月曜日

文字数 5,212文字

 「マスター、アメリカンちょうだい」
 「はいよ」
 雨だ。ばたばたばた。
 降り出す瞬間はいつも、空から何らかの小包がまとめて捨てられるような不思議な音がする。
 今何時か知りたくて、腕時計を見てみた。針は10時を指している。
 なぜ自分の時計を見たのかというと、この店の時計はオンボロで、ずーっと止まっているからだ。俺がここに通いだした時には既に止まってたから、それこそ最低でも5年以上はこのままだろう。
 とにかく、俺はもう疲れちゃった。ウチの会社は夜勤が酷くって、体力の有り余ってる昔は良かったけど、年々身体に堪えてくる。齢39歳にもなると正直きつい。日に日に衰えを痛感するのだ。
 本日も会社の要求通り、泥のように働いた後、俺は疲れきった身体のまんま、アルルカンに転がりこんだ。これが所謂、夜勤明けのいつものルーチンワークだ。
 「なぁ、マスター。」
 「なんや」
 「狭ない?この店」
 「うるさいわい。何回おんなじこと、ゆうてんねん」
 ドリップしながらマスターが言う。
 総座席数、5席、カウンターのみ。入口から入って目の前に3席、奥に2席。壁には有名人のサインなんて気の利いたものはなく、マスターの好きな70年代のロックミュージシャンの切り抜きがべたべたと無造作に貼ってある。しかし、よくもまぁ、これでも人が入った方だ。それくらい狭い敷地にあって、ミナミの商店街の脇に入ったところ、細々としたバーやら飲み屋やらが密集する中に、喫茶アルルカンはある。
 そういうところだから、客層っていえば、商売やってる人間、風俗関係、お水とか。後は何故だか迷い込んだリーマンだったりとか。
 「だって、こんな狭いところ、新規なんか絶対来うへんやん」
 まだ他に客がいない店で、俺は広々と奥の2席を占領していた。流し見してからそれっきりの大衆雑誌は、もうテーブルの隅に追いやっていた。
 「新規は来んでもええねん。なんとかやっていけてるから、別にかまへんのや。食えるだけの金があったら、それでええ。ほれ、アメリカン」
 「サンキュー」
 「それに、全然新規が来ぇへんわけでもないで。だって、隆志、お前新規やん。」
 マスターが俺のことを指さして、こっち真向いに向いて、ドヤ顔で言う。それはまぁ、おっしゃる通りなんですけれども。
 「いや、俺のことは置いといて」
 「なんでやねん。お前こそ新規も新規、完全新規やん。ある日突然、玄関割れるくらい、でかい音出して入ってきて。なんやあれは。悪いことして逃げとったんか。そないして来た奴、初めてやわ」
 「う、うーん、まぁ。まぁね…」
 まぁ正直、あれはマジで、ガチで追われていたのであった。つまり、怖いお兄さんたちに。平たくいうと、督促業者の方々ってやつ。
 「お金はちゃんと返さなあかんねんで」
 マスターが自分のアメリカンを飲みほしながら、見透かしたように流し目で言う。カウンターに置いてあるタバコの灰が少し落ちた。俺はちょっと責められてる気がした。
 「だって、アイツらの金利えぐすぎやろ。ボーリよボーリ」
 話の雲行きが怪しくなってきたので、ちょっと閑話休題にしたいなぁとか、そういう感じに思ってきたんだけれども。うーん。
 「悪徳業者はいっぱいおるけどな。そやけど、そんな奴らにそもそも金なんか借りたらあかんのや。わしなんか見てみい。いっぺんも高利貸しなんかに借りたことないわ。そんなことするくらいやったら、草食べて死んだ方がマシや」
 「は、はぁ」
「お前もな、後ろめたいことやったらあかん。なんやあれ、多重債務とかあるやろ。ああいうことやるのは、やっぱり自分の中に心のブレーキがないから、どんどん行ってまうんや。自分ブレーキをしっかりもっとかなあかんのや」
 やばい、マスターの琴線に触れてしまったようだ。ここまでの展開は以下のようである。悪い奴は世の中にいる⇒そういう奴らに関わってはいけない⇒ワシはそういう奴らに関わらないように生きている⇒それこそがワシのポリシーなのだ(つまりワシはワシを誇らしく思っている)。ここまでがマスターの様式美であり、確定コンボであり、メテオなのである。たまに、会話の端々に、このコンボをねじ込まれることがある。マスター含め常連の間で話をしている時でも、不図このモードに入ると、マスターの独壇場となるので、皆フンフンと行儀良く拝聴仕る、待機の時間となるのである。正直、夜勤明けには堪える。
 「すんまへん」
 「なんで、謝るねん。おい、ワシの話聞いてるか?全然真面目に聞いてへんやろ。こいつッ。ほんまになんちゅうやっちゃ」
 「ウソウソ、冗談。ごめんごめん。怒らんといて、マスター」
 まぁ結構面倒くさいけど、こういう、おせっかい焼きというか、本気で俺とかのことを心配してくれるのが、マスターの良いところ。皆そういうところが好きなのかな。
 大体は、こうやってマスターとどうでも良いことを喋りながら2時間くらい居座って帰るのがいつものこと。
 「そういや、モーニング要らんのか」
 マスターが気を取り直して聞いてくる。今日はほんと仕事が疲れたので、食欲も失せていたんだけれども、珈琲飲んで無駄話してたら、なんだか食欲が湧いてきた。
 「あー、ちょいしんどいから、どうしよっかなって思たんやけど、マスターと喋ってたらお腹空いてきた。食べよかな」
 「なんじゃそりゃ。食欲出て良かったな。ほな、ちょい待っとってな」
 今日はずっと雨やっけ。お天気情報知りたかったけど、なんだか携帯見るのも今は面倒臭い。ばたばたばた、激しい雨音を聞きながら、モーニングが出来るまで、頬杖ついてしばらくボーっとしてみる。


 「美味いか」
 マスターがタバコを吸いながら聞いてくる。なんでわざわざ、そんなこと聞いてくるんだよ。
 「なんじゃそりゃ。まぁ、そりゃ、美味しいよ。」
 「良かったな。」
 俺はとても腹が空いたので、それこそ掻っ込むようにしてモーニングを食べつくした。
 「そういや、奥のバーどうなった?」
 「奥のバー?」
 「なんか、この前ガサ入れ入ってたやん。ひと悶着あったでしょ」
 「あぁ、ブルーローズな。いや、詳しいことはよう知らんわ。あれ以来閉めてるけどな」
 ブルーローズってのは、アルルカンがあるのと同様、この密集街の中にあるバーだ。
 ブルーローズは何かと問題のあるバーで、平たく言うと、ミナミの半グレ御用達のバーなのだ。
 なので、そのバーは所謂、色々と法的に問題があるようなことが日常的に行われている場所だった。ただ、以前からその存在は知られていたものの、警察も、中々犯罪のシッポを掴めなかったことや、優先度が低いということもあったみたいで、放置されていた。しかし、この度ついに警察も本腰を入れたようだった。
 俺らのようにアルルカンに来る連中は、そういった危険な人達とは無縁なので、対岸の火事だなと思いながら興味深々で見ていた。何分近所での出来事なので、チョコチョコと事態の詳細情報は入ってくるのだ。まぁ簡単にいうと、クスリ関係で引っ張られたとのこと。
 ガサ入れの時は、丁度俺もアルルカンに居た訳だが、ああいうグレてる連中ってのは、国家権力にも噛みつくような向こう見ずな奴らも居て、心底恐ろしいなぁと思った。話してる最中に、警官に殴りかかろうとした奴がいたくらい。きっと俺たち一般人とは脳の構造が根本的に違うのだろう。喧嘩をすると、躊躇なくナイフで刺してくるような連中なので、絶対に近寄ってはいけない。
 「恐ろしいですよねえー」
 「左様でございますねぇー」
 恐ろしい人たちですよねーって、おっさん二人で阿呆みたいなことを言ってると、ガランと扉のベルが鳴った。お客が来たみたいだ。俺とマスターが玄関の方を見ると、若い女が一人、入口に立っていた。
 「こんにちわ。」
 「いらっしゃい。ホラ、そんなとこで立っとらんと、入っといで。休みに来たんやろ?」
すぐにマスターが声をかける。女は肩で息をしている。急いできたのかな。とりあえず、常連である俺は見たことがない顔だ。彼女も何かキョロキョロと落ち着かない雰囲気だし、マスターも少し気を使ってるみたいだし、やっぱり新規のお客さんなのかもしれない。
 「え、…えぇ。いいですか?」
 「えぇも何も。はよ、入っておいでて。外まだ結構雨降ってるやろ。自分、傘は持ってへんのか」
 女はうっすらと雨にも濡れていた。密集街までは商店街のアーケードから少し離れている為、突然の雨に晒されるとどうしても濡れてしまう。
 「傘もなくって。走ってここまで来ちゃいました。」
 「なんでまたこんなところに。この辺、まだお店なんか空いてへんのに、なんか用事があったんかいな。えらいこっちゃ。ほんならな、ちょっと座って待ってな。奥からタオル持ってくるから」
マスターはカウンターを綺麗に拭いてから、忙しく奥の物入れの方にタオルを探しにいった。
 「…すみません」
 女は入口に一番近い席に、遠慮がちに座った。
奥に居座っている俺のことにも気づいたみたいだが、少し警戒しているようだった。結構可愛い顔をしていた。服装は薄いブルースカートに白いシャツといった格好。一見、大学生っぽく見えて、こんな場所に似つかわしくないなぁなんて思ったけど、もしかしたら風俗でもやってる子なのかなと思った。まぁ、分かんないけど。ちょっと声を掛けてみる。
 「こんな朝っぱらから、どうしたん?」
女は淀みなく、こちらを向いてスラスラと答えてくれた。
 「ちょっと、用事があったんです。友達と約束があったので」
 「そうなんや」
 もう少し話しようと思ったところに、マスターがタオルを見つけて出てきた。
 「はいよ。これで、頭拭き。可愛い顔が台無しなるで」
 「あはは」
マスターのお愛想に笑顔で答えて、女は髪の毛を拭いた。
 「なんか飲む?」
 「えっとー、それじゃ、アメリカン」
 アメリカン、と言われたところで、一瞬俺もマスターも固まった。
 女子大生みたいな女の口からアメリカンという言葉が出たのが、なんだか意外だった。多分、マスターもおんなじ感覚だったに違いない。
 「あぁ、アメリカンね、オッケー」
 意外だったものの、別にダメな注文した訳じゃないから、マスターも何も言わずにドリップを始める。
 「お願いしまーす」
 珈琲を待つ間、多少の静寂があった。マスターは淡々と作業に没頭し、俺は夜勤明けの疲れで睡魔が襲っていたため、喋るのが億劫だった。かと言って、女も進んで喋るようなことはなかった。頬杖をしながらうつむき加減になっていた。それを見たところで、俺も少し眠ってしまった。
 「はい、お待たせ。アメリカン」
 マスターの声で、俺は目が覚めた。
 マスターが女のところに珈琲を置いているところだったが、女の脇辺りに珈琲を置いたところで、マスターがこっちを向いた。
 「この子、寝てもうてる」
 マスターが女を指さして、静かに声を上げた。
 「どうしよ。」
 「どうしよって、起こしぃや。寝られたらあかんやろ」
 「せやけどなぁ」
 女はいつの間にか、カウンターテーブルの上に突っ伏して大きな寝息を上げていた。背中が大きく膨らんだり縮んだりしていた。
 「なんか、よっぽど疲れてるみたいやなぁ。」
 「疲れてるって、そんなん、俺の方が夜勤明けで疲れてるっちゅうねん」
 なんだか知らないが、変な対抗意識が出てしまった。眠気がやばい。夜勤の疲労も最早、限界なのだろうか。
 「そんなん、この子も夜勤明けかもしれんやん。」
 「夜の仕事とか?」
 「かもしれんな。」
 「…どうするのよ。」
 どうするのよ、と言いながら、俺は一旦、女の肩を強めに揺すってみた。が、それでも女はちっとも目を覚ます気配がなかった。どうやらさっきの一瞬で、本気の睡眠に入ってしまったみたいだ。
 「あかん、これ、起きる気配ないなぁ。マスターどうするん」
 「うーん。まぁ、しゃぁないやん。起きるまで寝かしとこ。30分くらいしたら、もう一回起こしてみるわ。うん、ええで、隆志は。お前ははよ帰れ。明日も仕事やろ」
 「うーん。そう?ほな、ちょい先に帰らしてもらおかな。なんか、マスターだけに任せるみたいになって、悪いけど」
 偶然ではあるが、なんだか妙に面倒臭そうな女な気がしたので、厄介ごとをマスターに押し付ける気がして、申し訳なく思った。
俺は帰る前にもう一度、女の肩を揺すって
 「はよ起きろよ」
 と言ってみたが、女は所謂、爆睡を止めなかった。
 マスターに挨拶して、まだ止まない雨の中をアーケード方向に走って帰った。




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