火曜日
文字数 6,978文字
俺は印刷屋に勤めている。
俗に製版と言われている仕事で、デザイン会社から入稿されたデータを正調する、つまり色調補正・切り抜き・試し刷り等を行いながら、最終的な印刷物になるように加工を行い、それが完了すると、何百部、何千部、何万部を刷っていくところまでが、主な業務となっている。
こういう話を業務を知らない人に説明すると、デザインに携わる仕事ってことでシュッとした格好いい仕事と思われることが多いが、正直言うと、そういう訳ではない。
て訳で、まず初めにシュッとしている業務についての説明から始めてみましょう。
シュッとしている業務に携わる人々というのは、所謂デザイン雑誌に載ってるような奇抜な恰好、赤青ピンクのハイカラな頭をしながら、ミニマリストが経営しているような断捨離の進んだ殺風景なカフェで、これまた現代美術のようなバランスの極めて悪いグラスで、レッドアイ(?)などを飲みながら、良い感じの次の仕事の話を、同じような奇抜な風貌の仲間と馬鹿大声を上げつつ行い、良い感じの身内コネクションネットワークを構築しながら、良い感じの極めてフォントの小さなクラブ・フライヤーなどをちょちょいのちょいと作りつつ、完成したら日夜DJのいるクラブなどで踊り狂うといった、そういった人々のことを言うのである。つまり、そういった人々がデザイン会社の人間なのである。
んで、そういった人々から入稿された良い感じのデータを、最終的な製品として制作するっていうのが俺がやってる仕事なので、言わばそういった、ちょちょいのちょいと作られた入稿物の、最終的な下支えが俺の主業務なのである。
いつの時代も下支えの仕事っていうのは、どんなに取り繕っても実際はケツ吹き仕事であるのは言いようのない事実なのであって、俺は日夜、昼夜問わず一日中稼働している馬鹿デカい印刷機と格闘しながら、何百部、何千部、何万部の入稿データを刷り続けているのだ。
本日もそのような、いつもの加工業務と締め切りとを相手に対決格闘しながら、いつ間にやら、もう19時。アルルカンの営業時間は20時までだが、昨日の女のこともあったから、あれからどうなったのか、ちょっと店に顔を出してみようかと思った。そういう訳で、俺は急いで帰宅準備をして会社を後にしたのである。
俺は長年アルルカンに通っているので、最早、重度の酩酊状態であったとしても、その持ち前の千鳥足でもって、アルルカンに空でたどり着く自信がある。っていうか、今までもそのようなことがあった(そういう時は決まって、マスターは閉店時間を延ばしてくれた)。
なのでつまり、俺がアルルカンへの道のりを間違える可能性は皆無と言っても良い。
そんな俺が本日初めて直面した、この今まさに目の前で起こっている事態について、どう対処して良いのか分からず途方に暮れていた。
そして、途方に暮れている俺は今、とりあえず暫定的な事態収拾を図るため、一度開けたアルルカンの扉を丁重にゆっくりと閉め、もう一度、アルルカンへのアクセスが正しいのかどうか、という重要な命題、まずはそこから始めることにした。つまり、左右の道をしっかりと目視確認し、念のため指さし呼称を行い、左の道、右の道、
「いつもの道!、ヨシッ!!」
いつもの道、ヨシ!と、道端で唐突に大声を上げたものだから、アルルカンの隣にあるオカマバーのオカマが、買い出しで俺の後ろを丁度、通り過ぎたところで
「ヒ!、ヒイ!!」
と野太い声でビックリしていたが、その青髭面にイラっとしたところで、俺はなんとか正気を取り戻すことができた。
つまり、ここはやっぱり間違いなく喫茶アルルカンであり、俺の店までの方向感覚・帰趨本能は正しかったのだ。まず正しい現状認識から順序立てて確認を始めるのが、何事においても得策なのは変わりないのであり、とりあえずの第一段階は完了したのだった。
それで、第一段階は完了したところですので、それでは次に第二段階に移行しようと思います。と思って、俺はアルルカンの扉を、もう一度恐る恐る、丁寧にゆっくりと、開いてみた。
ガラン、と錆び付き気味のベルを鈍く鳴らしながら、今一歩俺は店内に足を踏み入れ、カウンターを覗いてみると、やはりなぜなのか、そこには見知らぬ女が平然と立っているのであり、再度の目視確認の後、俺はもう一度、菩薩のようなアルカイックスマイルでもって、そっとアルルカンの扉を閉めることにした。ところで、
「こんにちわ!」
と中から声が聞こえてきた。
「へ?」
と俺は咄嗟に返事をしてしまった。そのまま扉を閉めてしまう訳にもいかないので、ゆっくりと顔を上げてカウンターを見た。
「昨日はどうも!」
と大きな溌剌とした声。聞き覚えがあるのは、それがとてもリアルタイムな声だったからだ。
もう一度目の前のカウンターに目をやって、落ち着いてそこにいるマスターを見てみた。
良く見ると見覚えのある顔だ。そりゃそうだ、つい昨日見たばかりの顔。昨日の大学生みたいな女だった。女がカウンターの中にちんと納まって立っていた。
「そんなところにいないで、入ってくださいよ!」
女は人懐っこい声を上げながら、俺に話しかけた。俺は何が何か分からないまま、促されるように、いつもの奥の2席まで入っていった。他の客はいなかった。
「なんでそんなとこにいるの?」
聞きたいことは色々あった。昨日あれからどうしたのか、マスターはどこにいったのか、なんでカウンターにいるのか、一体何者なのか。色々あったものの、仲介役のマスターがいないことには、転がる話も転がらない。女もなんだか、表情を見る分には随分と落ち着いて見えるので、とりあえず、なんでそんなとこにいるの?なんて、一番分かりやすい疑問を投げかけてみた。
「えへへ、驚かせちゃってスミマセン。ちょっと今マスター、業スーに買い出しに行ってるんですよ。その間、店番頼まれてるんです」
「へー、そうなんや」
へー、そうなんや。っていっても、昨日から今日連チャンで女がここにいる説明にはなってない。なんだか不思議な話だなと思いつつも、まぁそこはとりあえず置いておくことにした。
「ほな、マスター帰ってくるまで、ちょい待っとこか」
「そうですか?なんか、ゆうてくれたら、作りますけど。どうします?」
女はロングの髪の毛を左手で触りながら、極めて普通に言った。本当に、いつもの事、といった口ぶりだった。
「え、そうなん。なんか作ってくれるの?」
「はい。簡単なもんやったらできますよ。てか、じゃあアメリカン。とりあえず汲みましょか?」
「え、なんでアメリカン飲んでるん、分かったん」
「昨日、飲んではったん見たから」
意外な返事が返ってきて驚いたけれど、作ってもらえるのなら作ってもらおうかな。ちょっと小腹も空いてたり。
「じゃあ、お願いしよかな。後、ナポリタンとか出来る?」
「出来ますよ。ほな、作りますわ。」
「マジか。めちゃ嬉しい。お腹空いててん」
「ふふふ。」
そういうと、さっそく女はテキパキとカウンターの中で動き始めた。
女の子にしては少し身長が高いのか、160cmくらいはあるスラッとした姿でカウンターで働く姿は、とても似合って見えた。こういう喫茶店の経験があるのかと思うくらいには様になっていた。
「はい、アメリカン」
女は俺の目の前に、ゆっくりと丁寧に運んでくれた。
「お、サンキュー。……。……。…うん」
「うん、」
「おお、美味しい。ちゃんとアメリカン。」
「ほんま?良かった。」
有難い。マスターには悪いが、普通に美味しいアメリカンが出てきた。めちゃ美味しい。仕事後の一杯は、俺にとっては本当に幸福な時間だ。
「もうちょっと、待っててくださいね。ナポリタンすぐ作りますから。」
女はロングの髪を後ろで一つに括りながら言った。
「いや、かまへんで。ゆっくり待ってるから」
俺は周りにある未読の週刊誌を探して、ゆっくりと休息を楽しんだ。
それから少しして、ナポリタンが運ばれてきた。
ナポリタンも十分、店で出しても文句は言われないだろうという程度には、普通に美味くてびっくりした。でも、いちいち感動していては、なんだか嬉しがりと思われるのも気恥ずかしいと思ったので、そのことについてはあまり触れないようにした。
と、俺がナポリタンを食べてる最中にマスターが帰ってきた。
「お、来てたんか」
マスターは両手に大きな買い物袋を下げながら、笑顔で言った。
「遅いわ」
「閉店間近に来た分際で、何をゆうてる」
「ははは」
「美佐ちゃん、大丈夫やったか」
マスターはカウンターを見ながら、女に言った。女の名前は美佐ちゃんと言うのか。美佐ちゃん。ミサミサ。
「はい。お客さん、そちらのお兄さんだけですわ」
「あ、お前、なんかエエもん食べてるやないか」
マスターが俺の食べてたナポリタンを見つけて、うらやましそうに言った。
「めっちゃ美味しい」
フォークで口に運びながら、ついでという感じで、自慢してやった。
「よろしいですね!」
マスターは少し不貞腐れて笑いながら、奥に荷物を置きに入っていった。
「ふふふ。仲、良いですね。」
「もう結構、ここ来るようなって長いからね。」
「お兄さん…、えっと、」
「隆志やで」
「隆志さん。あ、私、美佐って言います。呼び捨てでかまわないです。」
「ほな、美佐って呼ばしてもらうわ。」
「すみません、なんか。昨日からここに上がりこんじゃって」
「昨日は、速攻寝込んでびっくりしたわ。体調は大丈夫なん?」
「全然大丈夫です。てゆうか、ただの寝不足なんで。ほんとごめんなさい。みっともないところ見せちゃって」
そういうと、美佐は頬に片手を当てて、顔を赤らめて言った。
「昨日はあれからどうしたん?」
「いつの間にか寝てもうてから、すぐマスターに起こされました。時間は12時すぎくらいやったかなぁ」
「割と寝てる…ふふふ」
「すみません!」
「その時分になったら、もうお客さん来てたやろ。」
「はい。常連の方が2名ほど、居てました。私が目を覚ますと、おはよう!って挨拶されました…。」
「笑かす。誰やろ、ナベさんとかかなぁ」
荷物を置き終わったマスターが戻ってきて、話に加わった。
「ナベさんと、三山や」
「三山さん?珍しいな。来てたんや」
「この近くで仕入れの用事があったんやと。相変わらず、うるさいやっちゃで」
「ほんなら、皆びっくりしたやろ。入ってきたら知らん女の子が寝てるし」
俺はその状況がどんなだったか、もの凄く興味深々だった。新規のお客さんなんて滅多に来ないような店である。なので、そういった偶に発生するイベント事は、アルルカンの住民にとっては格好の肴だ。
「そりゃ、ナベさんも三山も、入ってきた瞬間、おんなじことゆうてたわ」
「何って?」
「イヤッ!なんや、マスター!女の子誘拐してきたんかッ!ゆうて。二人とも。一言一句違わず。ほんまに、阿呆ちゃうか」
「ウケル。おっさんの思考回路おんなじやな」
「なんか、すみません…」
ミサミサがなぜか申し訳なさそうな顔をしている。
「何がぁ。なんも悪いことあらへんがな。皆めちゃくちゃ喜んでたがな。なんも悪いことあらへん」
「ほんまやで。日頃からマンネリしてるからね、アルルカンの人間は。そりゃ、こんな若い子がおったら嬉しいわ。」
「恐縮です」
「そうや。せやけど、ほんなら、昨日それからどうしたん。」
それから俺は、ずっと気になっていたその後の展開を聞いた。
「そうそう。実は、昨日はこの子、アルルカンの倉庫に寝かしてあげてん」
マスターが、大事なことを言い忘れてた、といった感じで、事情を俺に話し始めた。
「倉庫に泊めたの?なんで。どないしたん。美佐ちゃん、自分家はどしたん?帰らんかったんか」
「えっと、実は、私、今家ないんです。」
「ど、どゆこと?」
「昨日、実は友達の家に泊まる予定で、ここに来てたんです。なんですけど、ここまで来たのは良いものの、友達に全然連絡が繋がらなくなって。それでめちゃくちゃ困ってて。それで、周りを見たら、丁度このお店が目に入って。なんか結構雨も激しく降り出したし、ほんとどうしようもなく、困ってしまって」
あんな、朝っぱらから、友達の家探して、こんなミナミの密集街に来たってのか?なんだかよく分からない。中々薄情な奴だな、その友達って。
「でも、前住んでた家ってないの?」
あんまりプライベートのことまで聞いたらまずいかな、と思ったけれど、さすがにここは聞いておかないといけないなと思った。なにせ、現実的に今、マスターに世話掛けてる事になってるんだし。
「えーっと、それは…。実は私、ちょいジプシー生活しちゃってて。」
「ジプシー生活って、あれ、定宿作ってない生活?」
「はい。一昨日まで住ましてもらってたところがあるんですけど、そこを出ないといけなくなって。」
「それで次は、今回の友達のところに、移ろうとしてた」
「そうです。」
美佐は終始、真剣な顔でこれまでの経緯を話していた。俺もなんだか、変に追及してるような雰囲気になってしまって、冗談が言えない感じになってしまった。
深刻になりすぎるのも、あまり良くないかな。
「あぁ、ごめん。突っ込んだことばっかり言っちゃって。いや、ジプシー生活やったら、それこそ、次の住むところ見つけるのが結構大変やんな。一人暮らしってのは、難しいんかな?」
「今はちょっと難しいですね。お金とか…」
マスターが、美佐を庇うように話始めた。
「まぁ、この子も、ちょっと困ってるゆうてて可哀そうやったさかい、倉庫で良かったら貸したろうかな思たんや。倉庫ゆうても、元は普通のワンルームやし。風呂の水も出るから、とりあえずはそこに泊まってもらってん」
アルルカンの入っている雑居ビルの、2Fの一番奥の部屋が、今は倉庫として使われてる部屋だった。
元々、マスターが住んでいた部屋だったが、マスターが今の嫁さんと晩婚するに当たって、嫁さんの方のマンションにマスターが転がりこんだことで、部屋が空いた。
マスターは部屋を解約しようと思ったんだけど、大家の方と話してる中で、大家の方が話を持ち掛けてきた。大家が言うには自身は既に高齢であり、もう新たな入居者を入れる予定はないといい、できれば今まで交流のあった気心のしれているマスターにそのまま借りてもらいたい、格安でどうかという話だった。
マスターは、もう特に必要があるわけではなかったのだが、元来が困っている人を見捨てられない、ああいう性格だった為、了解し、今は倉庫として使っているということだった。かくいう俺も、実は昔、何度か泊まらせてもらったことがある。
「美佐ちゃんも、今が事情が事情やからな。そんなに急かんでもええよ、ゆうてんねん。ほやから、もうちょっと落ち着くまでは、倉庫に住んでもらおうと思ってる」
マスターの感じでは、もう心は決まっているようだった。そうなると、俺の方でも、もうこれ以上は何も言う必要はないかなと思った。
「ほんっとに、助かります。有難うございます。早めに住むところ探すようにしますので…」
美佐は深々とお辞儀をしてマスターに感謝した。
「ええ、ええ。そんなに急かんでええからな。でもな、隆志、」
「うん?」
「美佐ちゃん、評判ええんやで。今日なんか、昼間から一緒にカウンター立ってもらってたけどな」
「カウンター、二人立ったら、それこそ狭いやろ」
「そうやな、だから、交代ごうたい立ったりしてたんやけどな、客の評判も上々やねんで。可愛いし、よう気が利くし。ほんで、なにより料理も出来るからな」
美佐はマスターのその話を聞きながら、顔を赤らめながらも、ちょっと得意げだった。
「そやから、美佐ちゃん、しばらくここにおるの、許したってな」
なんだよ、それ。なんで俺にそんなこと聞くの。そういうところだよ、マスターのところに、俺らが通う理由。
「いや、そんなんマスターが決めることでしょ。俺は全然かまへんと思うよ。皆、喜んでるんやろうし。」
「せやな。有難うな、隆志。良かったなぁ、美佐ちゃん」
「はい!隆志さん。ちょっとの間、お世話になりますね」
美佐は、カウンターに置いてあるテーブル布巾を両手で小さく握りながら、俺の顔をじっと見て言った。それが、あまりに素直で真っすぐ俺の目を見て話すもんだから、なんだかこちらが狼狽えてしまった。
「うん、こちらこそよろしくね。マスター、良かったな。晩年に、こんな可愛い子がそばにおってくれて」
「誰が晩年やねん!まだまだ現役やっちゅうねん」
そういったマスターは、やっぱりちょっと、嬉しそうな顔をしていた。
俗に製版と言われている仕事で、デザイン会社から入稿されたデータを正調する、つまり色調補正・切り抜き・試し刷り等を行いながら、最終的な印刷物になるように加工を行い、それが完了すると、何百部、何千部、何万部を刷っていくところまでが、主な業務となっている。
こういう話を業務を知らない人に説明すると、デザインに携わる仕事ってことでシュッとした格好いい仕事と思われることが多いが、正直言うと、そういう訳ではない。
て訳で、まず初めにシュッとしている業務についての説明から始めてみましょう。
シュッとしている業務に携わる人々というのは、所謂デザイン雑誌に載ってるような奇抜な恰好、赤青ピンクのハイカラな頭をしながら、ミニマリストが経営しているような断捨離の進んだ殺風景なカフェで、これまた現代美術のようなバランスの極めて悪いグラスで、レッドアイ(?)などを飲みながら、良い感じの次の仕事の話を、同じような奇抜な風貌の仲間と馬鹿大声を上げつつ行い、良い感じの身内コネクションネットワークを構築しながら、良い感じの極めてフォントの小さなクラブ・フライヤーなどをちょちょいのちょいと作りつつ、完成したら日夜DJのいるクラブなどで踊り狂うといった、そういった人々のことを言うのである。つまり、そういった人々がデザイン会社の人間なのである。
んで、そういった人々から入稿された良い感じのデータを、最終的な製品として制作するっていうのが俺がやってる仕事なので、言わばそういった、ちょちょいのちょいと作られた入稿物の、最終的な下支えが俺の主業務なのである。
いつの時代も下支えの仕事っていうのは、どんなに取り繕っても実際はケツ吹き仕事であるのは言いようのない事実なのであって、俺は日夜、昼夜問わず一日中稼働している馬鹿デカい印刷機と格闘しながら、何百部、何千部、何万部の入稿データを刷り続けているのだ。
本日もそのような、いつもの加工業務と締め切りとを相手に対決格闘しながら、いつ間にやら、もう19時。アルルカンの営業時間は20時までだが、昨日の女のこともあったから、あれからどうなったのか、ちょっと店に顔を出してみようかと思った。そういう訳で、俺は急いで帰宅準備をして会社を後にしたのである。
俺は長年アルルカンに通っているので、最早、重度の酩酊状態であったとしても、その持ち前の千鳥足でもって、アルルカンに空でたどり着く自信がある。っていうか、今までもそのようなことがあった(そういう時は決まって、マスターは閉店時間を延ばしてくれた)。
なのでつまり、俺がアルルカンへの道のりを間違える可能性は皆無と言っても良い。
そんな俺が本日初めて直面した、この今まさに目の前で起こっている事態について、どう対処して良いのか分からず途方に暮れていた。
そして、途方に暮れている俺は今、とりあえず暫定的な事態収拾を図るため、一度開けたアルルカンの扉を丁重にゆっくりと閉め、もう一度、アルルカンへのアクセスが正しいのかどうか、という重要な命題、まずはそこから始めることにした。つまり、左右の道をしっかりと目視確認し、念のため指さし呼称を行い、左の道、右の道、
「いつもの道!、ヨシッ!!」
いつもの道、ヨシ!と、道端で唐突に大声を上げたものだから、アルルカンの隣にあるオカマバーのオカマが、買い出しで俺の後ろを丁度、通り過ぎたところで
「ヒ!、ヒイ!!」
と野太い声でビックリしていたが、その青髭面にイラっとしたところで、俺はなんとか正気を取り戻すことができた。
つまり、ここはやっぱり間違いなく喫茶アルルカンであり、俺の店までの方向感覚・帰趨本能は正しかったのだ。まず正しい現状認識から順序立てて確認を始めるのが、何事においても得策なのは変わりないのであり、とりあえずの第一段階は完了したのだった。
それで、第一段階は完了したところですので、それでは次に第二段階に移行しようと思います。と思って、俺はアルルカンの扉を、もう一度恐る恐る、丁寧にゆっくりと、開いてみた。
ガラン、と錆び付き気味のベルを鈍く鳴らしながら、今一歩俺は店内に足を踏み入れ、カウンターを覗いてみると、やはりなぜなのか、そこには見知らぬ女が平然と立っているのであり、再度の目視確認の後、俺はもう一度、菩薩のようなアルカイックスマイルでもって、そっとアルルカンの扉を閉めることにした。ところで、
「こんにちわ!」
と中から声が聞こえてきた。
「へ?」
と俺は咄嗟に返事をしてしまった。そのまま扉を閉めてしまう訳にもいかないので、ゆっくりと顔を上げてカウンターを見た。
「昨日はどうも!」
と大きな溌剌とした声。聞き覚えがあるのは、それがとてもリアルタイムな声だったからだ。
もう一度目の前のカウンターに目をやって、落ち着いてそこにいるマスターを見てみた。
良く見ると見覚えのある顔だ。そりゃそうだ、つい昨日見たばかりの顔。昨日の大学生みたいな女だった。女がカウンターの中にちんと納まって立っていた。
「そんなところにいないで、入ってくださいよ!」
女は人懐っこい声を上げながら、俺に話しかけた。俺は何が何か分からないまま、促されるように、いつもの奥の2席まで入っていった。他の客はいなかった。
「なんでそんなとこにいるの?」
聞きたいことは色々あった。昨日あれからどうしたのか、マスターはどこにいったのか、なんでカウンターにいるのか、一体何者なのか。色々あったものの、仲介役のマスターがいないことには、転がる話も転がらない。女もなんだか、表情を見る分には随分と落ち着いて見えるので、とりあえず、なんでそんなとこにいるの?なんて、一番分かりやすい疑問を投げかけてみた。
「えへへ、驚かせちゃってスミマセン。ちょっと今マスター、業スーに買い出しに行ってるんですよ。その間、店番頼まれてるんです」
「へー、そうなんや」
へー、そうなんや。っていっても、昨日から今日連チャンで女がここにいる説明にはなってない。なんだか不思議な話だなと思いつつも、まぁそこはとりあえず置いておくことにした。
「ほな、マスター帰ってくるまで、ちょい待っとこか」
「そうですか?なんか、ゆうてくれたら、作りますけど。どうします?」
女はロングの髪の毛を左手で触りながら、極めて普通に言った。本当に、いつもの事、といった口ぶりだった。
「え、そうなん。なんか作ってくれるの?」
「はい。簡単なもんやったらできますよ。てか、じゃあアメリカン。とりあえず汲みましょか?」
「え、なんでアメリカン飲んでるん、分かったん」
「昨日、飲んではったん見たから」
意外な返事が返ってきて驚いたけれど、作ってもらえるのなら作ってもらおうかな。ちょっと小腹も空いてたり。
「じゃあ、お願いしよかな。後、ナポリタンとか出来る?」
「出来ますよ。ほな、作りますわ。」
「マジか。めちゃ嬉しい。お腹空いててん」
「ふふふ。」
そういうと、さっそく女はテキパキとカウンターの中で動き始めた。
女の子にしては少し身長が高いのか、160cmくらいはあるスラッとした姿でカウンターで働く姿は、とても似合って見えた。こういう喫茶店の経験があるのかと思うくらいには様になっていた。
「はい、アメリカン」
女は俺の目の前に、ゆっくりと丁寧に運んでくれた。
「お、サンキュー。……。……。…うん」
「うん、」
「おお、美味しい。ちゃんとアメリカン。」
「ほんま?良かった。」
有難い。マスターには悪いが、普通に美味しいアメリカンが出てきた。めちゃ美味しい。仕事後の一杯は、俺にとっては本当に幸福な時間だ。
「もうちょっと、待っててくださいね。ナポリタンすぐ作りますから。」
女はロングの髪を後ろで一つに括りながら言った。
「いや、かまへんで。ゆっくり待ってるから」
俺は周りにある未読の週刊誌を探して、ゆっくりと休息を楽しんだ。
それから少しして、ナポリタンが運ばれてきた。
ナポリタンも十分、店で出しても文句は言われないだろうという程度には、普通に美味くてびっくりした。でも、いちいち感動していては、なんだか嬉しがりと思われるのも気恥ずかしいと思ったので、そのことについてはあまり触れないようにした。
と、俺がナポリタンを食べてる最中にマスターが帰ってきた。
「お、来てたんか」
マスターは両手に大きな買い物袋を下げながら、笑顔で言った。
「遅いわ」
「閉店間近に来た分際で、何をゆうてる」
「ははは」
「美佐ちゃん、大丈夫やったか」
マスターはカウンターを見ながら、女に言った。女の名前は美佐ちゃんと言うのか。美佐ちゃん。ミサミサ。
「はい。お客さん、そちらのお兄さんだけですわ」
「あ、お前、なんかエエもん食べてるやないか」
マスターが俺の食べてたナポリタンを見つけて、うらやましそうに言った。
「めっちゃ美味しい」
フォークで口に運びながら、ついでという感じで、自慢してやった。
「よろしいですね!」
マスターは少し不貞腐れて笑いながら、奥に荷物を置きに入っていった。
「ふふふ。仲、良いですね。」
「もう結構、ここ来るようなって長いからね。」
「お兄さん…、えっと、」
「隆志やで」
「隆志さん。あ、私、美佐って言います。呼び捨てでかまわないです。」
「ほな、美佐って呼ばしてもらうわ。」
「すみません、なんか。昨日からここに上がりこんじゃって」
「昨日は、速攻寝込んでびっくりしたわ。体調は大丈夫なん?」
「全然大丈夫です。てゆうか、ただの寝不足なんで。ほんとごめんなさい。みっともないところ見せちゃって」
そういうと、美佐は頬に片手を当てて、顔を赤らめて言った。
「昨日はあれからどうしたん?」
「いつの間にか寝てもうてから、すぐマスターに起こされました。時間は12時すぎくらいやったかなぁ」
「割と寝てる…ふふふ」
「すみません!」
「その時分になったら、もうお客さん来てたやろ。」
「はい。常連の方が2名ほど、居てました。私が目を覚ますと、おはよう!って挨拶されました…。」
「笑かす。誰やろ、ナベさんとかかなぁ」
荷物を置き終わったマスターが戻ってきて、話に加わった。
「ナベさんと、三山や」
「三山さん?珍しいな。来てたんや」
「この近くで仕入れの用事があったんやと。相変わらず、うるさいやっちゃで」
「ほんなら、皆びっくりしたやろ。入ってきたら知らん女の子が寝てるし」
俺はその状況がどんなだったか、もの凄く興味深々だった。新規のお客さんなんて滅多に来ないような店である。なので、そういった偶に発生するイベント事は、アルルカンの住民にとっては格好の肴だ。
「そりゃ、ナベさんも三山も、入ってきた瞬間、おんなじことゆうてたわ」
「何って?」
「イヤッ!なんや、マスター!女の子誘拐してきたんかッ!ゆうて。二人とも。一言一句違わず。ほんまに、阿呆ちゃうか」
「ウケル。おっさんの思考回路おんなじやな」
「なんか、すみません…」
ミサミサがなぜか申し訳なさそうな顔をしている。
「何がぁ。なんも悪いことあらへんがな。皆めちゃくちゃ喜んでたがな。なんも悪いことあらへん」
「ほんまやで。日頃からマンネリしてるからね、アルルカンの人間は。そりゃ、こんな若い子がおったら嬉しいわ。」
「恐縮です」
「そうや。せやけど、ほんなら、昨日それからどうしたん。」
それから俺は、ずっと気になっていたその後の展開を聞いた。
「そうそう。実は、昨日はこの子、アルルカンの倉庫に寝かしてあげてん」
マスターが、大事なことを言い忘れてた、といった感じで、事情を俺に話し始めた。
「倉庫に泊めたの?なんで。どないしたん。美佐ちゃん、自分家はどしたん?帰らんかったんか」
「えっと、実は、私、今家ないんです。」
「ど、どゆこと?」
「昨日、実は友達の家に泊まる予定で、ここに来てたんです。なんですけど、ここまで来たのは良いものの、友達に全然連絡が繋がらなくなって。それでめちゃくちゃ困ってて。それで、周りを見たら、丁度このお店が目に入って。なんか結構雨も激しく降り出したし、ほんとどうしようもなく、困ってしまって」
あんな、朝っぱらから、友達の家探して、こんなミナミの密集街に来たってのか?なんだかよく分からない。中々薄情な奴だな、その友達って。
「でも、前住んでた家ってないの?」
あんまりプライベートのことまで聞いたらまずいかな、と思ったけれど、さすがにここは聞いておかないといけないなと思った。なにせ、現実的に今、マスターに世話掛けてる事になってるんだし。
「えーっと、それは…。実は私、ちょいジプシー生活しちゃってて。」
「ジプシー生活って、あれ、定宿作ってない生活?」
「はい。一昨日まで住ましてもらってたところがあるんですけど、そこを出ないといけなくなって。」
「それで次は、今回の友達のところに、移ろうとしてた」
「そうです。」
美佐は終始、真剣な顔でこれまでの経緯を話していた。俺もなんだか、変に追及してるような雰囲気になってしまって、冗談が言えない感じになってしまった。
深刻になりすぎるのも、あまり良くないかな。
「あぁ、ごめん。突っ込んだことばっかり言っちゃって。いや、ジプシー生活やったら、それこそ、次の住むところ見つけるのが結構大変やんな。一人暮らしってのは、難しいんかな?」
「今はちょっと難しいですね。お金とか…」
マスターが、美佐を庇うように話始めた。
「まぁ、この子も、ちょっと困ってるゆうてて可哀そうやったさかい、倉庫で良かったら貸したろうかな思たんや。倉庫ゆうても、元は普通のワンルームやし。風呂の水も出るから、とりあえずはそこに泊まってもらってん」
アルルカンの入っている雑居ビルの、2Fの一番奥の部屋が、今は倉庫として使われてる部屋だった。
元々、マスターが住んでいた部屋だったが、マスターが今の嫁さんと晩婚するに当たって、嫁さんの方のマンションにマスターが転がりこんだことで、部屋が空いた。
マスターは部屋を解約しようと思ったんだけど、大家の方と話してる中で、大家の方が話を持ち掛けてきた。大家が言うには自身は既に高齢であり、もう新たな入居者を入れる予定はないといい、できれば今まで交流のあった気心のしれているマスターにそのまま借りてもらいたい、格安でどうかという話だった。
マスターは、もう特に必要があるわけではなかったのだが、元来が困っている人を見捨てられない、ああいう性格だった為、了解し、今は倉庫として使っているということだった。かくいう俺も、実は昔、何度か泊まらせてもらったことがある。
「美佐ちゃんも、今が事情が事情やからな。そんなに急かんでもええよ、ゆうてんねん。ほやから、もうちょっと落ち着くまでは、倉庫に住んでもらおうと思ってる」
マスターの感じでは、もう心は決まっているようだった。そうなると、俺の方でも、もうこれ以上は何も言う必要はないかなと思った。
「ほんっとに、助かります。有難うございます。早めに住むところ探すようにしますので…」
美佐は深々とお辞儀をしてマスターに感謝した。
「ええ、ええ。そんなに急かんでええからな。でもな、隆志、」
「うん?」
「美佐ちゃん、評判ええんやで。今日なんか、昼間から一緒にカウンター立ってもらってたけどな」
「カウンター、二人立ったら、それこそ狭いやろ」
「そうやな、だから、交代ごうたい立ったりしてたんやけどな、客の評判も上々やねんで。可愛いし、よう気が利くし。ほんで、なにより料理も出来るからな」
美佐はマスターのその話を聞きながら、顔を赤らめながらも、ちょっと得意げだった。
「そやから、美佐ちゃん、しばらくここにおるの、許したってな」
なんだよ、それ。なんで俺にそんなこと聞くの。そういうところだよ、マスターのところに、俺らが通う理由。
「いや、そんなんマスターが決めることでしょ。俺は全然かまへんと思うよ。皆、喜んでるんやろうし。」
「せやな。有難うな、隆志。良かったなぁ、美佐ちゃん」
「はい!隆志さん。ちょっとの間、お世話になりますね」
美佐は、カウンターに置いてあるテーブル布巾を両手で小さく握りながら、俺の顔をじっと見て言った。それが、あまりに素直で真っすぐ俺の目を見て話すもんだから、なんだかこちらが狼狽えてしまった。
「うん、こちらこそよろしくね。マスター、良かったな。晩年に、こんな可愛い子がそばにおってくれて」
「誰が晩年やねん!まだまだ現役やっちゅうねん」
そういったマスターは、やっぱりちょっと、嬉しそうな顔をしていた。