第29話
文字数 4,141文字
緋真家を去り、自宅への帰路を歩く織斗と咲。
不貞腐れたような織斗の言葉に、咲はちらっと兄を一瞥してすぐに視線を逸らした。
「あれは、織斗くんが悪いよ?」
「なんでだよ! むしろ俺被害者だからな?」
「…………殴ってごめんね」
「咲が俺を叩いた意味がわからない。まぁ、あの場から逃げたかったのは同意するけど」
「これね、ライオンパンチって言うんだよ」
「ライオンパンチ?」
「猫パンチの進化系、本気の殴打。広が名づけたの」
「ネーミングセンスおかしいな、あいつ」
「痛かったよね、ごめんね」
そっと頬に触れようとする咲。しかしその手は織斗に捕まれてしまった。
じっと、お互いの目を見つめ合う。
「俺、頑張るから」
「がんばる?」
「神木当主として、咲に認めてもらえるように。咲の兄ちゃんだって胸張って言えるように、がんばるから」
「うん……」
「あと、殴ったことも許す」
「え? あ、うん。ありがとう」
「俺は咲のことを大事にしたいから、これから何があっても、大抵のことなら許す」
「いや、それは……」
「俺のそばにいる限り」
その言葉に、咲は軽く首を傾げた。
そしてその意図を理解して、顔を綻ばせる。
「それは、これからもずっとそばにいろってこと? もしまた家出したら、今度は許さない?」
「ちゃんと帰ってくるなら許す。いや、勝手に出て行ったら許さない。から一言、俺に言ってからにしろ」
「うん……」
「五倍は生きような、咲」
「五倍?」
「俺たち二歳の頃から、十五年間離れてただろ? だからその五倍、七十五歳までは生きる。咲を無視してた十五年分の五倍の期間、幸せを与え続けるから」
「……長いねぇ、あと五十九年もある」
「あっという間だよ、そんな時間……必死に生きてたら、あっという間に過ぎる」
「でも、どうして五倍? 六倍の九十歳じゃないの?」
「男の寿命は短いからな。俺、その歳まで生きれる自信ない。咲は二百歳まで生きてていいぞ」
「そんなに長く生きれないよ。私より、織斗くんの方が長生きすると思うよ。馬鹿となんとかは風邪ひかないって……」
はっと、口を閉じる咲。織斗に睨まれ、苦笑いを返す。
織斗はわざとらしくため息をつき、「許す」と言った。
「いま、ちゃんと隣にいてくれるから。今の暴言も許す」
「優しいね、織斗くん」
「約束したばっかだからな。まぁ、だから俺は、咲が何しても許すし絶対に守るから。これからはもう、勝手に離れるなよ?」
「うん……うん、離れないよ」
目尻に涙が溜まったまま、咲は笑った。
その笑顔が愛おしくて、織斗も笑った。
手を繋いだまま、再び住宅街を歩く。
「そういえば織斗くん、勉強してくれたんだね」
「勉強?」
「神木家のこと、本読んだって言ってたでしょ?」
「あぁ、徹夜で頑張った……忘れたけど」
「忘れた?」
「こんな分厚い本五冊も読んだんだぞ、覚え切れるわけねーよ」
「……織斗くんて、神木の子だよね?」
「なんだよ、そうだけど?」
「……もしかして、頭悪い?」
「…………」
「あっ、否定できないんだね。図星ついてごめんね」
「……余計傷つく。頑張ろうかな、俺。そういえば咲、飯食った?」
「まだ食べてないよ。織斗くんは?」
「俺もまだ。コンビニでアイスでも買って帰るか」
「夜ご飯にアイスっていいの? アイスがご飯でいいの⁉︎」
「そんな喜ぶなよ、冗談だよ」
「冗談なの?」
「……そんな悲しそうな顔すんなよ。夜ご飯のあとのデザートな」
「やった、アイス! ……織斗くん、お金持ってきてる?」
「……いや」
たわいない会話をしながら歩く二人。
外灯の光が明るく、手を繋ぐ二人の影を遠くに伸ばした。
*
空が、青い。
教室の端の席で空を眺めていた織斗だが、以前も同じ風景を眺めていた事を思い出した。
封印を解いた日……姫未と出会った日だ。
ふと、ポケットの中に手を入れた。スライド式のトランプケースが、カチッと音を立てて閉まる。
あの時と同じ、雲ひとつない真っ青な空。
太陽は以前より東、低い位置にある。
「おいバカ、聞いてんのか」
突然の声に、織斗は正面に向き直る。
「あれ? 広?」
「寝ぼけてんのか、それとも頭が空っぽなのか? どっちでもいいが、結奈ちゃんが呼んでる」
広の指差す方向を見ると、弁当箱を掲げた結奈が教室の入口に立っていた。
肩には相変わらず、当然のようにブラックの姿。
「だーかーら! 月水金はお弁当って言ったでしょ?」
慌てて駆け寄った織斗に、頬を膨らませた結奈が弁当箱を突き出す。
いつもの二倍はある、重箱のような弁当箱。
「今日はお兄ちゃんと一緒に食べると思って大きいお弁当にしたけど、水曜から……」
「結奈、時間やばいんだろ、大丈夫か?」
「そうだった、ありがとうブラック! じゃあお兄ちゃん、咲ちゃんによろしくね!」
弁当を押しつけ、颯爽と廊下を駆け抜けていく結奈。
振り向かない背中に手を振ると、肩からぴょこっと顔を出したブラックが片手を振り返してくれた。
時計を見ると、チャイムがなる五分前だった。重みのある弁当を抱え、自分の席へ戻る。
「大量だな」
「二人分だって」
「あぁ……」
織斗の前の席に座っていた広が、納得したように頷く。
今日はデビュー戦なのだ。
咲と仲直りして、神木家に帰ってきて一週間。
弁当の中身はさぞかし、豪華なのだろう。
「そういえば、編入試験満点だったらしいぞ」
「え? あ、マジで?」
「頭いいな、織斗と違って」
「そうなんだよ! めちゃくちゃ頭いいんだよ、あいつ……双子なのに」
「学力は全て持っていかれたんだな」
その言葉に織斗が広を睨む。
しかし広は相手にせず、頬杖をついて窓の外を眺めていた。
「まあ、学力に問題がなかったおかげで、この高校に捻じ込む事が出来たけど」
「それはありがとう。小学校も卒業してないから、どうなる事かと思ったけど」
「緋真が管理してるこの高校じゃなきゃ、入れなかっただろうな」
「まさかこの高校まで、経営は緋真の家系で広の実家が管理してるとは思わなかった」
「あ、それ他のやつに話すなよ?」
「わかってる……そういえば広、教室でゲームしてた時、許可を得てるって……」
「……担任はさすがに無関係の事情を知らない先生だが、トップに居座ってるのは緋真の人間」
「……怖すぎるんだけど」
「気にしてたらキリないぞ。この界隈に緋真が絡んでない場所ほとんどないから」
「だから、それが怖いんだけど」
萎縮する織斗の様子が面白くて、広は愉快そうに笑った。
ひとしきり笑ったところで、頬杖をついて空を見上げる。
「織斗に言うことじゃないかもしれないけど、ありがとう」
「ありがとう? なにが?」
「咲が家出先に緋真を選んだおかげで、うちの引きこもりも毎日学校に行くようになった」
「あやめのこと?」
「今までは週に一度しか行ってなかったからな。今日もフラフラしながら登校してた」
「俺、中学校であいつのこと待ち伏せてたことあるんだけど」
「あぁ、あれは本当に偶然、週に一回の登校日だった。違う日だったら待ちぼうけくらってたな」
「マジか……」
「織斗って悪運だけは強いよな。……空、青いな」
広の言葉に、織斗は顔をあげる。
一週間前とも、一ヶ月前とも変わらない青い空。
だけど確かに違う、あの頃とは違う。
「快晴だねっ!」
鈴の音の様な声に視線を落とすと、机の上にちょこんと、手のひらサイズの和装少女が座っていた。
「ねぇねぇ、今日はお外でご飯食べるとかどう? みんなで!」
手をブンブンと振りながら、姫未が愉快そうに語る。
既に慣れた織斗は、素知らぬ顔で視線を逸らす。
広も同じように顔を背けようとしたが、姫未に制服の裾を掴まれた。
「ねぇ、緋真の当主、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてない! だから、話しかけてくるなって!」
自身の大声にハッとした広が、教室中の視線を気にしながら椅子に座り直す。
織斗は苦笑いでその様子を見ていた。
その時ちょうどチャイムが鳴り、広を含む全ての生徒が自席についた。
「ねぇ、今日ってデビュー戦でしょ?」
机の上に居座る姫未の問いに、織斗は小さく頷く。
次の会話をする間も無く、担任教師が教室に入ってきた。
机に両手をつき、「急だが、今日は転校生を紹介する」なんて、漫画やドラマでよくある台詞に室内がざわめく。
「わくわくするねぇ!」
「……そうだな」
小さな声で返事しておいた。
嘘ではない、織斗自身も緊張していたし、わくわくもしていた。
「入っていいぞ、転校生」
教師は織斗を一瞥したあと廊下に目をやり、教室の外にいる生徒に声をかけた。
ガッチガチに緊張した転校生がゆっくりと教室の中に入る。他の女子生徒より長いスカート丈、しかし誰よりも細い太もも。身体のラインがはっきりとわかる夏服の下、華奢な身体からは考えられない豊かな胸元。化粧をしているわけではないのに桃色に染まる頬と唇。
ザワッと、室内に響めきが起こった。
「神木から聞いたやつもいると思うが、転校生は神木の……」
教室中の視線を受け、身体も表情も硬直している愛らしい女子生徒。
がんばれ、と織斗は転校生にエールを送った。
そしてこれからの事を思った。
帰ったらまた書斎行って勉強しないと。覚えること、学ぶこともまだたくさんある。
立派な当主に……いや、双子の妹を守れる、立派な兄になれるように。
「緋真の当主も緊張してるね」
姫未の言葉で、斜め前にいる広の様子を窺った。ポケットに入れた指をしきりに動かしている。
カチカチと、トランプケースの開閉音が聞こえてきそうだった。
帰ったら勉強して、そして夜になって敵になる。
しばらくこのサイクルが続きそうだな、と織斗はため息をつき、転校生に視線を戻した。
大丈夫かな?
目が合った途端、咲の声が聞こえた気がした。
大丈夫。
そう返すと、緊張で固まっていた咲の表情が和らいだ。
「
ふわっと、花が咲くような笑顔。
「よろしく咲、俺の双子の妹」
小声で言ったつもりだが、声が大きかっただろうか。
教室中の視線が織斗に集まった。
手元では、姫未が愉快そうに笑っていた。