第2話 ルルーホ

文字数 3,248文字

 初夏の夜はまだまだ涼しく、歩くのに丁度良かった。しかも今日は雲一つない満月で、二人は月明かりに照らされた川の少し離れたところを、その川の形に沿って歩いた。沢の音が耳に心地良かった。
 しかし二人は川には近づき過ぎないようにした。夜の川には近づくなと言われて育った。夜の川には物の怪が集まってくるので、下手に近づくと、あちらの世界に引っ張られてしまうというのだ。
 ポトは足に怪我があるので、あまり速くは歩けない。踏み固められて草が生えなくなった小道を二人でのんびりと歩いた。
 イズリは時々ポトの様子が気になって、横目で眺め見た。いつものように穏やかな表情をしている彼に、安心もしたし、本当は強がっているのではと心配もした。
 ふと、イズリはポトの背が伸びたことに気がついた。ついこの間までは、私の方が高かったのに。ここ二年ほどは、イズリの方が背が高かった。ところが、冬のあたりから急にポトも伸び始め、今や、目線は同じところにあった。抜かされるのも時間の問題だろう。
 そんなことを考えていると、ある時、急にポトが立ち止まって、イズリの袖を引っ張った。
「イズリ、あれ」ポトが指差した先は川の丁度真上の辺りで、いくつもの緑色の光がちらちらと瞬いていた。
「もしかして、ルルーホ(尻が光る虫の舞)?」イズリが呟くと、ポトは小さく頷いた。
「もう、そんな時期か。どうしよう? 歌う?」
「そうだね、歌おう」
 ルルーホは里の良き死者の魂が、この世に帰ってきた時の姿だと言われている。だから、ルルーホを見た時は、夜でも川に近づいて、感謝の歌を贈らなければならない。
 イズリもポトもそれほど信心深い質ではないが、そうは言ってもそれが習いなら従うし、何よりルルーホは美しかったので、二人は草むらを掻き分け、岩場に手をかけ、川辺に降りて行った。
「うわぁ、きれい」川辺に出てすぐ、思わず感嘆の声が漏れた。無数の柔らかい緑の光が、あちこちで瞬いている。川原の草に、空に、奥の森に、と決して数えることのできないたくさんの光が、ここに集う命の数を表していた。二人は歌うことも忘れて、しばらくその光景を眺めていた。
「歌わなきゃ」少し経ってからイズリは呟いた。ポトも我に返って頷いた。
―ルールールーホールールー……―
 目を薄ら瞑り、二人は各々慣し通りに一息で感謝の歌を歌い切った。
 イズリは目を開き、そっとポトの横顔を見つめた。ポトはぼんやりとした顔で眼前の川の流れを見るともなしに眺めていた。
 ポトは今何を考えているのだろうか。イズリに真実を打ち明けたことは、ポトにとって良いことだったのか。打ち明けて多少でも気が楽になったのなら、それで良い。しかし、余計に辛い思いをさせていたら。しかも、打ち明けてくれても私にできることなど、何もない。
 ポトの歩まねばならない道が険し過ぎて、イズリは切なくなった。
 ふと、ポトが大きく目を見開いた。見開いて、前を向いたまま、イズリの衣の袖を掴み、引っ張った。
「ね、聞こえるよ! 聞こえるだろ」ポトが興奮した声で囁いた。
「何が?」イズリは耳を澄ましたが、川のせせらぎ以外は何も聞こえない。
「そんなはずない。俺にはしっかり届いているもの。ほら、聞こえないのか」
「聞こえないよ」見えない何かに歯を出して笑うポトの様子は明らかにおかしかった。ポトの豹変にイズリの背筋が冷えた。
「ねぇ、何が聞こえるっていうの」イズリはポトの肩を掴んで揺さぶったが、ポトはイズリの方をちらりとも見なかった。
「聞こえる。本当に聞こえるんだ。ほら、まただ。……森が呼んでるんだ!」遂にポトは叫んだ。
「行こう」不意にポトは川の中に足を踏み入れて、そのまま向こう岸に向かって進みはじめた。イズリは慌てて腕を掴んだが、ポトの力は強く、イズリの制止に意味はなかった。イズリは、怖くてたまらず、ポトを追いかけ一緒に川に入った。
 この辺りは深いところでも膝までの水かさしかなく、流れも決して激しくはないので、明るければ恐れるような場所ではない。けれどもこの月明かりしかない夜に、水藻の生えた岩場を、足を滑らせぬように気をつけながら進むのは簡単ではない。足の怪我にも構わず、何の躊躇いもなく目の前の森に向かって進み続けるポトの様子は、明らかに異様だった。
「ポト、ねえ、ポト」イズリは何度もポトを呼んだが、ポトはそれが聞こえているのか、森が呼んでいると繰り返すばかりであった。
 二人はあっという間に川を渡りきった。川を渡りきったところで、イズリはいよいよポトをしっかりと掴んで前に立ち塞がった。
「ポト! しっかりしな」大声で叫ぶと、ポトはようやくイズリに気がついた顔をして、イズリを見つめた。そして、大きく深呼吸して、再び口を開いた。
「イズリ、でも、本当に森が呼んでいるんだ。俺は行かなくちゃ。父さんや母さんも、本当に森に呼ばれただけかもしれない。俺が証明しないで、誰が証明するんだ」そう言って、またイズリを押し除け、目の前の森に向かって進み始めた。
 イズリはもう何も言えなかった。状況から察するに、ポトの家族が持ち逃げをしたのは、おそらく真実だった。けれども、それを信じたくないポトの気持ちも痛いほどわかった。
 イズリは引き留めることもできず、ただただポトの手首を掴んで、その後を追って森に入った。 
しかし、イズリはすぐにポトを止めきれなかったことを後悔した。
 この森は里の外にある。一度入ると出てくることはできないから、決して踏み入れてはいけない。里の子なら必ずそう教えられた森だった。
 森に入ると木々で月明かりが遮られ、さっきより一層闇が深くなった。歩いているところは、草も少なく、どうも誰かに踏み固められたような硬さがあったが、ひょっとするとこれは獣道なのかもしれない。遠くで、山犬の遠吠えが聞こえた。
 イズリは、ポトに戻ろうと何度も声をかけたが、ポトは聞く耳を持たなかった。かといって、ポトを置いて自分だけ戻ることなどできないし、そもそもこの暗闇の中、一人で歩いて帰るなんてことも、とんでとない話だった。
 どれだけの間、そうしてポトに付き従っていただろう。かなり長い間、続いたように思う。そして、不意に少し広い一本道に出て、その先に一軒の小屋があるのを見つけた。その小屋の小さな窓から灯りが漏れていたので、すぐに気がついた。
「ポト、家があるよ! 今日はここで休もう。ねえ、明日また森に入ろう。ねえ、ポト」
 ポトがイズリの話を聞いているようには思えなかった。このままでは、小屋の横を通り過ぎてしまうかもしれない。イズリは、とにかく自分一人ではどうにもできないと思って叫んだ。
「ごめんくださーい、ごめんくださーい。どうぞ一晩泊めてください」小屋まではまだ少し距離があったが、静かな森でイズリの声はよく響いた。
 叫んで間もなく、小屋の中から誰か人が出てくるのが見えた。少しずつ近づいていくにしたがって、その姿がはっきりとわかるようになった。小屋の前にいたのは、小柄で、しかし抜け目のない感じのする、老婆であった。
 イズリは瞬間、この老婆に近寄り難いものを感じた。もし、ここに他の人間がいたら、きっとそちらを頼っただろう。しかし、今頼れるのは、あの老婆だけなのだ。
「ごめんくださーい」イズリは叫び続けた。
 いよいよ、イズリたちは小屋の前に辿り着いた。けれどもやはり、ポトは小屋を無視して通り過ぎようとしていた。
 イズリは必死の眼差しで、老婆に訴えかけた。しかし、老婆はイズリを見もしなかった。代わりに、しわの刻まれた険しい顔で、ポトの怪しげな様子を睨んでいた。
 そして、不意にポトに歩み寄ったかと思うと、その肩を片手で掴み、急に表情を和らげて言った。「今日は、この宿で休みなさい」
 途端にポトは目をとろんとさせて、頷いて老婆に誘われるまま、小屋に入っていった。
「あんたもお入りなさい」老婆はちらりとイズリを振り返って言った。
イズリもそれに従った。
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