第6話 赤い実

文字数 6,121文字

 ポトが里を出てから暫く経った。イズリは、次にポトに会ったら、あれを話そう、これを話そうと、そればかりを考えて毎日過ごしていた。少なくとも、一人暗闇の森を帰った話は、絶対に話さなければ、気が済まない。ポトが呑気に寝ている間に、どんな冒険をする羽目になったか。どんな危険を潜り抜けたか。ポトが驚いてイズリの勇気を称え、また微笑みながら頷いてくれる様子がありありと浮かんだ。
 だか、待てどもポトが戻ってくる様子はなかった。ナガルからもらった石にも、なんの変化もなかった。イズリは自分が石の合図を読み誤っているのかもしれないと思い、何度かおやつ時にソヨタの川原に行ってみた。しかし、行ってみたところで、ポトが帰ってくる気配はなかった。
 イズリはポトに会いたかった。いつも一緒だったのに、会えなくなって、寂しかった。心配もした。そうしている間に既に二十日ほど経った。ふと、このまま一生会えないのではないかという考えが頭を掠めて怖くなった。こちらから会いに行こうとも思ったが、里の人は誰もナガルの家がどこにあるのか知らなかった。
 ようやく石にそれらしい変化が現れたのは、三十日以上経ってからのことだった。ある日の朝、突然、懐に微かな熱を感じて、懐から石を取り出してみると、もらった時は桜色だった石が、紅く変化していた。
 イズリは、小躍りしてそれを喜んだ。嬉しくて仕方がない。畑仕事の最中の気もそぞろで、何度か危うく鎌で指を切りそうになったが、気にしなかった。
 昼ご飯を家族と畑で食べた後、まだおやつ時には早かったが、イズリはすぐにソヨタの川原に向かった。
 仕事がなければ、いつもは里の子どもたちと、釣りをしたり相撲をとって遊んだりする時間である。
 けれども、待ちきれないイズリは、まだ日が真上にあるのに、一人川原にやってきた。
 ソヨタの川原は、ちょうどあの日、ポトと川を渡った場所である。川が浅瀬になっていて、森に渡りやすい。川釣りはもっと上流だし、洗濯はもっと下流なので、よく来る場所というわけではなかったが、たまに仲間と水遊びに訪れることはあった。
 イズリは真夏の太陽を避けるべく、対岸がよく見える大きな木の下を陣取って座った。対岸には薄黒い森が広がっている。ポトがどこから出てくるかはわからなかったが、あの森がナガルの住む森だった。あの気味の悪い森を今頃一人で歩いているのだろうか。イズリは時々、森を一人で歩くポトの姿を想像して、想像しては、自分が夜に森を駆け抜けた時のことを思い出して、落ち着かない気持ちになった。
 家族にも仲間にもポトが帰ってくるかもしれないということは伝えていない。二人でゆっくりと話したかったというのもある。そして、ポトが本当に帰ってくるのか、自信がなかったというのもあった。
このままポトが帰ってこなかったらどうしよう。待つ時間は不安を膨らませる。
 次第に日が傾き、そろそろおやつ時という頃合になった。イズリはもう立ち上がって、首を伸ばして、森からポトが出てくるのを今か今かと待ちわびた。
 その時、背後から誰かが駆けてくる音がして、イズリが振り向くと同時に、その影が自分に飛び込んできた。
「イズリ!」聴き慣れた声がそう叫び、イズリを強く抱きしめて、背を何度も撫でた。
「ポト!」イズリは顔をあげ、ポトの顔をはっきりと見た。
 そうして二人はしばらく会えた喜びを分かち合っていたが、イズリはふと照れ臭くなって、ポトの腕を解いて言った。「ポト。久しぶり。てっきり、私は森から来るかと思ってたよ」
「さっきまで、師匠について村に薬を売りに行っていたんだ」ポトは言った。師匠というのはナガルのことだろう。
「なんだ、それじゃあ、他の村人には、もう先に会ったっていうこと?」
「そうだよ。イズリがいないかって、ずっときょろきょろしていたら、仕事に集中しろって師匠に怒られたよ」ポトがそう言ってけらけら笑ったのにつられて、イズリも思わず笑った。
「それにしても、随分と待たせてくれたね」イズリは少し怒ってみせながら言った。
「それ。その話だよ。戻ってきただけでも誉めて欲しいんだ」そう言うと、ポトはイズリと離れてからのことを、息急き切って語り始めた。

―本当に大変だったんだよ。もしかしたら、二度とイズリと会えなかったかもしれないんだ。イズリとあの日、森に行ったことは、正直あんまり覚えていなくて、ただ所々ぼんやりと、森が呼んでいたこと、その声に惹かれて森に入ったこと、森が暗かったこと、イズリが戻ろうと声をかけてくれたこと、そんな記憶が途切れ途切れにあるだけなんだ。だから師匠の家に着いた時のこともあまり覚えていなくて。これは師匠から聞いた話なんだけど、イズリが帰った後、俺は高熱を出して三日三晩寝込んだらしいんだ。師匠は俺の周りに結界を張って、俺をそこに閉じ込めたって言っていたよ。俺は俺で変な夢を見た。森の呼び声に従ってどんどんと奥に入っていくと、その向こうにそれはそれは美しい女性が立っていて、俺を呼ぶんだ。たぶん女神様だったんじゃないかって思うよ。そして、俺がそこに行くまで、女神様は待っていてくれたんだ。近づくと一層美しかったよ。今思えば、森に陽の光なんてなかったはずなんだ。でも、女神様は眩かった。きっと光を放っていたんだね。純白の衣の間から見える手足は白く嫋やかで、髪は今まで見たどんな色より深い青色だったよ。長く長く艶やかで、実は俺は、その後別れる前に一度だけその髪を撫でたのだけど、絹よりもずっと滑らかだった。顔……。はっきりとは思い出せないけど、鼻の形はイズリに似ていると思った記憶があるよ。でも、どんな目だったかは、覚えていないなあ。とにかく、俺は女神様としばらく一緒に歩いたよ。女神様が歩きたがったんだ。俺に手を差し出すように言って、その上に自分の手を重ねたんだ。これまで見たこともないほどの美しい人を連れて歩いたわけだから、俺は舞い上がってしまったよ。歩きながら得意気になって、俺は女神様を見上げたんだ。そうだ思い出した。その時に、イズリの鼻に似ているなと思ったんだ。そして、女神様が野草の冠をかぶっていることに気がついたんだ。その冠は、蔦を編んで作ったものだったのだけれども、何か小さな赤い実が二つ、ついていたんだ。俺は急にその甘酸っぱさを想像してしまって、口の中が唾でいっぱいになったんだ。そうして、その実を食べたくなった。美しい女神と歩くことよりも、その実を食べることの方が重要な気がしてきたんだ。俺は咄嗟に女神様の手を振り解き、冠から実を一つ引きちぎった。そして、逃げ出した。直ぐに後ろで、人とは思えない唸り声が聞こえたよ。恐ろしかった。でも、一度も振り返らなかったよ。そんな余裕もなかったんだ。きっと振り返ったら殺されていたと思う。俺はどこまでも走った。夢の中だから、どれだけでも走れたんだ。方角なんてわからないし、闇雲に走ったけど、どこまで逃げてもそいつは追ってくる。ずっと、唸り声が後ろをつけていたからね、そうわかったんだ。俺はいよいよ倒れそうだと思って、握りしめていた実を食べた。後ろから叫び声が聞こえたよ。辛く悲しい嘆き声だった。地の果てにも届きそうな大きな声で長く泣いていたけれども、そのうちそれは小さくなって、最後はすっと、消えてしまったよ。俺はようやくに安心してその場に座り込んでしまった。けれども、その安心は間違いだった。赤い実は毒だった。人が食べてもよいものではなかったんだね。胸が溶けるような吐き気に襲われた後、身体が燃えているみたいに熱くなった。いや、たぶん本当に燃えていたと思う。どれだけ燃えていただろう。夢の中だから、時間の感覚がないんだ。それで、何百年も燃やされていた気がしたよ。最初はこの苦しみからなんとかして逃れようとした。でも逃れられなかった。そして、そのうち俺は気がついた。俺は人だからこの実を食べられなかったのだと。それならば、俺は人であることを捨てればよいじゃないか。女神の姿を思い出したよ。あんなにも美しい何かになれるとは思わなかったけれど、俺は俺から生まれる熱をもっと強くしようとした。熱くなれ、熱くなれ、そう願った。そうすると、黄色い眩い光が俺の内側に生まれて膨らんで、ついには弾け飛んだ。俺はそこで意識を失った。気がついたら師匠の家の床の上さ―
 イズリにはポトの話に引き込まれていた。頷くことも忘れ、時々息を飲みながら聞いた。
 また、ポトは、目覚めた後も数日は身体が動かなかったことも話した。
「ナガル師匠は流石だよ。瞼すら思うように動かせず、碌に声も出せない俺に向かってこう言ったんだ。『あんたは、生まれ直したんだ。だから、それくらいのことは当然だ。慌てなさんな。そのうち何とかなるから、でんと寝転がっときな』って。本当に師匠の言う通り、しばらくしたら、少しずつ動けるよつになってさ。三日寝込んで、起きて、動けるようになるまでに、十日ほど。あと、動けるようになった後も、急に森に呼ばれて倒れることがあったんだ。だから、森に呼ばれても引っ張られないように、ちょっとした修行をしないといけなくてさ、それでさらに十五日ほど。ほら、全部足すと大体今日になるのさ。よく帰ってきたって褒めろよ」そう言って、ポトは笑った。
 イズリも力なく笑い返した。「大変だったね。また会えて良かったよ」
「本当に」
「じゃあ、これからはいつでも会えるの」
「修行もしなきゃならないし、いつでもってわけにはいかないけれど、師匠と薬を売りに来るから、二十日に一度くらいは会えると思うよ」
「まあ、会えるだけ良かったよ」イズリはポトのよく知った横顔を眺めながら、そう言った。少し寂しかったが、仕方のないことだった。
 不意に背中に腹に響く声が届いた。
「ほれ、ポト、帰るよ。」
「あ、師匠」ポトが振り返る。
 大きな麻袋を載せた背負子を歳に似合わぬ力で背負った老婆が、よいこらとこちらにやって来た。
「ほれ、あんたも一つ持ってくれ」ポトに荷を分けると、ナガルはイズリを見た。
「嬢ちゃん、久しぶりだね。元気そうで良かったよ」
「ナガルさん、ポトを看病して下さってありがとうございます」
「なあに、あたしも師匠になっちまったからね。なっちまったものは仕方がないんだよ」
 ふとイズリは思いついてナガルに尋ねた。
「ナガルさん。ポトに会いに行きたいのですが、森の道を教えてくれませんか」
「残念だが、それはできないよ。私たちの家は人が来るところじゃないんだよ」ナガルはぶっきらぼうに言った。
「さあ、帰るよ。ポト」二人はイズリに別れを告げ、川に足を踏み入れかけた。その時、ナガルは不意に振り返って、イズリに言った。
「嬢ちゃんや、間違えても、追ってこようなんて考えてはいけないよ。手前勝手に入ると死ぬよ。森というのは、そういうところだよ」
 イズリは考えていたことを見透かされ、渋々頷いた。
 二人はやがて川を渡り、森へ分け入り帰っていった。
 イズリはその帰り道、夕焼けの空を眺めながら、ポトに自分の話を聞いてもらい損ねたことを思い出した。

―お母さん、聞いて。今日ポトに会ったよ―
 イズリはそう言って、家に飛び込もうとした。けれども、どうやら家の中はそんな雰囲気ではないと、飛び込む前に気がついた。何と言っているかまではわからなかったが、姉の喚く声が家の外まで響いていた。
 イズリは何事かと思い、恐る恐る家の内を覗いた。と、丁度、戸口正面の炉の後ろにいた母と目があった。母は小さく首を振って、右奥にいる姉のイズルを顎で示し、苦笑して、イズリに家に入ってくるよう視線を送った。
 イズリが藁草履を脱ぎ敷物に上がると、母の隣にいる父もちらりとこちらを見た。腕を組んで難しい顔をしていた。
 姉は薄暗い室の隅で、床の上に座り込んで、泣き腫らした目で両親を睨んでいる。
「ねえ、何かあったの」イズリは母の側に寄ると、耳元で囁いた。母は肩をすくめて、やはり苦笑いしただけだった。
「おい、イズル。いつまでも、子どもじゃないんだから、そう拗ねるもんじゃない」父が姉に向かって言った。
「いやよ。私、もう結婚なんてしない。あんなおじさんだとは思わなかった。なんで、あんな人選んだのよ」イズルは枕を振り回しながら喚いた。枕に詰められた藁が辺りに飛び散った。
「おじさんって、たった五つしか離れていないだろう」父が返す。
「五つもよ。もっといい人いたでしょう」
「おまえが、早く探せと言ったのだろう」
「だからって、こんなのないよ」
 イズリは家族の会話から大体の事情を察した。きっと、姉の夫となる人が、この里に野菜でも売りに来たついでに、家に立ち寄ったのだろう。
「イズル、お父さんはこの辺りの里を探し回って、見つけてきてくれたのよ。その里でもこんなに働き者の青年いないって。お父さんは、娘を預ける人を適当に選んだりしないわ」母が言った。
 話は長く続いたが、いつまで経っても平行線だった。けれども、今更破談にするなどという選択肢がないことは、イズルも当然わかっていた。それでもどうしようもないので、ただ泣くばかりだった。

 その夜、イズリは姉のイズルのことをあれこれと考えた。
 父も母もイズルも何も言わなかったが、イズルの婿探しが難航したのには、私の存在もあったのではないか。エノヒの子を家族に持つ姉を嫌がった家も多いのではないか。
 勿論、たとえそうだとして、イズリだけのせいだとは思わない。本当かは知らないが、イズルは自分で、里の年頃の男から、幾つもの誘いを受けたと言っていた。誘いかけるということは、誘った側は、ある程度先に家に話を通して、イズルの了解さえもらえれば、結婚できるよう手筈を整えていたはずだ。
 誰が声をかけてきたかまでは知らなかったが、歌の上手いイズルなら、多くの誘いがあったとしても、おかしくはない。
 イズルが言うには、里の人間は子どもっぽいからそれらは全て断った、というのだ。
 里の人間は嫌だ、けれども、早く結婚したい。だから、早く探して欲しい。
 父母はそれで一生懸命探したに違いない。そして、ようやく探してきたら、気に食わないとは、親二人して、全く振り回されたものだ。
 ただ、姉を我儘な人間だと言い捨てることも、イズリには難しかった。
 イズリは数年後の自分を考えた。成人の儀であるテルヤを済ませてしまえば、自然と結婚は見えてくる。数年の猶予はあるだろうが、たかが数年だ。そして結婚さえしてしまえば、今度は人生が見えてくる。それこそ、里の内で結婚してしまえば、今と殆ど変わらない、ただ朝は田畑を耕し、夜に着物を繕って、たまに狩りを手伝うくらいの短調な生活が訪れることが目に見えている。
 母は、結婚とはそんなに単純なものではないと言うけれども、イズリからすると、人生の終着点のように思えたし、だからこそ、姉が残りの人生を共にする相手に特別さを求めるのも、わからなくはなかった。
 数年後には自分も……。考えたくもなかった。
 その数日後、姉は隣の里に嫁いで行った。
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