第26話
文字数 3,122文字
次の日、学校は休みだが広は屋敷を出ていくことになった。
『京都に呼ばれた』と呟く顔があからさまに不機嫌で、咲は無言で支度する広とその手伝いをするあやめを眺めていた。
部屋を出る直前、『こんな時にごめん』と広が振り返ったが、どう返事していいかわからずやはり無言で、咲はその背中を見送った。
「もしかして、私のせいで呼ばれた?」
広が出て行ってしばらくしたところで、咲が尋ねる。
隣に立つあやめは不思議そうに首を傾げたあと、その質問の意味を理解して全否定する。
「それはあり得ません」
「でも、こんな朝早く、急に日帰りで京都に来いって連絡あるとか……」
「急に呼ばれることはよくあります。咲さんの事とは別件です」
「そうかな」
「そうです。京都本家はいつも自分勝手なんです」
なぜそんなにキッパリと言い切れるのだろうと不思議だったが、しばらくして気を遣われている事に気がついた。
咲が居心地悪くないように、あやめはそう言い切ってくれたのだ。
「あやめちゃん、ありがとう」
「? 特に何もしてませんが?」
平日と同じように洗濯物を干し、縁側に座って中庭を眺める。
庭師が入ることもあるが、草木の日々の手入れはあやめが行っているという。
葉の緑と岩の灰色、土の茶色に池の濃い緑。
様々な色が映える綺麗な庭だった。
時折、鳥が遊びに来て、愉快そうに鳴いては羽を広げて去っていく。
「今日の昼ごはん、昨日の食材の残り使って肉じゃが作っていい?」
咲の言葉に、あやめは身体ごと咲に向き直る。
「作れるんですか?」
「カレーと同じ手順だから、簡単にできるよ」
「咲さんは天才です。私はずっと、料理は免許を持つ人が作るものだと思っていました」
「それは緋真の話だね。あれ、でもあやめちゃんって二年前まで……」
そこまで言って、咲はなぜあやめが家庭料理を知らないのかを察して黙り込んだ。
稼いだ金は酒と、母の娯楽に消えていたと言っていた。消えた中には食費も入っていたのだろう。
材料から作るより随分と割高な、既成の料理。
「お米はね、軽く洗えばいいんだよ。手荒れが気になるなら箸を使ってもいい」
「なるほどです。洗剤はダメでしたよね、手洗い石鹸ですか?」
「……石鹸は、使わないかなぁ」
一から教えるのは大変だなと笑いながら、咲はあやめに料理のあれこれを説明した。
しばらくして、あやめの頭がパンクしそうになったところで、咲は話を止めて中庭を見つめる。
花のついてない葉っぱがゆらゆら、風に揺れた。
「私もね、神木と関係ないとこで暮らしてたの」
咲の突然の告白に、ふらふらしていたあやめの頭がピタッと動きを止める。
「広から聞いてたかな?」
「当主様は他人の過去を勝手に話す方ではありません」
「かっこいいよね、広は」
「世界中の人間が逆立ち土下座しても、当主様のかっこ良さには敵いません」
「……? あ、それでね、私、人と関わるのも面倒になって、学校にも行かなかった。育ての親にも、世間に出るくらいならこの家出ていくって脅して、一人で自由気ままに暮らしてた」
「羨ましいです。私も出来るなら、もう人と関わりたくない」
「羨ましいかな? 私はそうは思わないけど。今思えば、もっと外に出ればよかった。あやめちゃんと友達になれたから」
「……私ですか?」
「人間なんて嫌いって思ってたけど、広やあやめちゃんと出会って、一緒に過ごす時間が楽しいって思えた。昨日の夜ご飯、楽しかった。もし私がちゃんと学校に行って、友達ができてお泊まり会とかしたら、こんな感じだったのかなぁって」
「お泊まり会! 楽しかったです! 昨日も、今日の夜ご飯も楽しみだし、今この時間もすごく楽しいです」
「あやめちゃんって、最初の印象より可愛いよね」
「可愛いのは咲さんです。犬だと思って飼ってた生き物が狸だったとしても気にならないほどに可愛いです」
「飼ってた犬が狸だったら、私はちょっと気になるかなぁ……」
「ものの例えです」
「さて、じゃあ、そんなあやめちゃんに、私から提言があります」
「あ、はい」
咲が縁側の上で正座したので、あやめと同じように座り直した。
じっと見つめ合って、お互いの瞳の色を見つめた。
やがて咲が、言葉を告げる。
「不登校、やめない?」
「…………」
顔を背けようとしたあやめだが、ダメだと思ってぐっと堪えた。
咲の目の色が、少しだけ色素の薄い淡い茶色の瞳がとても綺麗で。
そこに自分の姿を認めたあやめは、拳を強く握りしめた。
「学校というのは、楽しい場所ではないです」
「どうしてそう思うの?」
「面倒くさいです」
「それ言い出したらそのうち、『息することも面倒くさい』って言いそうだね、あやめちゃんは」
「……咲さん、毒舌です」
「あやめちゃんのことが好きだからね」
「私も、咲さんのこと、好きです」
「でも面倒くさいんでしょ?」
「そんなことないです! 咲さんと過ごす時間は楽しかったです、とても!」
「一人でいるのと、どっちが楽しかった?」
「咲さんといるほうです!」
「うん、じゃあ、学校行ってみようか」
「……何がどうなってそんな話になりました?」
あやめがキョトンと首を傾げる。
その仕草がとても可愛らしくて、やはり咲は微笑んだ。
「だって楽しかったんでしょ? 私と、友達と一緒に過ごす時間が」
「それは咲さんだからです。学校の子とは違う」
「どんな子がいるの?」
「え?」
「学校、同じクラスにどんな子がいる?」
「……わかりません」
気にしたこともない。同じ教室にどんな人がいるかなんて、隣の席に誰が座っているかなんて。
顔と名前が一致しないどころか、クラスメイトの顔すら知らない。
きっと向こうも、週に一度来るか来ないかわからない同級生の顔なんて、覚えていないだろう。
「もしクラスメイトの中に私みたいな子がいたら、あやめちゃんは損したことになるね」
「損?」
「ちゃんと学校行ってたら、あやめちゃんはその子と友達になれてたかもしれないでしょ? でも不登校のせいで出会えない、友達になれないんだから。過ごせるはずだった楽しい時間を手に入れることが出来なかった。普通に手に入るかもしれなかったものを今、あやめちゃんは自分の手で払い除けてる」
「…………」
あやめは深くため息をついて、項垂れた。
シン、と沈黙の時間が流れる。
どこからか鳥の鳴き声が聞こえた。
「なるほどです。そういう話の流れで学校に行こう、ですか」
「他に何かあるなら無理強いしたくないけど、面倒くさいって理由なら行こうよ、ちゃんと」
「咲さんはすごいですね……世界中の花が満月の夜一斉に開花しても、咲さんの聡明さと可愛さには敵いません」
「あやめちゃんって、ものの例えが独特だよね……そういうあやめちゃんは綺麗だよ、名前と同じ花のように」
咲が足を崩し、縁側に向き直ったのであやめもそれに倣った。
中庭に向いた咲の目線、何を見ているのだろうと不思議に思ったあやめだが、それが捉えているものに気がついてはっとした。
「よく、気が付きましたね……花、咲いてないのに」
「自然の中で育ったからね、草木には詳しいの。五月ころだよね? 来年また、遊びに来てもいい?」
咲の言葉に、あやめが小さくコクリと頷いた。
「来年は、花が咲く様にがんばります。当主様にも、気づいてもらえるでしょうか?」
「大丈夫だよ。もし気づかなかったら、私がライオンパンチする」
ふっと小さく笑ったあやめが、咲の手に自分の手を重ねた。
「これからは毎日、学校に行かなきゃいけないので……早起きして、水やり頑張ります。来年、楽しみにしていてください」
「うん、楽しみにしてる」
燦々と照らす太陽の光。
縁側の上で繋いだ、咲とあやめの手が風に揺れた。