第1話 外れ
文字数 2,075文字
歩を止めた水を湛 える川がゆるやかに蛇行しながら伸びていく。土手をかけ下りた風が花をふるわし草をかき分け川にたどりつく。
長漕ぎをしてきたZ大学漕艇部 のエイトがゴールと定めている橋に向かって進んでいた。
風が変えてしまった向きをもとに戻そうとコックスが舵を切る。艇 はバランスを崩し、八本のオールの動きが不ぞろいになる。速度の落ちた艇が橋にさしかかる手前で、コックスの我孫子 がクライを入れる。
「ラスト十本いきます」
すぐさま主将の寺岡が叫ぶ。
「つづけよう」
我孫子が慌てて「つづけまーす」と言いなおす。その直後に漕手たちの動きが揃い、両舷 にぐらついていた艇が水平を保つようになった。
「このままキャッチから一気にもっていこう、さあ、いこう」
我孫子が機に乗じてクルーを勢いづかすと艇速がさらに上がった。八本のオールが同時にしなり、オール先端のブレードが揃って水中から顔を出す。すべての音が一つに近づく。クルーはそのまま漕ぎつづけ、橋のはるか先でようやく艇をとめた。
艇庫 にもどったクルーは輪になってミーティングを行う。いつもと代わり映えしない意見が出そろったあと、最後に寺岡が言った。
「あんな漕ぎじゃ終われない」
黙り込む八人にかまうことなく、寺岡は川で汚れたエイトを洗うためクルーの輪から離れた。
練習から上がったクルーが艇庫の二階にある食堂に次々と集まる。一年生を除くほとんどの部員が合宿生活を送っているZ大学の漕艇部では、日曜日の練習が終わったあとに全体ミーティングを行うことになっている。
「水曜の朝、艇庫のシャッターが開けっ放しだったので最後にあがる人は必ず締めるように」
何度も繰り返されるミスが指摘される。
「以上、解散」
「ご苦労さまでした」
解散の号令がかかると全員の挨拶が食堂に響き渡る。あるものは大きく伸びをし、あるものは絶叫し、あるものは一目散に部屋へ戻って外出するための身支度にとりかかる。日曜午後の練習を終えた部員たちは翌日夜の門限まで自由になる。
部屋にもどった寺岡は監督に送る週報をつくるためノートパソコンを開いた。モニターを見つめながら火曜から日曜までを振り返る。取り立てて報告するようなことを寺岡は思いつかなかった。
エイトクルーは四年生がふたり、三年生が四人、二年生が三人の九人で構成されている。最上級生がふたりしか乗っていないこともあり、二年生が三人も乗っている。部員全員が大学に入学してからローイング競技をはじめるZ大学では、進級したての二年生を戦力としないのが常だった。
卒業生たちが「今シーズンは外 れ年」と陰で言っていることを寺岡は知っていた。卒業生の集まりに顔を出すたび、エイトクルーを解体して小艇 に組み直すよう勧められていた。助言を無視して、なんとなく押し切ったかたちのままになっていた。エイトで好タイムを出そうと、もがいてはいるものの春になっても結果は出ていない。大会まで二ヶ月を切っている。大会までにクルーが大きく成長する確信が寺岡にはない。ローイングのように持久力が必要な競技は鍛えれば着実に能力が向上するが、短期間では大きな変化がないことをわかっていた。
寺岡はこの一週間に行った練習メニューと次週に行う予定の練習メニューを箇条書きにして監督に送った。
艇庫では我孫子がエイトの整備をしていた。コックスシート周辺だけでなく漕手のコックピットにも手をかける。気になるところは分解までして磨き上げる。ネジをゆるめ、外した部品をウェスで磨き、部品との結合部にたまった汚れを拭き取る。四月初旬、コンクリート床の艇庫は底冷えする。我孫子はかじかむ手で注意深く作業をしていく。
夕飯を外で食べるために宿舎から降りてきた寺岡が我孫子に声をかけた。
「日曜の夜なのにご苦労さま」
「月曜は一日授業なんです」
手を動かしたまま上級生に応える無礼を詫びるかわりに我孫子は笑顔を返した。その笑顔はあどけない。
艇の舵取り役のコックスは、水の上だけでなく陸の上でもクルーに対して指示を出さなければならない。漕手はコックスの指示がなくては動けない。それゆえにコックスには威厳が必要になる。
我孫子は昨年の秋まで漕手だった。それをコックスに転向させたのは寺岡だった。通常、二年生の秋に行われる新人戦まで、漕手かコックスかの選択は本人の意思が尊重される。それをエイトのコックスがいないばかりに、一年生の秋にもかかわらず転向をお願いしたのだった。漕手の経験とコックスの経験がそれぞれ半年ほどしかない我孫子は、何の武器も持たないまま漕手たちと向き合わされている。
ほぼ毎週、我孫子が艇を整備していることを寺岡は知っていた。おそらく他の漕手たちも気づいている。
「言ってくれれば練習の後に漕手も手伝うよ」
「大丈夫です。こういうの好きなんです」
我孫子は笑顔を絶やさない。その笑顔が、上級生に指示を出せない不甲斐なさをごまかすものなのか、漕手に戻りたい気持ちを抑えるための術なのか、それとも思わぬ自己を見つけた喜びなのか、寺岡にはわからなかった。
長漕ぎをしてきたZ大学
風が変えてしまった向きをもとに戻そうとコックスが舵を切る。
「ラスト十本いきます」
すぐさま主将の寺岡が叫ぶ。
「つづけよう」
我孫子が慌てて「つづけまーす」と言いなおす。その直後に漕手たちの動きが揃い、
「このままキャッチから一気にもっていこう、さあ、いこう」
我孫子が機に乗じてクルーを勢いづかすと艇速がさらに上がった。八本のオールが同時にしなり、オール先端のブレードが揃って水中から顔を出す。すべての音が一つに近づく。クルーはそのまま漕ぎつづけ、橋のはるか先でようやく艇をとめた。
「あんな漕ぎじゃ終われない」
黙り込む八人にかまうことなく、寺岡は川で汚れたエイトを洗うためクルーの輪から離れた。
練習から上がったクルーが艇庫の二階にある食堂に次々と集まる。一年生を除くほとんどの部員が合宿生活を送っているZ大学の漕艇部では、日曜日の練習が終わったあとに全体ミーティングを行うことになっている。
「水曜の朝、艇庫のシャッターが開けっ放しだったので最後にあがる人は必ず締めるように」
何度も繰り返されるミスが指摘される。
「以上、解散」
「ご苦労さまでした」
解散の号令がかかると全員の挨拶が食堂に響き渡る。あるものは大きく伸びをし、あるものは絶叫し、あるものは一目散に部屋へ戻って外出するための身支度にとりかかる。日曜午後の練習を終えた部員たちは翌日夜の門限まで自由になる。
部屋にもどった寺岡は監督に送る週報をつくるためノートパソコンを開いた。モニターを見つめながら火曜から日曜までを振り返る。取り立てて報告するようなことを寺岡は思いつかなかった。
エイトクルーは四年生がふたり、三年生が四人、二年生が三人の九人で構成されている。最上級生がふたりしか乗っていないこともあり、二年生が三人も乗っている。部員全員が大学に入学してからローイング競技をはじめるZ大学では、進級したての二年生を戦力としないのが常だった。
卒業生たちが「今シーズンは
寺岡はこの一週間に行った練習メニューと次週に行う予定の練習メニューを箇条書きにして監督に送った。
艇庫では我孫子がエイトの整備をしていた。コックスシート周辺だけでなく漕手のコックピットにも手をかける。気になるところは分解までして磨き上げる。ネジをゆるめ、外した部品をウェスで磨き、部品との結合部にたまった汚れを拭き取る。四月初旬、コンクリート床の艇庫は底冷えする。我孫子はかじかむ手で注意深く作業をしていく。
夕飯を外で食べるために宿舎から降りてきた寺岡が我孫子に声をかけた。
「日曜の夜なのにご苦労さま」
「月曜は一日授業なんです」
手を動かしたまま上級生に応える無礼を詫びるかわりに我孫子は笑顔を返した。その笑顔はあどけない。
艇の舵取り役のコックスは、水の上だけでなく陸の上でもクルーに対して指示を出さなければならない。漕手はコックスの指示がなくては動けない。それゆえにコックスには威厳が必要になる。
我孫子は昨年の秋まで漕手だった。それをコックスに転向させたのは寺岡だった。通常、二年生の秋に行われる新人戦まで、漕手かコックスかの選択は本人の意思が尊重される。それをエイトのコックスがいないばかりに、一年生の秋にもかかわらず転向をお願いしたのだった。漕手の経験とコックスの経験がそれぞれ半年ほどしかない我孫子は、何の武器も持たないまま漕手たちと向き合わされている。
ほぼ毎週、我孫子が艇を整備していることを寺岡は知っていた。おそらく他の漕手たちも気づいている。
「言ってくれれば練習の後に漕手も手伝うよ」
「大丈夫です。こういうの好きなんです」
我孫子は笑顔を絶やさない。その笑顔が、上級生に指示を出せない不甲斐なさをごまかすものなのか、漕手に戻りたい気持ちを抑えるための術なのか、それとも思わぬ自己を見つけた喜びなのか、寺岡にはわからなかった。
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