第7話 魂飛ばし

文字数 5,889文字

 ポトは一度里に戻ってきて以来、十日から二十日に一度くらいは里を訪れるようになった。いつも、ナガルと里に来ては、薬草を売って、それが終われば、ソヨタの川原でイズリたちと時間を過ごした。
 初めのうちの何度かは、一緒に遊んできた仲間たちも、川原に集まったが、何度か繰り返すうちに、会いに行くのはイズリだけになってしまった。
「まあ、仕方がないよ。みんな色々あるだろうし。薬草売りの時に、買いに来てくれれば、少しは話せるしね」いつもの川原でポトは言った。
「そうだね。少しずつ米の収穫も始まっているし、次の時は、私も来られないかもしれない」イズリは内心、みんなが来ないのはそれぞれの親からポトの家族のことを聞いたからではないかと疑ったが、そんなことは関係ない、農作業のためだと思い直すことにした。
「もう実りの時期か。イズリもここへ来られなかったら、薬草だけ買いに来てくれよ。そうしたら会えるよ。慌ただしい季節が来るね。それに、イズリはテルヤじゃないか。こりゃ、濃い秋になるな」
 テルヤはその年、十四を迎えた里の子らが、正式に里の一員と認められるために行う儀式だ。男は手首に鎖模様の墨を入れる。イズリら女は八日間、小屋の中に閉じ込められる。毎年、幾名かの里人がこの儀式を受けるが、ポトが里を出た以上、今年テルヤに参加するのはイズリだけだろう。
「ねえ、ポト。やっぱり、ポトはテルヤを受けないの」
「受けないさ。本当は墨を入れるの、怖いし嫌だったんだ。ちょうど良かった。それに、俺に似合わないだろ」ポトは自分の拳を突き上げて、手首を見回して笑った。
 ポトはもう里人ではない。そのことが切に感じられて、イズリは一人悲しい気持ちになった。
「修行の方はどうなの。進んでる?」話題を変えたくて、イズリは尋ねた。
「直ぐには進まないってことがわかったよ。師匠みたいになるのに、何年かかるか。まずは、師匠の目を持つ練習からなんだけど……」
「師匠の目を持つ?」
「師匠が見ているものを、同じように見る修行なんだ。でも全然できなくて」
「何それ。面白そう」
「やるは難しだよ。できる気がしないよ」
「私も、やってみたい」
「うーん、毎日修行している俺でも難しいからなあ。あ、でも、魂を浮かすくらいなら、イズリでもできるかも。やってみるかい」
「もちろん」イズリは興奮して答えた。
「師匠には内緒だぜ」
 そういうとポトはイズリを連れて岩場を降り、足を下ろすと川の足首まで水に浸かるくらいの岩に、イズリを座らせ、手を膝の上で組ませた。足から感じる水は思っていたより随分と冷たかった。
「魂を浮かす時に一番大切なことはね、自分を失わないことなんだ」ポトは真剣な面持ちで、しかし、少し得意気に言った。
「足を水につけるのは、ここにイズリ自身を保つためなんだよ。まずは、少しずつイズリを形作ろう。ねえ、今何が見える?」
 イズリは言われるまま、横に立つポトから視線を離し、目の前をぼんやりと眺め見た。
「川……。流れている川が見える。」
「どんな色をしている? 正確に言えるかい」
「深い緑」
「もっと、よく観察して」
「同じ緑だけど、手前より奥の方がより深い色をしている。あと、時々光る。たぶん魚の背鰭の動きだと思う」
「とてもいいよ、その調子。他に何が見える」そう言って、息を弾ませたポトが横からイズリの顔を覗き込んだ。
「ポト。ポトの顔がよく見える」イズリが何となく、そう答えると、ポトは慌ててイズリの視界から消えた。そうして、恥ずかしそうな咳払いが聞こえた。
「そうしたら、今度は目を閉じてみて。何が聞こえる?」
「川のせせらぎ、鳥の声……、鳥はカラカラ。あと森の木が、風に擦られる音」
「いいね。そしたら、今、イズリの体はどうなっている?」
「岩に腰掛けて、足首は水に浸かっている」
「そうしたら、もっとそれを感じられるかい。水の冷たさ、自分の温もり、周りの世界、もっと輪郭を際立たせてごらん」
 輪郭を際立たせるとは、どういうことかよくわからなかったが、イズリはそれなりに自分の身体を感じようと努力してみた。まずは、足を感じてみる。足が水に浸かっているので、これはわかりやすい。冷たいのが足、そう思えば良い。足を感じると、今度は、足で冷やされた血液が身体を巡っていることに気がついた。少し冷えた血が、頭から指の先まで、運ばれている。つまり、この血が流れるところが私の範囲なのだと思った。鼓動の度に、血が動く。私という人間は生きている。
「たぶん、感じられたと思う」イズリは目を瞑ったまま、呟いた。
「よし、いいぞ。イズリ。そしたら、今からイズリの魂を少しだけ浮かすぞ。浮いても、身体の感覚を失わないこと。きちんと帰ってくること。これが、大切だからな」ポトの声が頭の裏に響いた。
「さあ、始めるぞ。まずは、しっかりと息を吐いて」ポトはイズリの耳元で、低く穏やかな声で語りを始めた。それは、眠気を誘うような心地良い響きだった。イズリはぼんやりとその声に耳を傾けた。
「イズリ、今君の身体はソヨタにある。岩に腰掛け、足を水に浸けている。君が今まさに感じている通りだよ。でもね、もう、君の魂は、少しずつ浮かび始めているんだ。今、ちょうど頭のてっぺんに乗っているよ。魂は何にでもなれるが、今日の君は、白く光る玉だよ。とても輝きが強くて、眩しいくらいだ。君の生命の強さだね。そして、ほら、少しずつ高くなっている。昇るよ、昇る。今、君の魂は、君自身を上から見下ろしている。目をそっと開けてご覧。君が真下に見えるから」
 言われた通り、イズリはゆっくりと目を開けた。確かにイズリは眼下にいた。地上から離れて、木登りの木くらいの高さから、イズリはイズリの黒髪を見下ろしていた。
 どうも変な感じだった。私はここにいるが、あそこにもいる。一体どうなっているのだろう。そんなことを考えていると、眼下のポトがイズリの背に手を当てた。
 そして、また耳にポトの声が響いた。
「イズリ、帰っておいで。もう一度目をつぶって。ほら、僕の手が感じられるかい。君の足は水の中にあるよ。冷たいだろ。ほら」ポトの声を聞くうちに、イズリは自分がどこにいたのかを思い出した。そして、ある瞬間、辺りがどっと賑やかになって、手足の感覚が戻ってきた。
 イズリははっと目を見開き、ポトを見た。
 ポトが、これ以上ないというほど目を輝かせ、上気した顔で叫んだ。
「凄いよ。イズリ。君には才能があるよ。一度でできるだなんて」ポトの声を聞いて、イズリもようやく、魂を浮かせた実感がでてきた。
「凄い。私、魂浮かせちゃったよ」座っていただけとは思えないほどの汗が身体から流れ出たが、疲労感を上回る感動があった。
「とても、不思議な感覚。ねえ、もう一回試したい」イズリはポトに懇願した。
「そうだね。そしたら、次はもっと遠くまで飛ばしてみよう。きっとイズリならできるよ」
 ポトは懐から小さな巾着を取り出して、中から赤い実を三粒取り出した。
「これは、ラッグの実だよ。これを噛むと、さっきよりもずっと遠くまで魂を飛ばすことができるんだ」そう言って、ポトはラッグの実の使い方を教えてくれた。ラッグの実は一気に飲み込まずに、口の中で一粒ずつ順に噛んで、少しずつその実を味わうのだそうだ。 
「後はさっきと同じだよ。絶対に自分を見失わないように。まずは、先に自分の身体の輪郭を作る。輪郭ができたら、僕が合図を出すから、そうしたら、一粒ずつ実を噛んでくれ。実の皮は後で吐き出すから、絶対に飲み込まないこと」
 イズリは三粒の実を口に入れ、そのまま薄く目を瞑って、先程と同じように自分の身体の感覚を探った。二回目である分、先ほどよりずっと上手くいき、直ぐに、自分の存在を意識できた。
「そうしたら、一粒ずつ実を噛んで」ポトが耳元で囁いた。
 イズリは奥歯で一粒目を潰した。中から実と思しき苦くて酸っぱい汁が出てきて、口の中にそれが広がった。美味しくはない。あまりの酸味に唾液が口の中に溢れ出て、その苦い汁と混ざり合った。イズリはそれを飲み込んだが、その時についつい、潰した実の皮を飲み込んでしまった。ポトの皮は吐き出すという言葉を思い出したが、今更どうしようもなかった。
「そうしたら、二粒目を噛もう」ややあって、またポトの声がきた。イズリは声に従った。
 小さな変化は、その辺りから起こり始めた。イズリは、まず、皮膚の表面が冷めていくように感じた。そしてその内側に燻る熱を感じた。しかも、それは段々と激しさを増してきて、腹の底で起こった炎が、やがて大きくなり、ついにはその炎の舌先が胸の上の方まで届いたように感じられた。初めはそれが不快だった。決して身悶えするほどの苦しさではなかったが、胃液が上ってくるような感覚もあり、気分が悪かった。しかし、身体の中の熱いものが上へ上へと迫る中で、それがいよいよ顔に辿り着いた時、その不快感がやがて引いていくのを感じた。
 その時の感覚は、朝の二度寝に似ていた。ぼんやりと自分自身を感じながらも、心地良い世界に引き摺り込まれていく、あの感覚。この流れに身を任せてしまえば良い。
 すうっと意識が遠のいて、イズリは夢を見た。そう思った。
 夢の中で、イズリは森の上にいた。随分と高いところから、黒々と先まで広がる森を見下ろしていた。ふと、風がイズリの頬を撫でた、とイズリは思ったが、イズリに風を受ける頬はなかった。それどころか、手も足も、体もどこにもなく、ただ視点だけがそこにあった。
 イズリはふと、この森を探せば、ポトの家に辿り着けるのではないかと思った。
 イズリは森に近づけないか、色々と試してみた。最初は上手くいかなかったが、頭の中で思い浮かべることができれば、視点は動かせるということが段々とわかってきた。
 イズリは森を見つめ、そこに行くことを想像した。するとぐっと森が近づいてきた。イズリは鳥のように移動できるようになった。
 イズリは高度を下げ、木々の間を縫うように飛び回った。その中でイズリは森に、たくさんの生き物がいることを知った。穴から抜け出た狐、木に住むリス……。山犬の一群を見た時は流石に驚いた。森から聞こえる遠吠えは、本物の山犬だったのだ。動物たちにイズリが見えていたかは、わからない。ただ、どの動物たちもこちらを見たりしなかった。一度、力強く飛ぶ烏を追い越した時に、その烏がこちらを見て目を見開いたような気がしたが、それはただの偶然か気のせいかもしれなかった。
 しかし、どれだけ辺りを探しても、あの夜訪れたはずのナガルの小屋は見つからなかった。
 イズリは諦め、仕方なくまた飛び上がった。森を上へ突き抜けると、急に青空が広がった。美しい。どこまでも澄んだ青い色を見ると心が舞い上がった。もっと先へ行ってみたい。天の、その上を見てみよう。そう思うと、これまでよりずっと速く上昇し、イズリの周りに渦ができた。イズリは、その渦の中心で、流れに乗ろうと意識を集中させた。どんどんと速さが増して上昇してゆく。さあ、行けるところまで行ってみよう。そう考えている時に、ガンッ。
 不意に激しい衝撃が身体を襲い、身体が硬い地面に叩きつけられた。あまりの衝撃にイズリは暫く何も分からなかった。地面に打ちつけられた左半身が痛く、鈍い痺れも感じた。
 その硬い地面が、魂を飛ばす前にイズリが座っていたあの岩だと気がついたのは、少し経ってからだった。
 戻ってきたのだ。それが分かると少しずつ、身体の感覚が増えていった。川に浸かった足が冷たい。身体に触れる岩は少し温かい。川の流れる音がする。人の喚く声がする。
 イズリは薄らと目を開けた。少し離れたところにポトとナガルの背中が見えた。顔は見えずともその背中からナガルの怒りが見てとれた。
 ようやくそこで、イズリははっきりと目を覚ました。
「この馬鹿弟子が。こんなに馬鹿なやつだとは、一度だって思わなかった。信じられないよ。命をなんだと思っているんだい」ナガルの声は、少し離れたイズリのところまでもはっきり聞こえるくらいの大声だった。その一語一語に怒りが滲んでいて、どんな猛者だって怯んでしまいそうな、そんな剣幕だった。
 また、イズリはポトが泣いて謝っていることにも気がついた。なんと言っているか、はっきりとは聞こえなかったが、その動きで大体のことは察することができた。
 イズリは力のまだ入りきらない体で、慌てて立ち上がって、二人の下に駆け寄り、ポトを弁護しようと声をかけた。
「ナガルさん。本当にすみません。ポトは悪くないんです。私がやってみたいと言って。本当にすみません」
 一瞬、ナガルは振り向き、イズリの上から下までを眺め見た。しかし直ぐにそっぽを向いて、冷たく言い放った。
「私は今、馬鹿弟子と話しているんだ。あんたには関係のない話だよ」
 ナガルの奥でポトは平手を地面につけて、縋るように謝っていた。その憐れな様子に、イズリはポトに声をかけようと思ったが、間にナガルが立っていて、近づけなかった。
「本当になんてやつなんだい。お前みないなやつを一度でも弟子に取ったことを後悔しているよ。呪術師が一番してはいけないことはね、命を軽んじることなんだよ。そんな当たり前のことを、お前は守れなかった。そんなやつは、今すぐ破門だよ。破門だ。里にでも戻って、勝手に暮らせばいい。お前は今日から破門だよ」ナガルはそう言い切ると、怒りのまま、ざぶざぶと大股で川を渡り始めた。
 ポトもイズリが声をかけるよりも早く、川へ入り、こちらを振り返ることもなく、ナガルを追いかけて行ってしまった。
―どうか、破門しないでください。捨てないでください―ポトの泣きつく声が、川辺にいるイズリの耳にも届いた。
 そうしてイズリは一人、取り残された。

 その八日ほどあと、ポトはナガルと共に里へ薬草を売りに来た。それで、なんとか破門は免れたらしいということはわかった。ただ、イズリは収穫の仕事が忙しく、すぐに戻らなければならなかったので、いつものように後で、ゆっくりと二人で話す時間は取れそうになかった。
 イズリは、葉で指を切った時などに使う薬草を買いながら、ポトにそのことを伝えた。イズリはナガルのいる前でポトに話しかけることを気まずく思ったが、ナガルは何も思わぬ顔をしていた。
 ポトはイズリの決まりの悪そうな顔を見て小さく苦笑したが、それに関しては何も言わず、次に会うときは、きっとテルヤの後だろうから、頑張っておいでと言っただけだった。
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