日曜日、夕方

文字数 8,326文字

 大阪メトロの心斎橋駅から三駅で梅田に着く。俺はホームの階段を足早に上って改札を(くぐ)った。美佐が居るのは、堂島にある堂島アバンザビルというオフィスビルの前にある広場だ。メトロからそこまでは少し距離があったので、俺はとりあえず構内をJR大阪駅方面へ向かい、そこから真っすぐ四ツ橋筋を南下することにした。
 途中、東西を横切る大きな道路がいくつもあり、その度に信号に捕まる。息を弾ませながら、俺は心がそわそわと落ち着かなかった。俺は美佐と面と向かって話して、俺と言う人間が蚊帳の外であるという事実を嫌というほど思い知らされたい。平たく言えば、俺はこれから美佐に振られに行くのだ。だけど、そう自分に言い聞かせるのとは裏腹に、俺はやっぱり美佐と会いたかった。そして、こんなにも美佐の存在が俺の心の中に深く入り込んでいたのだと気づかされた。
 その時、不図手元の携帯が小さく震える。見るとマスターからのラインだった。美佐にもメッセージは送っているけど、俺からも直接一言伝えてほしいとのこと。嫌な事があったら、いつでも戻ってきていいからと。
 ヒルトン大阪ホテルや大阪駅前第一ビルといった、梅田のランドマークを左手に見ながら四ツ橋筋を歩くと、やがて堂島アバンザビルが見えてくる。堂島は昔から米相場の街として発展し、今もオフィス街として大きなビルが(ひし)めいている。その中で堂島アバンザビルは地上23階と周辺のビルに比べ頭一つ高く、また東西南北の全面を縦長のミラーガラスで敷き詰められた外観はすっきりと洗練されていて、遠目からでも良く目立った。
 堂島アバンザビルの脇道から東方面に入ると、そこ一帯は北新地。高級クラブが幾つも連なり、芸能人も足繁く通う梅田一の歓楽街だ。きっと宮田もその生業の所為でこの場所にも用事が多いのだろう。美佐がこの場所に居るのも、そういう宮田の関係からなのだろうと思った。
 オフィスビルの間を抜けて堂島アバンザビルの全景が見えたところで、すぐに美佐の後ろ姿が視界に入った。元々この場所には毎日新聞大阪本社があった。その名残として旧社屋玄関ポーチの石のモニュメントがこの広場にあり、美佐はその石のモニュメントに腰かけていた。位置的には、目の前に堂島アバンザビルの玄関を正対する形で座っている。美佐は携帯に目を落したまま、まだこちらに気づいていない。長い髪が耳から零れ表情を半分隠していた。俺は走り寄りたい気持を抑えながら、ゆっくりと美佐に近づいていく。後、2メートルといったところで、美佐がふいに顔を上げこちらを向いた。不意に無表情の美佐と目が合ったが、俺はどんな顔をすれば良いのか分からなかった。無理に笑顔も作れなかった俺の顔は、大層ぎこちなかっただろう。
 美佐は俺に向かって小さく微笑んだ。その顔はどこか寂しそうで、そして疲れて見えた。
「… ……よう」
「……うん。」
 俺は美佐の右隣りに座った。それから、俺たちの間に少し沈黙の時間があった。こんな時は、一体どう振る舞えば良いんだろう。俺も美佐も、心の置き場に困っていた。そんな俺達とは裏腹に、それぞれの約束に向う車や人がひっきりなしに辺りを駆け抜けていく。喧騒と雑踏の中で俺達のいる場所だけが、なんだかぽっかりと置いてけぼりを食ったような気がした。
「…… …なんか、変な感じやな。」
「………… ………うん。」
 俺は先週のことを思い出そうとしていた。月曜日に初めて出会った時から、俺は美佐と一体どうやって喋ってたっけ。左に座った美佐に向かって顔を向けて喋ってたかな。それとも、遠くの景色に目をやりながら喋っていたかな。全くもって少ない思い出に命一杯頭を巡らせてみるけどどこにもその答えを見つけることができなくて、俺は脳内を一周回った後、また元のこの場所に心を引き戻される。
「……… ……急いでるんやっけ。後、どれくらい時間あるん?」
 遠慮がちに美佐の顔を横目に見て聞いてみる。
「……えーっと。30分くらいかな。」
 美佐が携帯の時刻を見ながら答える。今は15時を少し回ったところだった。ほとんど時間がない。
「…… …めっちゃすぐやな。」
「…今、宮田が知り合いの店を順番に挨拶回りしてるねん。その間、私は待ってても暇やから抜けてきた。」
「そっか。… …… ……新幹線で、行くの?」
「うん。… ……私、新幹線乗るの初めて。」
 そう言いながら、下を向いていた顔を此方に向けて美佐は言った。
 きっと巷のカップルがするような別れ話は、二人の紡いできた懐かしい温度に寄り添いながら行われるのだろう。だけど、俺と美佐の間にそんな歴史は無かった。俺達はまだ他人のままだった。だとしたら、こうやって離れてしまう事になったとしても、普通のカップルよりは傷が浅くて済むのだろうか。思い出の数は傷の深さに比例するのかも、なんて、普段考えた事もない馬鹿みたいな妄想に、とてもセンチメンタルになっている。
 俺は、俺の知らない美佐の気持ちを聞く為にここまで来た。だけど、いざとなるとどう切り出して良いのか分からなかった。時間が無い。遠慮なんてしてる場合じゃないのに。とりあえず、何でも良いから話がしたい。美佐の事をなんでも良いから聞きたい。そう思った時、俺の目の端で、空に飛んでいく風船が目に入った。
「あ。」
 俺はどこまでも再現なく高度をあげていく風船に目を奪われた。隣の美佐もそれに釣られて、小さくなっていく風船を追いかける。
「…ああ。あれね、今、屋台が出てるんだ。」
「… …屋台?」
「うん。新地を盛り上げようっていう企画で、今年イベントしてるみたい。昼間、夜のお店が空いてない時間帯に、北新地の一角を通行止めにしてさ。そこに屋台を沢山作ってやってるねん。食べ物屋とか、ゲーム屋とかお土産屋とか、色々あるみたいよ。あの風船はきっと、屋台で買った風船を、子供ちゃんが手放しちゃったんやろね。」
 夕方に差し掛かる真っ青な空を飛ぶ風船は、やがて小さな点になって遠くに消えていった。しばらくの間、俺たちは何も考えないでそれを眺めていた。
「… …… …真紀、お店来たんやね。」
 沈黙の中から、美佐が思い出したように言った。
「……うん。……色々マスターと三人で話したで。真紀ちゃん美佐の事、めっちゃ心配してた。」
「…… … ……そうなんや。… ……そういえば、ラインも全然返してへんわ。なんか、昨日、今日と分からんことだらけやのに、色々連れまわされて、なんか疲れたなぁ。」
 美佐はそう言いながら、背もたれに身体を思い切り預けて伸びをした。
「…… ……… ……だって突然、おらんようになるねんもん。」
 俺はビルから出入りする人たちを目で追いながら美佐に言った。その言葉で美佐の身体が緊張するのが分かった。
「… …… ……… …… ……うん、ごめん。」
「………やっぱ、ワケを話してほしかった。美佐が何を考えて、どう思って宮田についていくことにしたのか。… …………… ……… ……じゃないと、俺、なんにも分からへん」
「………… ……」
 美佐は俺の言葉を聞いて再び俯いた後、両手で顔を覆って押し黙ってしまった。
 きっとそれは美佐にとって、自分なりに考えたぎりぎりの答えだったのだろう。考え抜いて出した答えが、俺の目の前から消えてしまうことだった。
 この一週間のうちに美佐と過ごした時間の中で、美佐はときおり何かを考え込むような瞬間があった。今思えば美佐は、俺と出会った時からずっと悩み続けていた。そんな彼女に俺は今また、自分勝手な思いをぶつけている。
 美佐が声を押し殺して泣いているのが分かった。ときおり鼻をすする音が聞こえる。俺はそれ以上、何も言えなかった。動き続ける街の中で止まった時間が過ぎていく。
 美佐の長い髪の毛が耳から垂れて横顔を覆った。美佐は俺に涙顔を見られないように俯きながら、両手の指先で何度も目元の涙を拭いた。それから心を落ち着かせるように小さな深呼吸をした。
「…… ……あー、… ………分かってた事やけど、やっぱあかんね。…… ………こういう時、女が泣くのとか、ほんまセコイ。自分で自分が嫌になる。」
 美佐はそう言って、俺の方をちらっと見た後悲しそうな笑顔を向けた。
「… ………」
「私と、宮田の事は聞いたんやんな。」
「…… …うん。粗方は。」
 口元を閉めて真顔で俺の目を少し見た後、美佐は視線を外して遠くを見た。
「宮田は、私の人生を変えてくれた人やねん。あの人が助けてくれんかったら、私は今でもあの暗い2階の部屋で売春してた。でもあの時は、お父さんとお母さんと三人で笑って暮らしていけるんやったら、それでもええて本気で思っててん。……今考えたら頭おかしいけどね。そんな私に何度も、宮田は言うんよ。お前は、お前の為に生きなあかんって。今のままじゃ、死んでるのと変わらんって。私は強情やし、それに親に洗脳されてたから、中々宮田の言ってる事が分からへんかった。でも、宮田はそれでも粘り強く説得するねん。自分に何の得も無いのに。この人は、なんでこんなに他人に親切に出来るんやろうって、不思議に思ったわ。」
「…… ……」
「それにやっぱ真紀の説得もあって、それでやっと私は家族と縁切ることができたの。それからは家を出て、友達の家を点々としてた。…… ………それで、その間は宮田と付き合ってた。…… …… ……なんかすごく、月並みな言い方しかできひんけど、その時は本当に自由な気がしてん。だって一日中、自分の好きな事だけして過ごせるんやもの。自分の思い通りに出来るのがこんなに楽しい事やったんやなって、私、初めて知った。普通にバイトしてさ。稼いだお金で、自分の好きな物が買えるなんて。そんな普通の事も私、知らんかった。それでやっと分かったの。ああ、宮田が言ってた事って、こういう事やってんなって。」
 美佐が、両手に持った携帯に目を落して話を続ける。その目は、過ぎ去った大切な過去を見ているようだった。
「宮田はすごく良い人やねんよ。そりゃ、ヤクザやから迫力はあるけどね。真紀も怖がってたと思う。… ……で、19の時やったかな、宮田が九州に行ってしまう事になった。もう大阪から離て戻ってこうへんってなって。私も一緒に行こうって誘われた。だけど、私はそれを断った。」
「… …… …………それは、真紀ちゃんもゆうてた。…… ……なんで、一緒に行かへんかったん?」
「…… ……… ……その時の私には、よう選ばれへんかってん。…… ……宮田について行く事によって、それまでの縁を全て切ってしまうって事。真紀とか友達や、住み慣れた土地や、……それから親とか。その全てを投げうって宮田について行くのが、なんか怖かった。」
「………そんな、今生の別れやないんやろ。」
「…… ………うん。それはそうかも。だけど、その時の私には、それくらいの重大な決断やった。…… …きっと宮田についていったら、そっちの世界に身を置く事になると思ったから。今までと同じで居られないような気がしたの。… ……… ……でも、そうやって私が迷ってたら、宮田がまた言うの。…… ……無理して決めんで、ゆっくり考えたらええって。それで、一人でさっさと九州に行ってしまった。でも、いつか迎えに行くから、それまでに考えとってやって、言ってくれたの。…… ……九州でも色々大変な事が会ったみたいやけど、それからしばらくして、あの人は約束通り私の所に迎えに来た。…… ……今度は、私が宮田に返事する番やねん。」
「…………」
「…… ……… ……… ……あーあ。…… ……神様も、なんでこんなに意地悪なんやろな。……、一週間前までは、一応、私なりに色んな事整理して、心を決めてたんよ。宮田についていく覚悟が出来てた。……なのに、………月曜日(あの日)、雨なんて、降るから。…… …… ………戻ってきた宮田に会いに行く日、雨なんて降ったから。……だから、アルルカンに初めて来て、……こんなに悩むことになった。」
「……… …………」
「… …… ……ほんま、変な話。」
 変な話、と言いながら、美佐は俺の方を向いて悲しそうに笑った。目にはまた、涙が今にも零れそうなほど溜まっていた。俺と美佐の事。出会ってから、俺達はまだたった一週間しか経っていなかった。
「… ……あなたは、なんで月曜日(あの日)、アルルカンに、おったんですか?」
 震える声で、冗談めかした言葉を美佐が紡ぐ。
「…… ……俺は、… ……あそこにしかおらんから。あそこが、俺の居場所やねん。」
 美佐に問われて、俺は不意に言葉が出た。俺の居場所。アルルカンは、俺の大事な居場所だ。
「…… ……そうやろうね。だって、私、最初お店入った時、マスターの息子さんかと思ったもん。」
「俺がマスターの息子?」
「うん。」
「なんでやねん。全然、似てないやん。」
「…… …… …うん、ほんま、全然似てないねんけどさ。だけどあの時は、なんか第一印象でそう思ってん。なんでやろ。」
 美佐が前かがみになって、自分の太腿の上で両肘をついて頬杖をついた。
「…… ……うーん。……ずっとマスターと一緒におるから、物腰が似てくるんやろか。」
「物腰?」
「うん。なんか、よう言うやん。長年付き合ってるカップルって、生活の中で同じ喜怒哀楽を経験してるから、だんだんと顔つきが似てくるって。」
「隆志と、マスターがカップル。」
「ちょ、違うわ!……まぁ、俺、ゆうても空いてる時は、大体マスターと一緒に居るからさ。だから、自然と似てきてるのかも分からんよ。それに、あのアルルカンの雰囲気ってあかんよな。あの店の怠惰な雰囲気が人間をダメにするわ。あ、そうそう。真紀ちゃん今日初めてアルルカンに来たばっかりやのにさ、もう馴染んでるねんで。今頃、だらだら管巻いてるよ。最早、常連の雰囲気醸し出してる。」
「……あははは。真紀らしいわ。あの子、人と仲良くなるの上手やから。人懐っこいねん。可愛い子。」
「まぁ、でも。美佐だって

やけどな。だって、初めて来て早々、店で寝てまうんやもん。」
「あー、それはちょっと、恥ずかしいわ。ほんと、ごめんなさい。」
「あなたも、中々の馴染み具合ですけどねぇ。」
「… ……ふふふ、やめてよー。… ……」
「…… ……… ……」
「…… ……… …」
 俺と美佐は、いつもの調子で話していたところで、なんとなく口を(つぐ)んだ。これ以上、浮かれて話すのがダメな気がした。このまま話していると、戻ってしまいそうな気がしたからだ。
「…… …………。… ……水曜日、やねんけどさ。」
 美佐がひと呼吸置いて言った。
「… …… ……うん。」
「………船乗ったの、めっちゃ楽しかった。」
「… …楽しかったな。」
「私、あんなん乗ったん初めてやねん。あんな船に乗ったのも。それから、橋の裏っ側に手を当てたのも。大阪にも、まだ知らんところ、いっぱいあるねんな。」
「そりゃ、あるわ。また、大阪帰って来たら、連れてったるから。」
 また、大阪来たら、なんて。自分で言っときながら、その言葉で俺は、改めて美佐との別れを自覚した。その言葉で美佐が俺に顔を向ける。
「…… ………うん。」
「…… ………」
「マスターからも、ライン来てるやろ。… …また大阪帰ってきたら、アルルカン来たらえええねん。」
「… ……うん。」
「…… ……皆、待ってるから。」
 どこか、寂しそうな美佐の顔だった。ここで、俺が言える事はなんだろう。そう考えていた次の瞬間、美佐はぼろぼろと大粒の涙を流していた。
 俺は反射的に美佐の両手をとった。その手に、(すが)るように俯いて泣く美佐。抱きしめたい衝動に駆られたけれど、それはできなかった。
 その時、少し向こうでクラクションが一回短く鳴った。反射的にそっちの方を見ると、20mほど向こうの道路脇に一台の青のプリウスが止まっていて、窓からこちらを覗く男が居た。
「…… ……美佐、あれ。」
 一目見て宮田だと分かった。
 美佐や真紀ちゃんから聞いていたイメージとは違い、宮田は髪は短髪を綺麗にまとめ、清潔な身なりをしていた。目元が涼し気な男だった。
 涙を拭って顔を上げ、美佐は宮田の方を見た。宮田の方も美佐を確認した後、頷いて合図した。おそらく、そろそろ時間と言うことだった。それから宮田は俺の方も見て、小さく挨拶をした。一見すると、全くヤクザには見えなかった。
「…… …… …そろそろ、時間やわ。」
 深呼吸をして美佐が言った。それから、手に持っていた携帯をポケットにしまう。
 宮田の方はこちらから目を離し、前を向いて缶コーヒーを飲み始めた。どうやら、車中で俺たちの話が終わるのを待っているようだった。
 美佐は俺の手の中から離れ、顔を両手で一度さすってから髪の毛を整えた。それからゆっくりと立ち上がろうとした時、俺は少し思いついて声を掛けた。
「美佐、ちょっと待って!」
 その声で、美佐が立ち上がるのをやめる。
「… ……どうしたん?」
「ちょっと、待っててな。5分くらい。すぐ、帰ってくるから。」
 呆気にとられる美佐を他所に俺はすぐに腰を上げ、新地の方に向かって走った。目当ては今、新地の一角で開催中のイベント屋台だった。
 美佐の言っていた一角までくると、確かに屋台が連なっていて、人も大勢いて賑わっていた。昼間にこんなにも大勢の人だかりを、新地で見る事はまず無い。俺はその雰囲気に飲まれそうになりながら、唐揚げや焼きそばを買った。それから、箸巻も。それから大急ぎで美佐の所へ戻る。
 突然走り去った俺が、両手にごちゃごちゃと食べ物を抱えて帰ったところを見て、美佐が笑っていた。
「……ちょっと、何、それ。」
「お腹空くやろから、これ、持って行き。ほんで、宮田と食べ。」
 美佐の目の前に、お持ち帰り用に袋に入れてもらった唐揚げと焼きそばを突き出す。美佐は目を丸くして白い袋をまじまじと見る。
「……あんたは、私のおかんか。」
 それから、弾けるように笑って、俺の手から袋を受け取った。
「ほんで、とりあえずは、これ。今、食べり。」
 俺は手に残った箸巻二本の内、一本を美佐に渡す。
「ほんで、これは、俺の分」
 俺は自分の分の箸巻を、口の中にぱくりと入れた。うん、うまい。やきそば等は、店舗によって妙に味が薄かったりする事があるが、箸巻というのはどこで食べても味のクオリティが変わらないのが良い。
「ふふふ。じゃあ、お言葉に甘えて。……頂きます。」
 美佐も、楽し気に、箸巻を口一杯、頬張る。
「……美味いやろ。」
「… … …… …うん、めっちゃ美味しいわ。」
「……それじゃ、元気出して、行きや。」
 美佐が立ち上がって、俺と正対する。泣き過ぎて鼻の頭が真っ赤だった。
「…… …… ……ほな行くわ。」
「…… …… ……うん。元気でな。」
 それから美佐は、口を開けて何か言おうとしていたけど、その言葉が紡がれることはなかった。そのまま口は閉じられ、静かに笑顔を作る。
 それから、美佐は俺に背を向けて、車の方にゆっくりと歩きだした。その向こうでは車内から宮田が美佐を見ていた。俺は美佐を見送っていた。その姿が心なしか小さく見えた時、俺はなんだか堪らなくなった。
「美佐!」
「… ……… ……… ……」
 美佐が俺の言葉を聞いて、驚いたように振り向く。
「………… ……あのさ、美佐がアルルカンのカウンターで働く姿、すごい似合ってたで。美佐が笑ってると、皆が元気もらえるねん。…… ……だから、どこに行っても、元気な美佐でおってな。しんどくなったら、アルルカンの皆もおるから。今生の別れじゃないんやから、いつでも、来たらええねんで。だから、そんな悲しい顔せんときや」
「… ……………。……… ……………」
 美佐は俺の言葉を聞いて、何故か驚いたように立ち止まっていた。それから、時が止まったかのように、足元を見て何かを考えているようだった。俺はその姿を黙ってみていた。
 実際はそんなに時間が経っていないのだろうが、俺にはその時間がとても長く感じられた。その内、美佐が俯いたまま、車の方に向き直り歩きだした。宮田は美佐のその姿を見た後、何も言わずにまた前を向いた。
きっと、皆が皆良い奴で、それぞれがそれぞれの事情で生きているだけなんだろう。ただ、いつも、タイミングが悪いだけなのだ。
 それから美佐はもうこちらを振り返ることなく車に乗り込んだ。その時、宮田が美佐と少しだけ言葉を交わしたように見えた。それから、車はゆっくりと北新地の奥に向かって発進して、夕方の雑居ビルの合間に消えていった。




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み