第5話 開放

文字数 1,322文字

 漕手はレートを守って漕ぎつづけなければならない。渾身の力でオールを引く。休むまもなく次の漕ぎの準備にはいる。準備がととのったらふたたびオールを引く。このサイクルは一瞬たりとも止まることなくつづけられ、その周期は決められた速度で行われる。どんなに苦しくても一切妥協は許されない。目の前が霞んでも、筋肉が千切れそうになっても、漕手が止まることはない。

 オールを引くたびに目の前の景色は去ってゆく。次の景色を見るためにストロークはブレードを水中に落とし込む。意志が針となって感覚に刻まれた目盛りの一点を指す。身体は目盛りの数値を速度に変える。
 レートは高くても低くてもいけない。妥協はもちろん気負いも許されない。流れる景色の量や肌に感じる風の強さを意識にそそぎ込み、身体を適正に動かし、望み通りの表現をする。
 息苦しさが身体を抑えつけてくる。筋肉痛が心を引っ張る。ストロークは邪魔するものを振り払ってレートを守り通す。
 誰かが急ぎすぎたり遅れたりする。そのたびにシートレールが思うようにスライドしなくなる。艇が傾く。傾いた分だけブレードと水面の距離が変わり、入水までの時間も変わる。流れていた景色がコマ送りになる。風や水の音にかわって、オールロックやシートレールの衝突音が聞こえてくる。感覚が失われ、目標が見えなくなる。それでもストロークはレートを守り抜く。一ミリ、〇・〇一秒を感じながら漕ぎつづける。

 クルーミーティングの開始を待つ輪の中に森下の姿がない。同期が中心になって探しまわり、艇庫の陰でしゃがみこんでいる森下をみつけた。心配して三宅も森下のもとに向かう。しばらくして戻ってきた三宅が寺岡に言った。
「レートが出なかったのが悔しいらしい」
 この日の乗艇では指定レートを下回ることが多かった。いったん落ちたレートがズルズルと長引き、もとに戻すまでに時間がかかった。最も艇尾よりのポジションであるストロークに座る森下は誰の背中も見ることなく、自身の感覚のみでレートを表現する。だからといってレートの番人役を森下がひとりで背負う必要はない。
 真似る動作には誤差がうまれる。同じ動きが求められるローイングでは、仲間を真似るのではなく仲間と同化しなくてはならない。それは、ストロークの後ろを漕ぐ漕手もリズムを作ることが可能だということだ。
 自己表現と他者との協調の両方を漕手は叶えなくてはならない。
 森下が誰かに話しかけることはまずない。部屋ではひとりで音楽を聞くか端末をいじっている。食事のとき、食器から目をそらすことはない。台ふきを手元において、食べ終わるとテーブルをきれいに拭いてから食器をさげる。話しかけられても訊かれたことに答えるだけで話しを切る。ひとりで泣くことはあっても一緒に笑うことがない。漕いでいるときは、苦しいときでも上体を前に傾け、しっかり腕をのばしてブレードを水中へ落としこむ。骨盤をたてたまま胸を張り、凛としてオールを引ききる。誰かの動きがずれたとしても自身の漕ぎに集中する。自身の漕ぎのみと向き合う。
 レートを守り抜くことが森下の唯一の自己表現だった。他者に求めることなく自己を追求する森下の唯一の開放がレートなのである。
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