第9話 発散

文字数 1,609文字

 力を入れなくても滑るはずのシートレールが引っ張られて重くなる。ブレードが入水するときの音がいくつも聞こえる。オールが重い。ブレードが水からばらばらに飛び出し、艇が揺れる。漕いでもすぐ先に艇が留まる。漕いだ(あかし)の泡の跡が艇の後方に去ることなく、いつまでも横に残っている。八人の漕手が独りで漕いでいる。
 自身の理想ではなくクルーの理想を表現しなくてはならない。
 天を仰いだり首を振ったり、そういう些細なことで人は緊張を紛らす。しかし漕いでいる最中に頭を動かすことは許されない。コックスの指示があるまで決められた動きを止めることはできない。常に目の前に人の背中があり、自身の背中は人に見られている。何一つ自由のない閉鎖空間で体力の限界まで自身を追い込む。嘆き、怒り、不満、願い、あらゆる感情が際限なくふくらむ。

「イージーオール」のクライとともに漕手は漕ぐことをやめ、腕と脚を伸ばしたまま静止する。
 水平に返されたブレードが一筋に並び、翼を広げた鳥が悠々と空を舞うように、艇は水の上を滑りつづける。
「イージー」のクライとともに漕手たちはブレードを水面におろす。漕手につかの間の自由がおとずれる。
 我孫子が「イージーオール」をかける。漕ぎを止めた両舷のオールが上下にふらつき、艇は瞬く間に失速する。バランスが悪く、両舷のオールを空中に保ちつづけることができない。見切りをつけた我孫子が「イージー」のクライを出した。直後、寺岡がブレードで水面を強く叩いた。艇が左右に大きく揺れた。
 艇の上で最も無礼な行為をはたらいた寺岡は、すぐに自身を落ち着かせて言った。
「ごめん、上がったら走るわ」
 練習後に罰として走ることを自ら課し、反省の意を表す。
「チッ」
 六番シートに座る山本が舌打ちをした。寺岡が謝る前であったなら、どうなっていたか分からなかった。寺岡は背中に感じる視線を無視して、コックスに練習メニューをつづけるよう告げた。

 艇庫への帰り道、担がれた艇が揺れ、オールロックがガタガタと大きな音をたてる。
「肩がいてーよ、脚そろえよう」
 耐えかねた三宅が声を上げると艇の揺れは少しだけ収まった。
 乗艇後のミーティングでは誰も言葉を発しない。
「各自、補強」
 寺岡はそれだけ言ってトレーニング場に移動した。残りのメンバーが三々五々あとにつづく。山本と村上は整理体操をして宿舎に引き上げた。
 ウェイトトレーニングを終えた寺岡は、ランニングをするため独りで土手にむかった。

 全体ミーティングのあと、監督に送るメールを打っている寺岡のもとに山本と村上がやってきた。ふたりはエイトメンバーの見直しを要望した。
「バウペアのどっちかひとりだけでも変えた方がいいと思います」
 代わりにシングルスカルを漕いでいる三年生を乗せてほしいと言った。
「あのふたりの方がエルゴが回る。降ろされる立場になったらどう思う?」
「相手がうまいんだったら諦めます」
「うまいって? 何がどれだけ? それにあのふたりはうまくなってる」
 山本が言い返した。
「独りで決めすぎだと思います」
「クルーでも全体でもミーティングで意見は言ってもらってる」
「言いにくいんですよ。寺岡さんは主将に向いてないと思います。うちは三宅さんでもってるってみんな言ってます」
「かもな」と寺岡が答える。
 事態に気づいてかけつけた三宅が部屋の入口で顔をしかめた。そして言った。
「話がずれてきてる。今度少しずつ話そう」
 三宅はふたりに部屋を出ていくよう促した。ふたりが出ていったあと三宅が寺岡に言った。
「わるかった。なんかゴニョゴニョ言ってるのはわかってたんだけど、気づいたらもう来ちゃってて」
「いや、助かったよ」
 寺岡は礼のあと、つづけて言った。
「こっちにきて良かったよ。監督のところに直接行ってたら終わってた」
「だな」と三宅が同意した。
 三宅が部屋を出たあと、寺岡は練習メニューを箇条書きにして監督に送信した。
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