第8話 先(さき)

文字数 827文字

 日曜の夜、駅へ向かう途中の寺岡は前を歩く新入部員に気づいた。一泊だけの体験合宿を終えて帰宅するその新入部員は、大きなバックパックを背負い、更に大きなスポーツバッグまでかかえて歩いていた。
 新入部員に追いついた寺岡は「合宿どうだった?」と尋ねた。
「楽しかったです」と新入部員は即答した。
 駅のホームで電車を待つふたりに風が吹きつける。夜の風はまだ冷たい。新入部員は風を気にもとめず微笑んだまま立っている。やってきた電車には、あいにく空席がなかった。ふたりはつり革につかまって窓の外を見ながら電車に揺られた。電車が鉄橋をわたる。ふたりは練習水域を見下ろした。
「あんなに曲がってたのかぁ」
 新入部員が蛇行する川を見ながらつぶやく。川が黒い帯のようにはるか遠くまで伸びている。
「あの橋まで漕ぎました。めっちゃ遠かったです。上級生はもっと先までいくんですよね」
「あれより二つ先の橋まで行くね」
「ふたつも! すごいなぁ」
「すぐに漕げるようになるよ」そしてもっと先まで行きたくなる。
 そう思えるようになるため、今はローイングを楽しんでいればいい時期だ。たくさん楽しんでローイングを好きになる時期だ。二年生の秋になり、新人戦を終えたら自然と目の色が変わる。
 十分に楽しむ前の二年生三人を、メインクルーにのせてしまったことを寺岡は申し訳なく思う。そして、ようやく向かうところが見えはじめたときに、艇を降りてくれた緒方をおもんぱかる。
 新入部員は寺岡を昔から知っている人のように話しかけてくる。寺岡は目の前の新入部員のことをほとんどわかっていなかった。クルーのことで手一杯になり、新入部員のことまで気が回っていないことを反省した。同時に新入部員の適応の早さに驚きに似た感心を抱いた。
 新入部員たちも近いうちに今シーズンが外れ年と知るのだろうか。もしかすると既にそう思っているのか。
 乗換駅で降りたふたりは別の方向へ向かった。新入部員は大きな荷物を抱えて揚々と歩いていった。
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