第6話 四散

文字数 1,460文字

 寺岡は目を細めて目の前にある池の全景を見渡した。深緑に覆われた向こう岸の山麓が、なだれこむように池の中に落ち込んでいる。寺岡のすぐ横にある遅咲きの桜が満開に花を咲かせ、足元の土手には菜の花が群生している。風は左から右へと常に吹いていた。
 受付をすませた我孫子が参加賞のボールペンを持ってクルーのもとに走ってきた。
 バウペアとストロークペアの四人にコックスをあわせた五人は、Z大学の艇庫から一時間ほど離れた水域で行われる市民レガッタにきていた。目的は二年生の三人にレース経験を積ませることだった。
 会場の艇置き場には多くの艇が並んでいる。池の大きさの割には立派な船台が波に揺れて浮いている。設備や備品の使い方には会場ごとの流儀がある。水上での航行規則も水域ごとに違う。コックスだけでなく漕手もレース会場に素早くなじむ必要がある。
 寺岡たちは用意された艇を借りてリギングをすますと、さっそく岸を蹴った。スタート地点に向かう回送レーンで身体をほぐし、レースの合間を見てコース内でレースと同じ強度の漕ぎを試す。
 水上には春の風が絶え間なく吹いていた。日の光が波たつ水面に乱反射して、クルーを突くように照らした。
 スタート付近で前の組がスタートするのを待つ。同じ組のクルーも集まってきた。相手は高校生が二クルーと、この日のためにメンバーが集まった急造クルーの三杯だった。
 前の組がスタートし、各クルーが発艇(はってい)位置に着こうとする。我孫子が他の艇と接触しないように辺りを気にする。高校生の艇と近づき、相手コックスが我孫子をにらんだ。
「すみません」と我孫子が申し訳なさそうにわびる。
「今のはうちが謝るほどのことじゃないよ」
 寺岡が客観的な視点で我孫子に助言をした。我孫子は寺岡の助言も上の空で、ひたいに汗をかきながらステークボートまで艇を誘導した。
 ステークボートの上で待っているボートホルダーが艇をつかみ、スタートの準備が整う。各クルーがスタートの合図をまつ間、風で艇の向きが絶えず変わる。バウの長瀬が艇の方向を正そうと小刻みにブレードで水をかく。
「アテンション……ゴー!」
 審判がスタートの旗を振った。速い回転でスタートダッシュをかける。集中を欠いていた長瀬がやや遅れる。その分、艇速が上がらず、オールが重い状態がつづく。高いレートからコンスタントレートへと徐々に漕ぎの回転を落としていく。ここまで順調にクライをいれていた我孫子がコンスタントレートになって黙り込む。エンジン役の山本らミドルフォアが乗っていないこともあり艇速は上がらない。Z大学は出だしで完全に遅れをとった。
 後ろ向きに座って漕ぐローイング競技では先を行く相手を見ることができない。早々に寺岡から相手クルーが見えなくなった。千メートルレースのため挽回する機会がない。遅れを取っているのに我孫子がスパートのクライを入れない。最後の最後でようやくラストスパートのクライが入る。レートを上げるも相手に追いつくことなくレースは終わった。

 午後のレースに進めなかった寺岡たちは早々に帰路についた。帰りの電車の中、レース直後は落ち込んでいた二年生の三人が楽しげに話をしている。森下はぼんやりと窓の外を見ている。寺岡は今しがた行われたレースを思い返していた。レース中、全く揃うことのなかったクルー。シートスライドを妨げる抵抗、独りで漕いでいるかのような水の重さ、艇の揺れに翻弄される上体。寺岡を憂いが襲う。憂いを払いのけるように、寺岡は帰ってから行う練習のメニューを考えはじめた。
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