第4話 立ち位置

文字数 3,166文字

 向こう岸の土手を走る自転車が止まって見える。視界におさまりきらない河川敷がすべてのものを吸い込み、土手を隔てて広がる街並みの息吹はすべてのものを包み込む。Z大学の部員たちが、それぞれの思いを抱いてどこまでもつづく土手の上を走る。

「二年生に負けたら(かみ)まで一往復な」
 ジョギングを終えて艇庫でストレッチングをしている最中に、三宅が岩元に言った。
 このあと行われるローイングエルゴのトレーニングで、不甲斐ない結果をだしたら罰として一つ上流の橋までランニングをしようというのである。走る距離はおよそ六キロになる。
「マジですか、エルゴのあと走るのはキツイー」
「負けなきゃいいんだよ」と三宅は自身に言い聞かせた。

 選手たちがウォーミングアップを終えると、鉄製の角パイプに風車がついているだけのシンプルなつくりをしたエルゴが、横一列に四台並べられた。
 鉄製の角パイプの上に乗ったシートに座り、風車とチェーンでつながったハンドルを引くと、風車が回転して運動量がモニターに表示される。エルゴを引けば、ボートを漕ぐ能力が数値としてあらわれる。同じ規格のエルゴを使えば、数値による漕手の比較ができる。ローイングエルゴは体力の向上に使われるだけでなく、漕手の選定にも使われる。エルゴは、漕手が将来目指すところへ導いてくれると同時に、漕手が今どこにいるのかを知らしめる。

 この日のメニューはエルゴ十分漕(じゅっぷんそう)だった。実際のレースよりも長い時間を漕ぐことで、レースへの恐怖と、レースに向けて行われる追い込み練習への恐怖を取り除くことが目的である。もちろん、エルゴを引いて得た数値は漕手の評価に使われる。
 バウフォアと呼ばれるエイトの艇首よりのポジション四人が最初にエルゴを引く。一番右のエルゴから順にバウの長瀬、二番シートの岡崎、三番シートの三宅、四番シートの岩元が座った。
 コックスがスタートのクライを入れる。四人が一斉に漕ぎ出す。風車が回り、ブォーンという音が艇庫内に鳴りひびく。
 三年生の岩元がリズムをつくる。四年生の三宅がきっちりとそれを引き継ぎ、二年生の岡崎、長瀬が必死についていく。岩元と三宅はバウペアのふたりより大きな風の音をだしつづける。
 あとさき考えているようではボートは漕げない。つねに全力で漕ぐ。ゴールの手前で力が尽きるなら、ゴールまで尽きない体力をつける。その教えをバウペアに叩き込むように、岩元と三宅は猛烈な勢いでエルゴの風車を回した。
 三分を過ぎたあたりから岩元のペースが不安定になりだした。レートが指定より下がる。
「上げろ」と三宅が指示をだす。
「ウェイ」岩元が唸り声のまじった返事をする。すぐさまレートが上がる。バウペアのふたりも、つらそうな表情をしながら必死にくらいついていく。バウペアのふたりは上級生たちと上体の動きが揃っていないものの、脚を張る速さには目を見張るものがある。
 バウペアの長瀬と岡崎は常に一緒にいるせいで、上級生たちから「双子」とからかわれている。ともに高校時代にバスケットボールをやっていたことで馬があったのか入部当初から仲がよかった。ふたりは初めてエルゴを引いたときから高い数値を叩き出した。短い時間だけエルゴを引くのであれば、一部の上級生より優れていたし、一年生の夏をすぎた頃には長い時間にも耐えられるようになっていた。
 長瀬と岡崎の出す風車の音が岩元を刺激する。スタートしてから五分を超え、岩元の漕ぎが安定しはじめる。
 後半になって自力に勝る三宅と岩元が効率よく風車を回す。着ているローイングスーツが汗で濡れていく。汗はスーツからあふれ出し、エルゴの角パイプにしたたり落ちる。濡れた角パイプの上をシートがいったりきたりする。
 長瀬と岡崎はバネのような筋肉をいかし、折りたたんだ脚を一気に伸ばしきる。ふたりは一本たりとも気を抜かない。
 横一列に並んだ四人が前後に動きつづける。岩元と三宅の身体がほぼ重なって見えるのに対し、長瀬と岡崎の上半身は明らかにずれている。それでも下半身が生み出す力でエルゴの風車は勢いよく回りつづける。
 全員の身体から湯気がたつ。
 ラスト三十秒になったところでコックスがスパートのクライを入れる。レートの指定が解除され、各自が残りの力を振り絞ってエルゴを引く。三宅が他の三人を引っ張る。
「ついてこいよ!」
 他の三人が唸り声を返す。四人はなりふり構わず漕いだ。
 モニターにセットしていた時間が終わる。岩元が大の字になって床に倒れ、天井に向かって唸り声を上げる。高速で深呼吸をする岩元の胸が膨れたりしぼんだりを繰り返す。
 三宅が艇庫の外をうろうろと歩きながら吠えた。長瀬と岡崎も床に仰向けで倒れ、大きく息を吸っては吐いてを繰り返す。苦しさでじっとしていられないふたりは寝返りをうつように、のたうち回った。
 ウェイトトレーニングをしていた部員たちがエルゴの周りに集まってモニターを覗きこむ。バウペアのふたりのモニターを見て、エイトのメンバーから外れている三年生の表情が引き締まった。
 息を落ち着かせた三宅がエルゴのもとに戻ってきて四台のモニターを見て回った。
「残念、ランニングは無しだ」
「イエーイ」
 岩元が大の字に寝たまま喜びの声をあげた。
 結果は数値の高い方から三宅、岩元、長瀬、岡崎の順だった。長瀬と岡崎はほぼ同じ数値だった。
「しっかし双子だな。ラップまでほとんど同じ」と三宅が笑いながら言った。

 次にエイトのストロークフォアが準備にはいった。右のエルゴから順に五番シートの村上、六番シートの山本、七番シートの寺岡、ストロークの森下が座った。四人がエルゴのモニターについている計測装置をセットする。我孫子が四人のそばに近づきスタートのクライを入れる。
「アテンション、ゴー!」
 ストロークフォアのエルゴがはじまった。エイトでストーロークを任されている森下がリズムをきざむ。七番シートの寺岡が森下の漕ぎをきっちり再現する。山本と村上が最初から猛烈な勢いで風車を回す。
 ローイングエルゴは風や波、艇のバランス、更に他のメンバーの漕ぎの影響などを一切うけない。その状況で森下が、まるでエルゴに標準で備えつけられたペースメーカーのようにレートを一定に保つ。寺岡もそれを引き継いだ。山本と村上は漕ぎに多少の癖をだしつつも力強く風車を回す。エルゴの支持脚が床とこすれて軋む。
 山本と村上の脚の張りはバウペアのふたりとは違って、速いというより重い。巨大な梵鐘(ぼんしょう)をつく撞木(しゅもく)のように、ふたりの両脚はゆったりと動いているように見えて、力強くストレッチャーボードを押す。鐘の音が街中に響くように、山本と村上が回す風車の音が艇庫中に鳴り響く。
 中盤の五分、コックスがクライを入れる。
「ここから落ちないように」
 言われるまでもなく森下はペースを崩さない。山本と村上は脚の張りを一段と強くする。風車がうなりをあげる。ウェイトをやっている部員が二人の迫力に惹かれ、思わず手を止めて目を向ける。
 後半になっても四人はペースを変えずにエルゴを引き続ける。
 ラストスパートがはいる。森下がレートを上げる。他の三人がついていく。山本、村上が上体を前後に激しくスイングさせる。
 十分が経ち、エルゴを引き終えた四人がドサッと床に倒れ込む。エルゴのモニターの周りに人が集まる。山本と村上の数値を見た部員たちが一様に苦笑いをするほどふたりの数値は高かった。
 エイトクルーの結果は数値の高い順に村上、山本、三宅、岩元、寺岡、森下、長瀬、岡崎となった。バウペアの長瀬と岡崎は今回もエイトメンバー以外には負けない数値を叩き出した。
 エルゴを引き終え、のたうち回って脈を整えたあと、部員たちはモニターに表示された自身の立ち位置を目に焼きつけた。
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