第10話 ランダ

文字数 3,822文字

「あら、戻ってきたの」物音で目を覚ました母が床から言った。
「起こして、ごめん。ゆっくり寝るには、やっぱり結局家が良くってさ」イズリは履物を脱ぎながら答えた。
「お母さんが、あなたくらいの頃は、収穫祭の時期に、家なんか帰らなかったわよ」
「眠いの。ゆっくり家で寝たい」イズリはそう言い、寝支度をすると床に入った。母はそれ以上は何も聞いてこなかった。
 イズリが家に帰ったのは、ちょうど空が白み始めた頃だった。
 イズリは昨日のマルフとの一件の後、暫く林に入って、一人木陰に座っていた。宴に戻る気分にはなれなかったし、かと言って、家に帰るにも心の整理がついていなかった。
 イズリは長い時間、考えていた。時々、その近くをイズリに気づかぬ様子で、若い男女が通り過ぎて行った。皆そうして、恋い語らい、愛を育んでいくのだろう。
 若人の宴が何のためにあるのか、それを深く考えず、呑気に参加した自分が情けなかった。
 結局、どうしようもなくて、夜明け前に家路に着いたが、その帰り道、ようやく少し落ち着いて、マルフに悪いことをしたと思った。マルフのことは、昔からよく知っている。兄貴肌で、口は少し悪いが、曲がったことが嫌いで、でも、意外と繊細で、そして、誰に対しても親切で優しい。悪いやつじゃない。今日だって、誠心誠意自分の気持ちを伝えようとしてくれたではないか。
 けれども、それでも、マルフと結婚するという想像はイズリにはできなかった。
 そうしてイズリは家に辿り着き、床に就いたのだった。疲れていたのだろう。思いの外、すぐに眠りの世界に落ちていった。

 イズリの目が覚めたのは、昼過ぎだった。父が寄合から帰ってきて、その声で目が覚めた。
 父の声は随分と機嫌が悪い。
「里長の交渉は失敗だ。ブルドゥ様は、これっぽちも譲らなかったらしい」
 イズリは身を起こさずに、床の中で身動きし、父母の様子を見守った。
「風車を作れないってこと」母が父に尋ねた。
「それなら、また、お金を貯め直すだけだから、まだ良かったが……。建設の予定は変えられない、里の負担も当初のまま減らさない、と。持ち逃げの件は関係ない、自分達で尻を拭えという話だ」
「ブルドゥ様らしくないご判断ね」
「北の地の実りが良くないらしい。風車を作って、一刻も早くこの土地にかける税を増やしたいのだろう。この調子では、風車ができたところで、私達の取り分は少ないかもしれない」
 イズリは、そんな話を、大人は大人で大変だなと思いながら聞いていた。今は収穫祭。楽しむ時。老若男女、誰であろうと、踊り、歌い、呑み明かす季節。しかし、現実はそんなに単純ではないらしい。
「ああ、あいつが持ち逃げさえしなければなあ」不意に父が呟いた。どうしようもなく、口をついて出たのだろう。
 父の言葉を聞いてイズリは静かに苦しかった。

 イズリはその日の昼過ぎには家を出た。あまり家に長く入り浸ると、親は心配するだろうし、それであれこれ聞かれたりするのも面倒くさい。
 まだまだ露店が出ているから、誰か仲間と巡ってもいいし、あちこちで催されている宴に適当に参加しても良い。
 しかし、どうも気が乗らず、ポトが来るわけでもないのに、ソヨタの川原で時間を潰すことにした。収穫祭の時に、こんな場所に来る人はいないので、イズリは川原の大きな石の上に腰掛け、いたずらに時間を過ごした。
 ポトが来ないかと、懐のもらった石を何度も確かめたが、石には何の変化もなく、ポトが訪れる兆しはなかった。
 イズリは今の自分の気持ちがどういうものか、自分でもわからなかった。靄のかかった、ただ何となく重く、不快な気持ちだった。
 とは言え、マルフには何かを伝えなければいけない気はしていた。マルフは一生懸命言葉を尽くして伝えてくれた。それに報いるだけの、努力はするべきだと思った。ただ気が進まないのも確かで、イズリは日が沈むまで、そうしてそこで、ただぼんやりと考えながら過ごした。
 空が暗んで、いい加減マルフに応えにいかなければと、イズリは渋々立ち上がった。
 マルフが指定したニイナの広場に近づくと、その辺りから笛太鼓の音と騒ぎ声が聞こえてきた。もう始まっているのだろう。マルフたちは、たくさん人を集めたようだ。イズリが想像していたより、ずっと多くの人影が見えた。あまりに人が少ないと、周りから目立って、マルフに返事をする機を見つけるのが難しくなるので、この人だかりは好都合ではあったが、また、今のこの気分であの陽気な輪の中に入りたくはなかった。
 もう少しだけ宴が落ち着くのを待ってから行こう。イズリは、そう考えて、脇の林に分け入り、丁度良い切り株を見つけて、また腰掛けた。
 イズリは落ち着くのを待ちたいと思ったが、始まったばかりの宴は、当然勢いを増すだけだった。
 しばらくしてから、イズリは、仕方なく腰を上げたが、しかし、またすぐに別の考えが、イズリの足をその場に留めた。
 そうだ。一踊りして気を盛り上げてから向かおう。
 広場からラタンの太鼓の打音が聞こえてくる。イズリは、地を足でならしてから、音に合わせて足踏みを始めた。少し軽く飛んでみて、それに腕の動きを合わせてゆく。軽快な拍子に合わせて舞い踊る。誰に見せるわけでもない、自分のための踊り。音は段々と激しくなってゆく。それに合わせて、イズリは、漠然とした今の不安をぶつけるように踊った。囃子はより一層強く激しくなり、ラタンはいよいよランダになった。イズリは、呼吸が苦しくなるのも構わず、遮二無二に舞った。足が疲れてもつれそうになり、腕だって千切れそうに痛かったが、止めようとは思わなかった。
 イズリは踊りながら考えた。自分がマルフの嫁になりたいのか、なりたくないのか、この先どうするのか、どう生きたいのか。わからない。わからないんだ。私はどうすればいい。どう生きれば良い。誰か教えて欲しい。私には私がわからない。誰か導いて欲しい。私のことを一番良く知っている人は誰? ポト。ポトだ。ポトに会いたい。思い返せば、テルヤの前から会っていない。会いたい。ポトに会いたい。
 いよいよ疲労は頂点に達し、僅かに吐き気すら覚えたが、目を閉じてそれに堪え、イズリは踊り続けた。
 目を閉じて暫くすると、ふと身体が軽くなっていることに気がついた。限界まで踊り続けると、時々このようなことが起こるというのは、イズリも経験で知っていた。しかし、今日はとりわけ軽い。身体の感覚がなくなってしまったみたいだ。今、回った、今、飛んだということは、何となくわかるのだけれども、どうも掌が空を掻いている感じがしない。心地良い陽気の中を飛ぶ綿毛になったみたいだ。
 イズリはそっと目を開けてみた。
 イズリはイズリを見下ろしていた。イズリは、遥か下の方で自分自身が踊っているのを見た。
 そして少し前に目を向けると、林を抜けた広場がぼんやりと明るく、人がそこに集まっているのがわかった。
 イズリは以前にも同じようなことがあった気がした。そして、それが、ラグの実を食べた時だったということを思い出した。ソヨタの川原で、ポトに教えてもらって魂を浮かせたあの時……。ということは、今、私は魂を飛ばしている?
 なんだか、夢の中にいるように、ぼんやりとして、それ以上のことは、考えられなかったが、おそらくそうなのだろう。
 肉体を離れたイズリはずっと自由だった。恐ろしく身体が軽く、イズリの思うように、空を移動することができた。
 イズリは直ぐにソヨタの川原を越えてゆき、黒々と広がる森を上から見下ろした。
 この森のどこかにポトがいる。そう思うと元気が湧いてきた。これで遂に会いにいけるのだ。
 イズリは森の上を高く飛んだり、森の中に入ってみたりして、ポトを探し回った。
 途中、闇に光る獣の目と視線があった気がしたが、イズリは気にかけなかった。イズリは前に訪れたナガルの小屋を探そうとした。あれが夜の森にあるならば、きっと目立つはずだ。けれども、小屋はどれだけ飛んでも見つからなかった。大きな声で、ポトの名を呼ぼうと思ったが、声は出なかった。
 魂を飛ばすうちに、それには、かなりの体力を使うということが段々わかってきた。最初の頃より、ずっと動きが重くなっている。今はもう水の中を走って移動しているような感じで、前に中々進めなかった。
 しかし、ここで諦めたなら、ポトには会えない。なぜそう思うのかはわからなかったが、今すぐに、ポトに会いたかった。魂の姿でポトに会って、どうなるのかはわからなかったが、ポトなら気がついてくれるとも思った。
 今やポトに会うという、その思いだけで、そこに存在していた。けれども、それもいい加減、限界だった。底に引きずるような眠気が襲ってくる。意識を保つのが難しくなってきた。
 イズリは前に魂を飛ばした時のことを思い出した。戻る身体を忘れてはならない。このまま眠ってしまっては、いけない気がする。
 イズリはもう落ちるという瞬間、林で踊る自分の足を意識した。確かに足はあった。そして、身体に魂が戻るのを感じた。
 が、戻る直前、魂のイズリがポトを見つけた。ポトは不意に森の闇の中から姿を出して、あんぐり口を開けてイズリを見つめた。
 それでも、イズリはこれ以上そこに留まることはできなかった。
 身体に着地したイズリは、そのまま引き摺り込まれるようにして、夢の中に落ちていった。
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