第3話 向かう

文字数 2,083文字

 四月、新入生を集めてボートの試乗会が開かれる。
「これからこれに乗りまーす」
 上級生がエイトを指差して新入生たちに声をかけた。艇置き台に乗せられたエイトの周りに集まった新入生たちが歓声をあげた。当時新入生だった三宅が上級生のまねをして「これからこのマグロを解体しまーす」と言って周りを笑わせた。皆が笑っている中、寺岡はエイトの船体に見とれていた。速く進むためだけに設計されたエイトの船体には光沢が流れていた。エイトが艇置き台の上でじっとしているのが寺岡には不思議に思えた。

 エイトの両端に上級生が座り、新入生たちは中央の四シートに乗り込んだ。
「よーいロー!」
 コックスのクライでいざ漕ぎ出す。シートがスライドする競技用ボート独特の仕組みに新入生たちは戸惑う。腰が引けてシートをスライドさせることができない者や、シートから尻が落ちてしまう者もいた。皆、自己に夢中で前後にいる仲間のことまで気が回らない。コックスが誰のどこを基準にして声をかければいいのか戸惑うほどに、ばらばらな漕ぎだった。
 やがて前の人に合わせて漕ごうとする者があらわれる。意識は伝搬し、皆が周りを気にするようになる。
「はい、みんなで合わせてー」
 漕ぎがまとまりはじめた。自分で漕ぐのではなく、一緒に動こうと思いはじめたとき、艇速が上がった。水の流れる音が聞こえだす。風が耳をかすめる。景色が流れた。
 寺岡の頭の中に、今まで見たことのない情景が浮かんだ。シートレールが滑らかにスライドする。八つのブレードが同時に動き、入水するときの音がひとつになる。水が粘りオールがしなる。水中から引き上げられた両舷のブレードが、ひと筋となって移動する。景色は線条に流れる光となる。慣性を得た艇は止まることなく水上をすべってゆく。
 寺岡は水の上を走るエイトの中に夢のような世界があることを確信した。
 新入生たちの息の合った漕ぎは長くはつづかず、四本のオールは前後左右ばらばらに動き回った。エイトは乱れた漕ぎを嫌がるように船体をふった。
 試乗を終え、上級生がエイトを担いで艇庫へ帰った。新入生たちはエイトのうしろについて歩いた。皆、はじめての乗艇をふり返り、話がつきなかった。ただ一人会話に加わらない寺岡の頭の中は夢の世界で一杯だった。
 この年、五人の新入生が入部した。そのうち二人は辞めていき、寺岡、三宅、緒方の三人が残った。寺岡と三宅は希望通り漕手になった。そして緒方は二年生のシーズンを終えたところで艇を降りてマネージャーになった。

 風が吹き波が立つ。風は容赦なく艇を突き飛ばす。波が気まぐれに艇を揺さぶる。曲がった方向をもとにもどそうとコックスが舵を切る。艇はさらに不安定になる。
 この日の練習メニューが終わりに近づく。クルーは夢の世界とは程遠いところを彷徨っている。伺いをたてているかのようにコックスが黙り込む。寺岡はコックスに告げる。
「つづけよう」
 クルーは向かうところにたどり着くために、水しぶきを浴びながら漕ぎつづけた。

 ふたりの卒業生が訪れた翌週、漕艇部の監督が合宿所を訪れた。到着するなり艇庫に入った監督は壁に沿って歩きはじめた。壁に取りつけられたラックにぶら下がるオールを一本一本丁寧にながめる。視線をおろし、床に置いてあるものを見つけてはそれに近寄り、それが何なのか確認する。艇庫内を一周したらアームに乗っている艇をながめはじめる。一艇一艇、艇首から艇尾まで観察する。一番下の段のアームに乗っている艇を見るときは両手を床につけ、這いつくばるようにしてコックピットを見上げる。高い段のアームにかかっている艇はアームによじ登って確認する。指で触れ、顔を近づけ、じっくり観察してまわる。観察を終えた監督は宿舎に上がった。

 監督と寺岡のふたりで面談が行われた。食堂のテーブルを拭いていた監督は、布巾を片づけるといきなり切り出した。
「エイトで出たいんだろ」
「出たいです」
「わかった。エイトでいこう」
 監督はエイトの出漕(しゅっそう)を認めたあと、今後、卒業生の意見は監督経由で伝えることを約束した。寺岡にはどうしようもできないことを監督は簡単に片づけてゆく。
「今回のことは幹事のみんなも呆れてたよ。むしろラッキーだったかもしれない。今はエイトを反対しづらい雰囲気になってる」
 卒業生の中には母校のクルーが負けることを恥と受け止める人もいる。どんな種目でもかまわないから上位に入賞して大学にアピールした方が得だと考える人もいる。それでも「やることをやっていれば止める理由はないよ」と監督は言った。監督はやることが何なのかは言わない。最後に唯一指示らしいことを言った。
「艇庫はもっときれいにできると思うよ。思い切って物を捨てないと」
 何か言いたそうな顔をしている寺岡に監督は更に言った。
「必要な物でも捨てた方がいいときがあるから」

 数日後、寺岡に監督からメールが届いた。メールにはエイトのエントリーが正式に認められたことが書かれていた。その他に、例年行われているレースに向けての激励会が、今年は行われないことも書かれていた。
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