日曜日、昼

文字数 6,263文字

 真紀ちゃんが話してくれた話の中には、俺の知らない美佐が生きていた。いや、正しくは、美佐から伝え聞いたりした断片的なそれぞれが、明らかな血肉を伴った事実として俺の目の前に提示された。
 美佐の事を何も知らなかった自身の無知と、美佐の抱えていた歴史とが大きく俺の上にのしかかってきた。美佐は俺には想像もつかないほどの過去を抱えて生きていたのだ。
 そんな美佐の逃れる事のできなかった運命を、宮田は変えた。それが両親からも見放された、いわば家族の生贄として生きる事を強いられた美佐にとって、どれほどの救いだっただろう。
「… …警察には通報したんやろか?そんな酷い親、生きる価値あらへんやろ。」
 マスターが眉間に皺を寄せながら真紀ちゃんに聞いた。
「…私もそれは何度も言いました。だけど、それも美佐は聞き入れへんかった。あの子にとって、家族はやっぱり家族なんです。こんなに家族に裏切られても、美佐は家族を信じてた。お父さんやお母さんには罪は無い。お金が無いから今家族はこんな事になっている。当時、美佐は自分がお金さえ稼げば良いと思ってたんです。だから売春にも慣れていった。いや、慣れたというよりはきっと心が麻痺してたんかもしれません。最後の方は私にも、まるで事も無げに、ちょっと仕事あるから帰るわ。なんて言って、自宅に帰ってました。」
「… ……」
「… ……そんな美佐を、私と宮田で滾々(こんこん)と説得した。それで(ようっや)く、美佐は家族と縁を切って家を出る事が出来たんです。でも美佐は今でも、どこかで家族というものに未練があるみたいです。」
「… ……」
「… …おかわり、貰って良いですか?」
 真紀ちゃんの話を聞いていた俺とマスターの顔が、大層険しかったのだろう。真紀ちゃんは緩い笑顔を作りながら俺達の顔を見て言った。沈んでしまいそうな、飲み込まれてしまいそうなこの店内の雰囲気を変えたかったのだ。俺はそんな真紀ちゃんの心遣いに胸が痛んだ。
「はいよ。」
 マスターが腰を上げてから奥の冷蔵庫を開けて作業を始める。氷を取り出してグラスに入れると、静まり返った店内に氷とグラスがぶつかる音が思いのほか大きく響いた。マスターがオレンジジュースを用意する間、皆何とはなしに無言になった。だけど、その時間が永遠に流れるかと思った時、真紀ちゃんがまた言葉を紡ぎ始めた。
「美佐は戻ってきた宮田から連絡があって、どこか決意したような感じでした。どこか諦めというか、覚悟というか。これから、恩返しをする為に生きて行こうというような、私は美佐と口喧嘩しながら、あぁ、この子はもう将来を決めちゃったんやなって思った。なのに、… ……宮田と再会するその日、なんとなしに、雨宿りで入ったお店で、隆志さんと出会ってしまった。」
 それっきり、真紀ちゃんは口を結んで黙ってしまった。マスターがオレンジジュースを持ってきて真紀ちゃんの目の前に静かに置いた。優しく、慈しむような手つきで。
「はい、オレンジジュース。」
「……有難うございます。」
「…… …なんか、この一週間は、ほんまに騒がしかったなぁ。美佐ちゃんがウチに来てくれて、久しぶりにアルルカンに活気があったわ。常連にもえらい人気があってんで。可愛いし気もよう利くゆうてな。… ……そやから、おらんようなったら、なんか変な感じやわ。なぁ、隆志。」
「…… …そうやな。こんなに静かな店やったっけ、ここ?」
 俺はからかうようにマスターに言った。マスターも俺の言葉を受けて、悪戯っぽい顔をして口の端で笑った。真紀ちゃんはおかわりのオレンジジュースにストローを入れて、勢い良く吸い込んだ。
「… ……おいしいですね、オレンジジュース。」
「果汁100%やで。」
 真紀ちゃんはオレンジジュースを眺めながら、ストローで氷を突いた。その度に氷がオレンジ色の液体の中に沈んだり浮いたりする。
「美佐、ここで働いてたこと全部私に報告するんですよ。本当に全部。私、アルルカンの従業員でもないのに、大体のお客さんの事知ってます。」
「おいおい、それは情報漏洩やな。」
 マスターが大げさに驚いてみせる。そのお道化た表情に真紀ちゃんの頬が緩んだ。
「うふふ……。それくらい、あの子はここでの事、楽しかったみたいです。… ……それに、隆志さんと出会ったことも。」
「…… ………」
「コーヒーカップを買いに行ったんですよね。」
「…… …うん。」
 水曜日。マスターのお使い。今思えばデートみたいな一日だった。美佐と出会って三日目の出来事。
「美佐、楽しかったって。とっても。人生で一番くらい。」
 真紀ちゃんが俺の顔を見ながら話す。心なしか、少し声が大きくなっている。
「… …人生で一番って、えらい大げさやな。」
「隆志さんは、どうやったんですか?」
 真紀ちゃんに言われて、俺は目が覚めるような気がした。
「……ど、どうって… …」
 心の中を見透かされたような真紀ちゃんの質問に俺は激しく動揺した。俺はどう答えて分からなくなり、マスターと真紀ちゃんを交互に眺めてから口をつぐむ。それから、カウンターテーブルに目を落とした。
「…… ……そりゃ、楽しかったよ。」
 一つしかなかったはずの答えを、なんとか頭の奥から探し出して呟くように答える。
 マスターは俺の顔を盗み見るような顔をして黙っていた。それから、灰皿に転がったシケモクを探して取り、手際よくマッチを擦って火をつけた。
「…… ……私、正直に言います。」
 真紀ちゃんが、俺の横顔に正対するように身体をこちらに向けて言った。神妙な顔をしている。
「……? ……」
「私、宮田は良い人やと思います。でも、極道の人間やとかそういう事は置いといて、美佐はやっぱりあの人とは合わへんと思う。宮田は俺について来いって感じの人間です。昔の価値観というか、女に対して、男より一歩引いたような立ち位置を求めてる。それは、美佐と宮田が付き合い始めた時から私は感じてた。」
「…… ……」
「宮田といる時の美佐は、いつも遠慮しながら宮田に笑い掛けるんです。だけど、それって全然、美佐っぽくない。美佐は明るくて活発で、いつも周りに笑顔を振りまいてる。」
「……。」
「あの子はあの子のまま、これから生きなあかんと思う。もう周りに気を使って生きんでもええように。…… …あの子が、隆志さんの事を話してる時の声。あの子があんなに楽しそうな声出してるの、私、今まで聞いたこと無い。」
 真紀ちゃんは訴えかけるように俺に言った。
「… ………。… ……でも… …… ……今更、そんなん言われても、俺にはどうする事もできひん。」
 俺はその言葉に苛立つように答えてしまう。何故なら、土曜日に俺の前から消えてしまった事自体が、美佐の出した答えだと思うからだ。そもそも俺は最初から部外者だった。長い時間を掛けて培われた美佐と宮田の歴史に、ほんの一週間前に現れたばかりの眠たい奴が割り込む余地なんか無い。本当を言えば俺は美佐を追いかけたかった。だけど、そう思えば思うほど、アルルカンで管を巻くだけの、どうにもならない現実を思い知らされた。俺は真紀ちゃんに八つ当たりしている。真紀ちゃんは言い過ぎたというような気まずい表情をして、下を向いて、ごめんなさいと言った。


 真紀ちゃんがアルルカンに来てもう四時間ほど経っていた。時計の針は昼の二時だ。美佐の話を聞いていたら、何時の間にか溶けるように時間が過ぎていた。
アルルカンの怠惰な雰囲気に包まれて、いつの間にか真紀ちゃんはすっかり(くつろ)いでいる。俺とマスターはそんな初対面の女の子の存在をすっかり受け入れ、ぼんやりと時間の経過に身を寄せていた。店内には薄っすらとグランドファンクのウィーアー・アン・アメリカンバンドが流れている。マスターのお気に入りなので洋楽に疎い俺も覚えてしまった。真紀ちゃんはそんな音楽には全く興味がないようで、気儘に携帯をいじりながら、俺達と雑談をしながら時を過ごしていた。
「そういえば金曜日、美佐ちゃん出勤遅刻してたんやけど、前の日に遊んでたのって真紀ちゃんなん?」
 パソコンを弄りながら、マスターが思い出したように声を上げた。ぼぉっと外の景色を眺めていた俺と携帯を見ていた真紀ちゃんがマスターの方に顔を向けた。
「はい。ちょっと美佐に相談があって。美佐の方も宮田の事で相談があるっていうから、梅田で会ってました。」
「ほな、河川敷で全裸になろうとしたとかってのも?」
「……ちょ!ちょっと!美佐、そんな事ゆうたんですか?!」
 真紀ちゃんが新喜劇のような大げさなリアクションで、椅子から落ちそうになっていた。マスターの老眼鏡の下の眼が、真紀ちゃんを冷やかすような悪戯っ子の眼になっている。
「もう!ほんまに美佐、アルルカンの人に心許しすぎ!」
「かっかっか。おもろいなぁ、あんたも。体育会系やな。」
「木曜は、美佐もあたしも飲み過ぎて、変なノリになってたんです。いや、実際は脱いでませんヨ?… …美佐に全力で止められたんで、なんとかTシャツ脱いだところで踏み留まりました。」
 真紀ちゃんが必死に言い訳をする。その姿が、愛嬌があって面白かった。真紀ちゃんはどちらかというとボケ担当って感じの人なのかもしれない。
「そっか。そういや、木曜日に美佐と居るとき電話かかってたけど、あれって真紀ちゃんやったんやな。」
 俺は軽い感じで木曜日の夕方、改札で美佐とあった時の事を不図思い出して言った。だけどその問いをした事をすぐに後悔する。
「ううん。私、電話はしてないよ。仕事で忙しかったから、ラインでやりとりして待ち合わせしたの。」
「… ……え、そうなん?」
 そのやりとりの掛け違いで、分かりたくもないのに俺と真紀ちゃんは察してしまう。
「あー。… ……えっと、それ宮田かもしれません。…… …あの子の相談は宮田の事やったから。宮田から連絡があって夜から会う事になってるから、それまで一緒におってほしいってゆわれたんです。」
「…… ……」
「ご飯食べた後、河川敷に行って、結局、あの子と別れたのは夜中の三時くらいです。… …宮田と今後の話をしなあかんって。近所のファミレスで約束してるってゆうてました。… ………ごめん、こんな話、聞きたくないですよね。」
「…… …いや、かまへんよ。…… …ごめんな、気ぃ使わせて」
「ううん。」
 美佐の話をするだけで心がざわつく。どうしたら良いか分からない。まるで流行り病に掛かってしまったかのように、この症状はもしかしたら暫く俺の身体を(むしば)み続けるのかもしれない。今はもう、美佐の事は頭の中から消してしまいたいなぁ、なんて考えていると、不図真紀ちゃんの手元の携帯が鳴った。電話の着信音のようだった。その表示を見て、真紀ちゃんは血相を変えて電話にでた。
「美佐?!」
 自分でも驚くほど、心臓が胸を強く打った。マスターもPCから顔を上げて、真紀ちゃんの方を注視した。
「心配したやん。… …今、どこおるん。…… ……うん。… ……うん、…… …」
 真紀ちゃんが宙を見ながら少し美佐と話した後、その視線を俺の方に向けた。俺と目が合って暫く会話を続けている。俺は知らず知らずの内に身体が前のめりになっていた。
「……そっか。…… …アルルカンも無断で休んでるんやろ?… ………今な、アルルカンに来てるねん。……… …うん。…… …マスターも、……隆志さんもおるで。」
 真紀ちゃんが電話を俺に代わろうとしてくれているが、そこから美佐との少しのやりとりがあった。どうやら美佐は俺と話す事を躊躇(ちゅうちょ)しているようだった。俺は今の今まで美佐の事を忘れてしまいたいと思っていた気持ちが吹き飛んでいた。とにかく、美佐と話がしたかった。
「… ……真紀ちゃん」
 俺は真紀ちゃんに声を掛けた。その様子を真紀ちゃんも察してくれたようだった。真紀ちゃんが美佐に向かって、隆志さんに代わるから、と半ば強引に美佐を説得した。それから、携帯を俺の方に渡してくれる。
「…… ………有難う、真紀ちゃん。」
「…うん。…… …美佐、今、北新地やって。」
 美佐が今、梅田に居る。そんな事を考えながら、一つ深呼吸をしてから声を出す。
「…… ……美佐?」
 戸惑ったような間の後、美佐が声を出した。
「……… …………うん。」
「…北新地… …おるん?」
「…うん。」
 電話口から雑踏の風の音と、通り過ぎる車の音が引っ切り無しに聞こえる。
「……そっか。…… …………」
「…… ………ごめん。勝手におらんようなって。」
「……… ……… ……真紀ちゃんから、色々聞いた。…… …… ……それから、宮田って奴の事も。」
「………… ………。…… ……そっか。……んじゃ、もう全部バレちゃってるんやね。」
 おちゃらけるように美佐は言った。無理やりにでも明るく振る舞おうとするその声が、俺の耳の中で寂しく響いた。
「……… …………」
「………… …………」
「… ……なんかさ、… ………」
「…… ………… ………ん?」
「…… ……なんか、隆志の起きた顔見てもたら、… ……離れられんくなりそうやったから。だから、黙って出て行ってもうた」
 小さく言葉を紡ぎながら、震える心を抑えつけるかのように美佐は話した。
「… …………」
「…………あたし、………さ、……… ……東京行く事になってん。」
「… …え?!…東京?」
 俺の声を聞いて、マスターと真紀ちゃんも心配そうな顔をしている。
「ほんとは大阪で仕事をする予定やってんけど、急遽予定が変わって。…… …もう、今日の夕方にはここを離れてしまうねん。真紀にもそれを言わなあかんと思って。」
「…… ……めっちゃ急やな。」
「……うん。…………」
 美佐の口から、東京には行かない、なんて都合の良い言葉は出てこなかった。それが現実だった。美佐が悩み抜いて出した結論。その結論を覆す権利なんて、俺にはないと思った。
「……あのさ、……」
「……?」
「……今から、会って話したい」
「…え、…… ………それは、…あかんわ。」
 美佐が動揺した声を上げる。語尾に向けて声が小さくなっていく。
「……会って、ちゃんと話して。…… …それで、美佐の気持ちを教えてほしい。」
 俺は美佐と会って引き留めようとかじゃなく、会って美佐の言葉に打ちのめされて、ちゃんと思い知りたかった。美佐の思いやこれまでの事、考えている事。それをきちんと知って、きちんと振られる。そうしないといけないと思った。そう思う気持ちはきっとエゴだ。それが不本意に美佐を苦しめる事になるとしても、止める事ができなかった。
「… ……………」
「… ……頼む。」
「…… ……… ……………。………… …堂島の、…… …ジュンク堂のビル。… ………前の広場のベンチに座ってる。」
「分かった。すぐ行くから、ちょい待ってて。」
 俺は電話を切ると、跳ねるように席から立ち上がった。
「… …ごめん、真紀ちゃん。俺… ……」
 心配そうに俺を見つめる真紀ちゃんに言う。そりゃそうだ。真紀ちゃんだって、美佐の事が心配で仕方ないはずだ。だけど、真紀ちゃんは落ち着いて言った。
「… ……ええねん。……多分、私より隆志さんが行った方が良いと思うから。」
 真紀ちゃんは俺に気を使わせないように、無理に笑顔を作っていた。
「… …… ………ごめん。」
 それからマスターと真紀ちゃんに、ちょっと行ってくる、と声を掛けて、俺はアルルカンの玄関を開けて全力で地下鉄へと走っていった。


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