたけど、私はあまり良い印象は無かった。でも、美佐は本当に良い子やし、美佐がヤクザの事を良い人というのなら、そうなんだろうなって信じる事にしたんです。ヤクザの名前は、宮田浩平って言います。それから1年くらい二人は付き合ってたけど、別れる事になるんです。美佐が19の時。原因は、宮田が九州に仕事で行ってしまうとの事でした。私はヤクザの世界の事は知りませんが、もう戻って来れないという事だったそうです。」
 真紀ちゃんは美佐の過去を淡々と話してくれた。それは俺の聞きたい話だったけど、辛い話だった。美佐には心に決めた男が居たという事を、思い知らされた。
「宮田が九州に行く時、美佐は一緒に行くかどうかを誘われたようです。だけど、美佐は行かなかった。とても悩んでたけど、美佐は別れを選んだ。」
「… ……それは、なんでなん?…好きやったんやろ?」
 マスターが純粋に疑問を口にする。俺もそうだと思う。好きであれば、追いかければ良いだけの話だ。
「はい。でも、美佐はやっぱり悩んでいたんです。それはもう、付き合う前からずっと悩んでたんですけど。理由は相手がヤクザやったという事。それが、彼女の中でずっと引っかかってた。やっぱり、住む世界が違う人との付き合いやったから。宮田とこの先生きていくという事は、自分もそちら側の世界で生きていくという事。美佐にはまだ、その決断ができなかったんです。」
「… ………」
「宮田が九州に行ったのを契機に二人は別れました。それからしばらくは美佐と私の間で宮田の事は記憶から消えていたんです。だけど最近、宮田から美佐に連絡がありました。それが今月に入ってからの事です。宮田がまた大阪に戻ってこれるとの事でした。それに今度は堅気では無いものの、ヤクザではあるけど組傘下の経営者として仕事が出来る身になったらしいんです。そして美佐にアプローチを掛けてきた。また自分と一緒になってほしいと。」
「……… ……」
「私は、正直、反対でした。」
 真紀ちゃんはそう言いながら、オレンジジュースを一口飲んだ。学生時代は何かスポーツでもやっていたのだろうか、その一口は真紀ちゃんの肺活量に比例してグラスの中のオレンジジュースを一気に半分以下に減らした。
「……それは、真紀ちゃんは、なんでそう思ったん?」
「だって、美佐が、なんだか無理してるように見えたから。あんなに天真爛漫な美佐が、宮田と居る時は、とても遠慮してるように見えたんです。私はそのことをいつも美佐に言っていました。でも、美佐はその度に『あの人には恩があるから』って言って、取り合わないんです。」
 美佐が考えそうな事だと思った。一見、何も考えてないように見えて、とても考えていて。適当そうに見えて、実は生真面目で。
「… ……それで、先週の日曜の夜、かな。私たち、朝まで口喧嘩しちゃったんです。……多分、今考えると美佐も悩んでいっぱいいっぱいだったと思う。なのに、私の気持ちばっかりあの子に押し付けて。まぁ、その言い合いはそれで終わって、後には引いてないんですけどね。だけど、その出来事があったから、ウチを出て行く踏ん切りをつけさせちゃったのかもしれません。月曜に私ん家を出て行く事を、すぐに決めていました。」
「出て行って、行く先は… …」
「勿論、宮田のところですね。」
 雨が降った月曜日。濡れながら現れた美佐は、宮田のところに行く途中だった。
「宮田も経営に携わっているバーが、この辺りにあったらしいんです。月曜日はそこで宮田と落ち合う予定やったみたいです。だけど、そうも行かなくなった。」
「…… …」
「近所のバーの摘発があって、それの煽りを受けて宮田のバーも何かと仕事が増えたんだと言ってました。だから、会えなくなったと。」
「ブルーローズの摘発か。」
 マスターがぼそりと呟いた。半グレ御用達のバー。今まで警察も相手にしていなかったが、このほどガサ入れがあり、従業員や客等、割とごっそりと逮捕者が出た。最近の密集街では大きな事件だった。
「宮田と待ち合わせしてたのに、突然ドタキャンされたような形だったみたいです。そこで、ここのアルルカンを見つけた。それで… …」
 真紀ちゃんは、そこでひと呼吸を置いて俺をもう一度、凝っと見た。俺はまた突然の真紀ちゃんの観察に驚いてしまい、ついていた頬杖から頬を浮き上がらせて、マスターと真紀ちゃんの顔を交互に流し見た。
「隆志さんと会ったんです。」
 真紀ちゃんの言葉を聞いて、マスターが腕組みをしながら俺を見た。眉間に皺を寄せながら、なんとも言えない真面目腐った顔をしている。
「… …アルルカンでの事、美佐、いつも電話口で話てましたよ。あの子、店の事になると話が止まらないんです。いっつも夜中の4時くらいまで二人でずっと話てました。…マスターにはすっごく感謝してましたよ、美佐。私みたいな訳の分からない人間を雇ってくれて、住む所までくれて。電話口で泣くんです。嬉しい、嬉しいって。」
 そこまで言った真紀ちゃんの言葉の語尾が歪んで聞こえた。涙を堪えているようだった。
「隆志さん。あなたがアルルカンにおったから、美佐はもっと悩むことになったんです。」
 胸が、自分でも良く分からず苦しかった。
「私には、その時の美佐の本当の気持ちは分かりません。だけど、美佐の隣で美佐をずっと見ていて、感じた事は、美佐の宮田に対する気持ちは愛情というよりも、恩返しみたいな物なんだと思います。そして、美佐はその返しきれない恩を必死で返そうと思っている。だけど、そこで隆志さんに出会ってしまった。」
「…… ……」
「だけど、宮田が居なければ、美佐が実家を出る事が出来なかったのも事実なんです。宮田が助けなかったら、美佐は今でもあの家に搾取され続けてた。」
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