第2話 権利
文字数 2,159文字
ウォーミングアップを終えた漕手たちがアームに乗せられたエイトの脇につく。
「手をかけて、上げよう、イチ、ニ、サン」
コックスのクライで漕手たちがエイトをアームから少しだけ浮かす。一瞬にして九十キロの重みを失ったアームが、エイトとの別れを惜しむような悲しげな音を出す。長さ十七メートルの巨体のいかなる箇所にも物が触れないよう、漕手たちは慎重にエイトを通路までずらす。
「肩いきます。肩いこう、イチ、ニ、サン」
漕手たちはエイトを肩に担いで、重たい空気に向かって歩きだす。エイトを揺らさないように、脚をそろえて行進する漕手たちの長靴の足音が、まだ眠っている街に響く。
コックスの先導のもと、エイトを担いだ漕手たちは道路をわたり土手を越える。脚にからむ雑草を気にもとめず河原をよこぎり、川辺についた漕手たちはコックスのクライを待つ。
「オール置こう」漕手たちが手に持ったオールを静かに地面に置く。
「ピンはずそう」オールを通すオールロックのピンをはずす。
これら細かなクライの積み重ねがコックスの威厳を育てていく。
「差して返します。差そうイチ、ニ、サン。返そうイチ、ニ、サン」
腹を天に向けていた艇は、そのまま天へと差し上げられたあと、本来の姿に天地を返される。
「しっかり一歩入って、静かに置こう」
桟橋があるわけでもない艇出し場で、艇の腹が川底にすらないよう、岸から少し離れた水にエイトが浮かべられる。水に触れる瞬間「パシュッ」と軽い音をだし、エイトが川にたゆたう。
漕手はオールをオールロックに通し、ピンをしっかりと締める。両舷のオールが張り出されたところでコックスがクライをいれる。
「一歩入って、足掛けて、蹴ろうイチ、ニ、サン」
クルーが岸を蹴ると、エイトはズズッという音を出して岸から離れる。音に驚いた魚たちが朝日に向かって飛び上がる。
漕ぎはじめた漕手をすぐに苦しさが襲う。漕ぐのをやめろと脳が言う。漕手はそれを無視して漕ぎつづける。苦しさはいつまでも漕手に居座りつづける。
次の一本を漕ぐことは義務ではない。
百本目の漕ぎは九十九本漕いだあとにやってくる。千本漕いだときの景色は九百九十九本漕いだ後にしか現れない。六十分漕いだときの疲労は五十九分漕いだ後にしか感じることができない。
次の一本を漕ぐことは義務ではなく新たな体験を得る権利だ。みすみす権利を手放す必要はない。今より先にいきたいのなら、やめろという言葉を無視するしかない。
乗艇練習を終えたクルーが、てきぱきと道具を片付ける。一限の授業がある部員は急いで宿舎にあがって登校の支度にとりかかる。残りの部員には補強トレーニングが待っている。
「午後のエルゴまでにウェイト五種目は各自でやっておくように」
寺岡はそう言ったあと、ウェイトトレーニングにとりかかった。
「火曜からエルゴって、だれかリーダーのやる気スイッチ切れや」
寺岡と同期の三宅が三年生の岩元に冗談を言った。
「どこにあるんですかね、スイッチ」
「知らんわ」
「やっぱ、乳首とかですかね」
「おもしれー。そのスイッチ切ってこい」
「無理ですよ、冗談です、冗談ですって」
近くにいる他の部員が、ふたりの会話を聞いて笑っている。疲労をごまかそうと、皆つとめて明るくふるまっている。寺岡は独り黙々とバーにウェイトを取り付けていた。
ある日曜日、午後の練習に備えて仮眠をとろうとしていた寺岡のところに卒業生が訪ねてきた。
呼び出された食堂に寺岡が入ると、年配の卒業生ふたりが待っていた。
「ご苦労さま。エイトを組んでるんだって? たいしたタイムも出てないっていうじゃない」
矢継ぎ早に話しかけてくる卒業生に返事をするまもなく、寺岡は黙って立っていた。
「コックスとバウペアが二年生だって?」
「えぇ、コックスとバウペアが二年生? そんなんで大丈夫なの?」
もうひとりが大げさな口調で話しに加わった。このとき、寺岡はふたりと対話することが無駄なことだと悟った。
「エイトは解体して小艇にしなさい。恥をさらすだけだ」
黙っていた寺岡が口を開いた。
「監督はなんて言ってるんですか?」
「監督にはこっちから言っとく」
「まだなら監督と話します。監督から連絡を差し上げるということでよろしいですね。午後のモーションがあるので失礼します」
ふたりの顔は紅潮していた。寺岡はかまわず食堂から出ていった。
全体ミーティングが始まる前にマネージャー部屋をおとずれた寺岡は、事務をしていた同期の緒方に、この日やってきたふたりのことをたずねた。緒方は選手とともに合宿生活をおくり、他のマネージャーたちを取りまとめている。選手たちは練習と掃除以外その他すべてを緒方に頼っていた。
「名簿見てみる」
そう言うと緒方は本棚から卒業生名簿を取り出してページをめくった。寺岡の表情から良くないことがおきていることを察した緒方はページをめくりながら「何か言われた?」とたずねた。
寺岡が答える前に名簿からふたりを見つけ出した緒方は、名簿から読みとった情報を声に出した。
「ふたりとも監督よりけっこう上だねぇ。今は何の役もやってないみたい」
寺岡は礼を述べたあと、問われていたことに答えた。
「エイトをやめろって」
「うざいね」
緒方は即座に感想をいうと名簿を棚にもどした。
「手をかけて、上げよう、イチ、ニ、サン」
コックスのクライで漕手たちがエイトをアームから少しだけ浮かす。一瞬にして九十キロの重みを失ったアームが、エイトとの別れを惜しむような悲しげな音を出す。長さ十七メートルの巨体のいかなる箇所にも物が触れないよう、漕手たちは慎重にエイトを通路までずらす。
「肩いきます。肩いこう、イチ、ニ、サン」
漕手たちはエイトを肩に担いで、重たい空気に向かって歩きだす。エイトを揺らさないように、脚をそろえて行進する漕手たちの長靴の足音が、まだ眠っている街に響く。
コックスの先導のもと、エイトを担いだ漕手たちは道路をわたり土手を越える。脚にからむ雑草を気にもとめず河原をよこぎり、川辺についた漕手たちはコックスのクライを待つ。
「オール置こう」漕手たちが手に持ったオールを静かに地面に置く。
「ピンはずそう」オールを通すオールロックのピンをはずす。
これら細かなクライの積み重ねがコックスの威厳を育てていく。
「差して返します。差そうイチ、ニ、サン。返そうイチ、ニ、サン」
腹を天に向けていた艇は、そのまま天へと差し上げられたあと、本来の姿に天地を返される。
「しっかり一歩入って、静かに置こう」
桟橋があるわけでもない艇出し場で、艇の腹が川底にすらないよう、岸から少し離れた水にエイトが浮かべられる。水に触れる瞬間「パシュッ」と軽い音をだし、エイトが川にたゆたう。
漕手はオールをオールロックに通し、ピンをしっかりと締める。両舷のオールが張り出されたところでコックスがクライをいれる。
「一歩入って、足掛けて、蹴ろうイチ、ニ、サン」
クルーが岸を蹴ると、エイトはズズッという音を出して岸から離れる。音に驚いた魚たちが朝日に向かって飛び上がる。
漕ぎはじめた漕手をすぐに苦しさが襲う。漕ぐのをやめろと脳が言う。漕手はそれを無視して漕ぎつづける。苦しさはいつまでも漕手に居座りつづける。
次の一本を漕ぐことは義務ではない。
百本目の漕ぎは九十九本漕いだあとにやってくる。千本漕いだときの景色は九百九十九本漕いだ後にしか現れない。六十分漕いだときの疲労は五十九分漕いだ後にしか感じることができない。
次の一本を漕ぐことは義務ではなく新たな体験を得る権利だ。みすみす権利を手放す必要はない。今より先にいきたいのなら、やめろという言葉を無視するしかない。
乗艇練習を終えたクルーが、てきぱきと道具を片付ける。一限の授業がある部員は急いで宿舎にあがって登校の支度にとりかかる。残りの部員には補強トレーニングが待っている。
「午後のエルゴまでにウェイト五種目は各自でやっておくように」
寺岡はそう言ったあと、ウェイトトレーニングにとりかかった。
「火曜からエルゴって、だれかリーダーのやる気スイッチ切れや」
寺岡と同期の三宅が三年生の岩元に冗談を言った。
「どこにあるんですかね、スイッチ」
「知らんわ」
「やっぱ、乳首とかですかね」
「おもしれー。そのスイッチ切ってこい」
「無理ですよ、冗談です、冗談ですって」
近くにいる他の部員が、ふたりの会話を聞いて笑っている。疲労をごまかそうと、皆つとめて明るくふるまっている。寺岡は独り黙々とバーにウェイトを取り付けていた。
ある日曜日、午後の練習に備えて仮眠をとろうとしていた寺岡のところに卒業生が訪ねてきた。
呼び出された食堂に寺岡が入ると、年配の卒業生ふたりが待っていた。
「ご苦労さま。エイトを組んでるんだって? たいしたタイムも出てないっていうじゃない」
矢継ぎ早に話しかけてくる卒業生に返事をするまもなく、寺岡は黙って立っていた。
「コックスとバウペアが二年生だって?」
「えぇ、コックスとバウペアが二年生? そんなんで大丈夫なの?」
もうひとりが大げさな口調で話しに加わった。このとき、寺岡はふたりと対話することが無駄なことだと悟った。
「エイトは解体して小艇にしなさい。恥をさらすだけだ」
黙っていた寺岡が口を開いた。
「監督はなんて言ってるんですか?」
「監督にはこっちから言っとく」
「まだなら監督と話します。監督から連絡を差し上げるということでよろしいですね。午後のモーションがあるので失礼します」
ふたりの顔は紅潮していた。寺岡はかまわず食堂から出ていった。
全体ミーティングが始まる前にマネージャー部屋をおとずれた寺岡は、事務をしていた同期の緒方に、この日やってきたふたりのことをたずねた。緒方は選手とともに合宿生活をおくり、他のマネージャーたちを取りまとめている。選手たちは練習と掃除以外その他すべてを緒方に頼っていた。
「名簿見てみる」
そう言うと緒方は本棚から卒業生名簿を取り出してページをめくった。寺岡の表情から良くないことがおきていることを察した緒方はページをめくりながら「何か言われた?」とたずねた。
寺岡が答える前に名簿からふたりを見つけ出した緒方は、名簿から読みとった情報を声に出した。
「ふたりとも監督よりけっこう上だねぇ。今は何の役もやってないみたい」
寺岡は礼を述べたあと、問われていたことに答えた。
「エイトをやめろって」
「うざいね」
緒方は即座に感想をいうと名簿を棚にもどした。
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