第12話(最終話) 水の上を走る

文字数 4,304文字

 艇や備品をトラックに積み込むと、選手たちは数人ずつの班にわかれて大会の開催地へむかった。

 JRの電車が速度を落とす。大きくカーブしたあと長い鉄橋をわたる。鉄橋を渡りきったところで再び緩やかにカーブしながら高架のホームにたどりつく。
 駅を出て、越えてきた河川敷の方角に向かって歩きだす。川の土手が見えてくる頃、鉄の柵に囲まれた小さな古い水門に出くわす。柵に沿って右に曲がると、道は小さな小道とに分かれる。小道に入り建物の間をぬけると、長さ二千四百メートル、幅九十メートルのボートコースが目の前に現れる。
 ボートとカヌーのためだけに造られた長方形のコースは、六つのレーンと一つの回送レーンからなっている。各レーンの間にはブイが打たれていて、まるで大きな競泳用プールのように見える。
 東の端から、スタート地点がある西の端を眺めても、あるはずのスタート施設は霞んでしまって見ることができない。今から数日後、優勝する唯一のクルーのために、その他多くのクルーがスタートラインに並ぶ。寛容と残酷を併せ持ったスタートラインが二千メートル先の霞の中にある。

 荷ほどきをして艇の整備をすませたZ大学クルーは、全国から集まったクルーで賑わうコースにでた。溜池に長年たくわえられた重みのある水にブレードを落とし込む。ブレードがしっかり固定され支点となる。漕手は支点に体重をあずけてオールをひく。コースを艇が真っすぐに進んでいく。コース脇に埋め込まれた百メートルごとの距離表示、五百メートルおきにワイヤーで吊るされているランドマーク、これら整った設備の中を漕ぐうちに、クルーの気分はレースに向けて高まっていく。
 はじめてのコースに興奮気味だったコックスとバウペアの二年生三人も徐々に平常心を取り戻した。三年生四人はしっかりと体調を上げていき、四年生の二人は向かう先をはっきりと思い描いた。

 少ない人数でレース会場に遠征してきているチームは、選手といえど雑用が多く日々忙しい。そんな中、ふと空いた時間に寺岡と三宅はコースのすぐ横にある川まで散歩にでた。
 コースがある公園内は全国から集った艇や選手たちで賑わっている。一度会ったら誰とでも友達になる三宅は知り合いが多く、いつも誰かと挨拶をかわしている。皆、レースを前にして、笑顔の中に精悍(せいかん)さを潜ませていた。
 公園を出て道を隔てた土手までくると、五月らしく青々と緑が広がり、レース前の緊張感から開放される。土手を削ってつくられた立派な階段を登り、頂上から河原へとくだる階段に二人は腰をおろした。目の前に河川敷がひろがる。夕日が川の上流へ落ちていく。三宅が夕日を見ながら口を開く。
「ここもいい景色だねぇ」
「ボート漕げっとこ、みんないいとこだからね」
 風が通り過ぎてゆく。ほのかに磯の香りがする。
「明日は無風がいいなあ」
「明日もやや逆が吹くかな」
「ぎゃくかぁ……」
「たぶん、だけどね」
 河原の先の川をダブルスカルが通り過ぎる。土手に座るふたりのすぐ後ろを歩く二人組や自転車で通り過ぎてゆく人がダブルスカルに気づくことはない。
「ダブルだ」
「よく合ってる」
 マッチ棒の先ほどに見えるふたりの漕手の頭が、等間隔を保ったまま左右に振れている。
「あとはカツ丼を食べれば準備万端」
「あそこは安心のクオリティーだかんね」
 脈絡のない三宅の話しに寺岡はなんなくついていく。
「引退したら、ダブルでどっかのレースにでも出る?」
「いいね」
 三宅は寺岡が答える前に問い直した。
「膝、痛い?」
「大丈夫」
 寺岡は証明するかのように勢いよく立ちあがった。長い影が土手の上にのびた。

 大会がはじまる前日の夜、組合せ抽選が行われる。各種目とも予選の組合せは抽選で決まり、そこから先の組合せはレースの着順とタイムで割り振られていく。Z大学からは、出漕するすべての種目の代表者として緒方が抽選に参加した。
 抽選はレースナンバー順に進んでいった。Z大学から出漕するクルーも次々と相手が決まっていった。
「つづきまして、女子エイトの抽選をおこないます」
 寺岡たちのクルーの抽選がはじまる。
「レースナンバー八十、女子エイト予選A組、一レーン、○○大学。二レーン、○○ローイングクラブ。三レーン、Z大学。四レーン……」
 相手は決まった。
 その後すべての抽選がおわり、スタートに向けて皆は会場をあとにした。

 緒方の目は血走っていた。現地に入って以来、選手たちのサポートに追われ睡眠不足がつづいているうえ、大会がはじまってからは分刻みで業務をこなしている。何よりも、全てのレースが終わるまで一切のミスが許されない緊張感と闘っている。
 レース当日、サポート陣は、誰が、いつ、どこで、何をするのかを明確に管理する。
「女子エイト、共同艇庫前の船台、岸けり十三時、いい?」
「はい、間違いないです」緒方の問に寺岡も思わず敬語になる。
「この自転車、パンクしてます」
 三年生のマネージャー須山が自転車をつきながら緒方のもとにやってきた。
「自転車屋を検索してるんですけど、近くにはなさそうです」
「まじかぁ、てか、今から修理にだしてたら間に合わない。どっかから借りよう」
 話を聞いていた三宅が電話で会話をはじめた。会話を手短に切り上げた三宅は緒方に言った。
「Q大がチャリを貸してくれるって、主務の子にOKもらった」
「サンキュー。須山、Q大に借りにいって、ソッコー!」
 須山が走り出す。
「転ぶなよー」三宅が須山の背中に向かって叫ぶと、その場にいた皆が笑った。選手の誰もが緊張を紛らす機会を求めていた。

 レース前のウォーミングアップを終えたクルーはミーティングを行うために輪になった。漕手たちのネールはブレードカラーで彩られている。男子の我孫子はネールのカラーリングを拒否し、右手の甲にブレードを描いた。左手の甲とひら(・・)には艇の上でやることがびっしりと書き込まれている。
「いつも通り」
「リラックス」
「最初から飛ばしていこう」
 今まで練習してきたことが短い言葉となって飛び交う。言葉が尽きたあと、主将の言葉を皆が待った。
 寺岡の頭の中から過去は消えてなくなっていた。未来も考えていない。空になった頭の中に流れこんでくるものは、完全に一致したクルーがつくりだす夢焦がれた景色だけだった。
「一緒に艇をすすめよう」
 寺岡のひと言を聞いたクルーは艇置き台の上で待つエイトへ向かった。

「女子エイト出まーす」
 緒方が陸にいる部員全員を集める。クルーが船台から蹴り出すと、男子部の主将が船台の上でエールを切った。残りの部員がコースの縁から声援を送る。クルーは西の端にあるスタート地点にむかってゆっくりと漕ぎ出した。

 回送レーンをスタート地点にむかうクルーは、途中何度もレース中のクルーとすれ違う。レース中のクルーと出会ったときは、艇を止めて待機することがルールになっている。周りに脇目もふらず、一心不乱に漕ぐクルーが通り過ぎてゆく。首位をいくクルーとの差が大きく開いてしまっているクルーもある。相手が見えなくなり集中力が途切れ、ますます取り残される。ゴール直後に悶える選手たち。トップのクルー以外には、苦しさに追い打ちをかけて残酷な現実が覆いかぶさる。
 ゴールに向かう艇を見送り、審判が乗るモーターボートの航跡波をかわしたクルーは、ふたたびスタート地点にむかって漕ぎはじめる。

 前の組がスタートするのを待つあいだ、サポートメンバーが岸につけたクルーから不要な荷物を回収する。
「男気見せっぞ!」と三宅が全員に発破をかける。
「アテンション……ゴー!」
 前の組がスタートする。各艇が横並びで漕ぎ去っていく。審判艇がそのあとを追う。航跡波で岸に打ちつけられないよう、待機していたクルーは岸を離れる。波をやり過ごしたあと、クルーは緊張の発散から気の集中へと意識を切りかえる。
 レースナンバーを告げる発艇員の号令がかかる。
「レースナンバー八十、女子エイト、予選A組」
 各艇が割り当てられたコースに集まってくる。同じ組で男子コックスを乗せているのはZ大学だけだった。我孫子はよそのクルーが近づくたびに、相手クルーに向かって大きな声で挨拶をした。自ら先に声をかけることで精神的優位に立とうという考えだった。
 我孫子が危なげなく艇をスタートフィンガーに導く。スタートフィンガーにゆっくりと艇が近づくと、腹ばいで待っているボートホルダーが艇尾をしっかりとつかんだ。
 風はなかった。
 三宅が目の前に座る岩元の背中を平手で叩く。山本が背中に手を回し、すぐ後ろの村上がその手をしっかりと握る。
「ファイブミニッツ」
 分読(ふんよ)みがはじまる。今朝から遅いのか早いのか判らなかった時間の流れが、ここから確実に速まる。
「ピン確認しよう」と寺岡が指示をだす。漕手たちはオールロックに向けて腕を伸ばし、ピンを締めなおす。最後の儀式がおわり、漕手たちのスイッチが入る。
「フォーミニッツ……スリーミニッツ」
 二千メートル先で、緒方がスタート地点を見つめている。胸の前でしっかりと手を組み合わせた緒方の前を風が流れていった。

「ツーミニッツ」
 一レーンから順にクルー名が確認される。
「……三レーン、Z大学……」
 漕手がスタートの姿勢をとる。
「アテンション」
 静が極まる。
「ゴー!」
 緑色のスタートランプが点灯すると同時にすべてが動き出す。水しぶきにまじって、コックスたちのけたたましいクライが舞う。
 漕手が猛烈に高い回転で漕ぎ、艇がきしむ。ストレッチャーボードが飛びかかってくるように勢いよく漕手の胸に帰ってくる。スタートダッシュから徐々にレートを落としていく。セトルダウンを森下はなんなくこなす。無酸素運動の終盤になり、いつものように脳が止まれと指示を出す。漕手たちは幾度となく繰り返してきたように、それを無視する。Z大学を含む三クルーが他のクルーを抑えて横並びで進む。
「バウペア、うしろから煽ってやろう!」
 コックスが三人で打ち合わせておいたクライを入れる。バウペアのふたりは返事の代わりにオールを胸に向けて強く引き上げる。艇はふらつくことなく安定を保つ。山本と村上のオールがしなり、ブレードが勢いよく水を押す。水面に水の泡が咲く。
 五百メートルのランドマークの手前で二レーンのクルーが前に出はじめた。寺岡の視界から相手のコックスが見えなくなる。
「見えてるよ!」と三宅が叫び、相手がまだ横にいることを知らせてストロークペアを鼓舞する。
 寺岡はこれから現れる夢の景色を見逃さないように前を見据えた。クルーの両舷を風が走り抜けた。

(完)
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