第3話 ナガル婆さん

文字数 2,369文字

 老婆の家は思いの外、心地の良い場所だった。置いてある寝床や炉など生活に必要な物は、どれも簡素なものであったが、この部屋を最も特徴づけているものは、窓と対の壁に設えられた大きな棚であった。棚には多くの酒壺のようなものや無数の本が並べられていた。また、棚には多くの引き出しがついていた。
 部屋には、イズリの知らない匂いが薄らと漂っていたが、決して不快なものではなかった。
 老婆はイズリとポトを木の椅子に座らせると、まず棚の引き出しから何らかの葉を出してきて、それを別々の器に入れて湯を注ぎ、さらにそれを濾したものを湯呑みにいれて二人に差し出した。どうやら、イズリとポト、それぞれ別のものらしい。イズリのものは、赤茶色をしていたし、ポトのものは、イズリのよりずっと青みがかっていた。
「お飲みなさい。危ないものじゃないよ」
 イズリは甘い香りのする液体に恐る恐る口をつけた。香りほどの甘さはなく、口当たりの良い飲み物だった。身体に染み渡る温かさで、一口ずつ飲みすすめるに従って、今まで張り詰めていた緊張が良い具合に抜けていくのを感じた。
 ポトは横でうつらうつらし始めた。
 イズリは、この老婆が一体誰であるのか、もう思い出していた。じっくりと話したことこそなかったが、見たことは何度もある。イズリが知る限り、私たちをどうこうしようというような、悪人ではない。
 老婆は薬草汁を飲んで眠りに落ちつつあるポトを、今、また顔をしかめて、その胸や頭を指でなぞったり軽く叩いたりしながら、何かを調べていた。やがて一通り調べ終わると、眠そうなポトを抱え込むように立たせてそのまま、自身の寝床に寝かしつけた。そして、一つ大きな溜息をついて、机に戻ってきて、ようやくイズリを見た。
「挨拶遅れて、すまんかったね。あたしゃ、呪術師をしているナガルだよ」
 イズリは頷いた。ナガルは、二十日に一度ほど、里へ降りてきて、薬草を売ったり、病の者を見たり、不幸が続く者を占ったりしていた。
「あんたは、イゼラのところの娘だね。実は昔、あんたのことも、この子のことも視たことがあるんだよ」ナガルが自分やポトのことを知っているのは意外であったが、イズリは黙って頷いた。
「こいつをよく私のところに連れてきてくれたね。礼を言うよ」イズリは一体どうして礼を言われたのかわからなかったが、しかしそれをどう尋ねればいいのかわからず、やはりただ黙って頷くことしかできなかった。
 イズリが黙っていることを良いことに、ナガルは一人話し続けた。
「あんたはよい子だねえ。よい子だから、これから言うあたしの話を、聞かなきゃあいけないよ。茶を飲んだばかりなのに、悪いとは思うんだけれどね、ただね、あんたは、今すぐここから帰らなきゃいけないんだよ」そう言ってイズリの太腿に衣の上から、すっと触れた。途端にイズリは何だか歩きたい気持ちになって、そのままナガルに誘われて、入ってきた扉に向かった。家の外は心地良い風が吹いているだろう。木の扉をぐっと押して外に出る。家に帰るんだ。その気持ちがイズリを動かした。
 しかし、扉を閉める時、その一瞬に、床に横たわるポトの姿が目に入った。
「待って!」イズリは急にはっとして叫んだ。
「ナガルさん待って。私帰らない。ポトと一緒じゃないと帰りません」
 ナガルはポトを憐むような目で見た。
「やっぱりあんたは勇気のある子だね。けれども、あんたは帰らなきゃならないんだ」
「どうして、ポトは一緒に帰れないのですか」
「あんたには帰るところがあるからさ。帰るところがあるなら、きちんと帰らなきゃいけないんだよ」
「ポトだって、私の家に帰ればいいんです」
そう言うと、今度こそ、確かに、ナガルは哀れみの目でイズリを見て、首を振った。
「本当にそう思うかい」ナガルの言い方は決して乱暴でなかった。けれども、イズリの心にじんわりと染み込んできて、毒のように指先に痺れを感じさせた。
 イズリだって、わかっている。もう子どもじゃない。親が里を裏切ったというのが、どういうことか、足を怪我したまま里で一人生きていくというのがどういうことか。
 ただ認めたくないのだ。ポトはイズリの大切な友人で、仲間で、ポトを失うことはイズリにとって大きな痛みなのだ。
 でも、もしここでならポトが幸せに暮らせるというのならば、どうだ。いや、本当はそれでも悔しい。ポトのいないこれからなんて、イズリには考えられない。けれども、それはイズリの痛みであって、ポトの痛みではない。
「ナガルさん。ポトをよろしくお願いします」イズリは震える声で言い切った。
「本当に賢い子だねえ」老婆はイズリを優しく抱きしめ、そっと頭を撫でた。
「ナガルさん、ポトとはこれからも会えますか」はっとしてイズリは尋ねた。
 ナガルは少し考えて、イズリにそこで待つように言って家の中に戻っていった。そして、暫くして、何かを握り締めて帰ってきた。ナガルはそれをイズリの掌の上に落とした。イズリの掌には、淡い桜色の石に紐をかけたものが乗っていた。
「ポトが里に行く時は、この石が教えてくれるよ。その日のおやつ時に、ソヨタの川原に来なさい」
 イズリはそれを首にかけ、大切に衣の中に仕舞い込んだ。それを見届けたナガルは、突然急かしてこう言った。
「さあ、おまえさんは、これ以上ここにはいられないよ。あそこに、二つの丸い光が見えるかい。あの光を追いかけて帰れば、家に帰れるよ」確かに森の奥に小さな二つの光る点があった。
「あれは、なんですか」
「それは今知らなくても大丈夫なことだよ」ナガルはそう言って教えてくれなかった。
「さぁ、振り返らずに行きなさい」
 突然二つの光が消えて、いくらもしないうちに遠ざかったところにまた光った。
 イズリは慌ててそれを追いかけ、巨大な闇に向かって駆け出した。
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