揺心 #2
文字数 7,082文字
黒い影が揺れている。
自分はそれをじっと見上げていた。誰かが両手で目を覆い、耳元で囁く。
忘れなさい…
忘れなさい…
それは呪文のように、宇佐美の耳に残り、ずっと——今の今まで忘れていた。
でも、最近。
そんな呪文と共に忘れていたはずの光景が、蘇ってくることが多い。
まるで過去から誰かがやってきて、忘れ物を届けに来ているような…ただし、それは決して喜ばしい届け物ではない。
あえて置いてきたものを、わざわざ思い出せと言わんばかりに目の前に置いていく。
これは悪意だ。
それも尋常じゃない悪意。
「——」
宇佐美は鏡に映る自分を見て項垂れた。
成長するのつれ、母が自分を見て不安そうな顔をしていたことを思い出す。
あの人は何故、あんなに悲しそうな顔をしていたんだろう…
だから宇佐美は自分の顔が嫌いだった。
女はこの容姿に惹かれて寄ってきたが、そういう女は大抵、見た目と中身が違うと分かると心で悪態をついて離れていく。
自分の中身を見て好きになってくれた人もいたが…ウサギを残して去ってしまった。
自分なんかと出会わなければ——彼女は幸せになれたはずなのに…
「…」
宇佐美は洗面台の上にある剃刀を手に取った。
無意識に頬に当てる。スッと引くと、右の頬に赤い筋が走った。
チクリとした痛みがあり、血がにじむ。
そのまま、ゆっくりと刃を下ろして首筋にあてがった。
「…」
鏡の中の自分が、「やってみろよ」と挑発するような目で見ている。
さぁ…やってみろ。
お前にできるなら、やってみろ——
「——」
宇佐美は指先に力を入れた。
>~♪
スマホの着信音がした。
「…?!」
宇佐美はハッと我に返ると、手にしていた剃刀を洗面台に放り投げ、急いでスマホを掴んだ。
着信相手は野崎だ。
「…」
言葉にならないため息が漏れる。震える指先で、宇佐美は画面をスライドした。
『宇佐美?』
「…」
すぐに声が出なかった。野崎が心配そうに再度訪ねてくる。
『宇佐美だよな?』
「あぁ…」
やっとのことで声を絞り出す。
『よかった…間違えてかけたかと』
宇佐美は苦笑した。
『直電してごめん。メールを何度か送ってるけど…返信がなかったから——忙しかった?あ…もしかして、取込み中?』
矢継ぎ早に尋ねてくる野崎に、宇佐美は「気づかなかった…ごめん。大丈夫だよ」と囁くように言う。
『そう?なんか…声に張りがないな——』と言った後『あ、いつものことか』と笑った。
その台詞に宇佐美も笑う。
笑いながら、何故だか涙が込み上げてきた。電話口で泣くわけにはいかないと、必死に堪える。
『今日、なにか予定ある?よかったら少し話をしないか?』
「…うん。いいよ」
『なんか、いつも俺の方から誘ってばかりで申し訳ないな』
「そんなこと」
ないよ…と言おうとして言葉に詰まる。
野崎の声に安心したのか、それとも自分が何をしようとしていたのか——そのことに気づいて恐ろしくなったのか…宇佐美は溢れてきた涙を拭うと、「ごめん、折り返し掛け直す」と言って通話を切った。
堪えきれず、宇佐美はスマホを掴んだままその場に蹲ると、激しくむせび泣いた。
涙が頬の傷口に触れ、痛みを感じても。
宇佐美はしばらくその場で泣き続けた。
「…」
野崎は、通話が切れた画面をしばらく見ていた。
そして、手元にある新聞記事のコピーに目を移す。
「これって、ウサギちゃんのことじゃないか?」
そう言って白石が持ってきたものだ。
あの資料室での一件で、恐れをなしたかに見えた白石だったが、意外にも率先して調査に協力する。心の観葉植物の効果は偉大だな…と感じて、野崎は呆れるよりも感心してしまった。
「先生から聞いた8年前って情報とも一致するな」
それは——
川を遡上してその支流にまで範囲を広げながら、管轄外の事件や事故など、気になる事案を調べている中で、目に留まった記事だった。
宇佐美昭子さん(57)
マンションの5階ベランダから転落。自殺とみられる。発見者は同居していた息子(31)。
場所は同じ県内。現場の近くを流れる鳩川は相模川の支流のひとつだ。
そうある苗字ではないし、年齢的にも符合する。
「ウサギちゃんのお母さんも被害者の一人なのか?」
「さぁ…でも、もしそうなら奴も何か言うだろう」
黙っていたのは、言いにくい事だったからだろうか?
野崎の中に、微かな疑惑がよぎる。
まさか、な——
(いや、そんなことはない…)
野崎は首を振る。あいつ自身も被害に遭ってる。一緒にいる時に影を見ているし、調査にだって協力的だ。
あいつが幽霊の正体なわけない———
そんなわけはないとは思うが…
確認せずにはいられない。
野崎はスマホを見る。折り返し掛けると言っていたが、何も音沙汰がない。
「もう一度かけてみろよ」
白石に言われ、掛けてみたが呼び出すだけで応答なし。メッセージにも既読がつかない。
妙な胸騒ぎがした。
そう言えば、電話口の様子もなんだかおかしかったような…
「…」
野崎はスマホを掴むと「俺、ちょっと出るわ。なんかあったら呼んで」と白石に言うと、そのまま刑事課の部屋を飛び出して、駐車場に向かった。
自分の車に乗り込み、神原に電話をする。
「あ、先生、急にすみません。宇佐美の住所、教えて貰えますか?できれば大至急」
教えられた住所をカーナビに入力すると、礼を言いそのまま車を走らせる。
佐々木が自殺を図った河川敷のある公園の前を走り抜け、細い裏通りへ進む。
確かに歩いて来れない距離ではない。
自分の車では、すれ違うのがやっとな程の狭い道を進み、路地の一角にあるアパートの前に横づけした時、ふいにスマホが鳴った。
画面を見る。
宇佐美からだ。
「もしもし?!」
『ごめんなさい。遅くなって…』
「あのなぁ…」
野崎はそう言うと、ほっとした様に息をついた。
「心配させるなよ。何かあったんじゃないかと思って——」
そう言って車窓からアパートを見る。
「今…割と近くにいる」
『え?』
驚く宇佐美に、「窓の外見て」と言った。
2階の角部屋の窓が開いて、宇佐美が顔を見せた。路上に停まっている車の運転席から、野崎が手を振っている。
「なにしてんの?!」
宇佐美は呆れたように言った。
『電話の様子がおかしかったから…なんか——変なこと考えてるんじゃないかと思って』
「———」
宇佐美は、心配げに自分を見る野崎に一瞬泣きそうに顔を歪めたが、すぐに何でもないような顔をして「今そっちに行くから待ってて下さい」と言って奥に消えた。
しばらくすると、スウェットにTシャツというラフな服装の宇佐美が、右手にスマホを持っただけの状態で車に駆け寄ってきた。
「なに来てんだよ。仕事は?」
「ちょっと抜けてきた」
呆れた顔をしてため息をつく宇佐美に、「乗ってよ」と言う。
「戻らなくていいんですか?」
「どうせもうあと2時間ほどで退勤時間だ。ついでだから、少し話そう」
「…」
宇佐美は迷ったが、ここまで来られては逃げ場がないと思い、仕方なく助手席に座った。
野崎は横に座る宇佐美の顔を覗き込んで、頬を指差した。
「どうしたの、ここ?」
貼られた絆創膏はまだ新しい。血もにじんでいる。
「髭剃ってて…切った」
「首も?」
「…」
宇佐美は顔を背けて頷いた。
泣きはらした顔を、あまり見られたくはなかった。でも野崎には気づかれているだろうなと感じる。
刑事の観察眼を侮ってはいないが…勘の鋭さも侮れないと痛感する。
だが野崎はそれ以上なにも聞かず、「そう…」とだけ言って静かに車を走らせた。
車は、以前来た公園の駐車場に入った。
二人は車を降りて、ゆっくりと河川敷の方へ歩く。
日が傾き始めると、辺りには早くも秋の気配が漂い始める。
だが屋外で遊んでいる子供や親子連れは、まだ大勢遊具の周りにいた。そんな人たちを横目に、二人は少し離れた所にある、あずま屋に腰を下ろした。
遠くの山並みが良く見える。ここからは確認できないが、焼身自殺があった現場の規制線はすでに解かれ、辺りはすっかり日常に戻っていた。
騒ぎは一瞬。当事者でない限り、事件現場などそんなものだ…
野崎は、遠くを見ている宇佐美の横顔に目をやった。何を考えているのか——そこから相手の考えている事を読み取ることなど自分にはできない。
だが宇佐美は、今自分が思っていることを読むことが出来るんだろうか?
「———」
野崎は、試しにじっと念を送ってみた。が、宇佐美は無反応だ。
「…」
視線に気づいて、宇佐美が言う。
「なんですか?」
「いや。俺の考えてること…伝わるかな?と思って」
「——」
宇佐美は驚いたような顔をした。
「実はこの間。先生に会って…話をした」
宇佐美は黙っていた。戸惑った表情を浮かべている宇佐美には、あえて気づかぬふりをして野崎は続けた。
「宇佐美は人の心が読めるって聞いたよ。まぁ…なんとなくそんな気はしてたから、それほど驚きはしなかったけど…」
「いつもじゃないよ。いつも聞こえるわけじゃない」
言い訳めいた口調に野崎は言った。
「そうみたいだな。今俺が思ってたこと、気づかなかったみたいだから」
「——」
「聞こえてたら、そんな涼しい顔してない」
「なに言ってたの?」
教えない、と野崎は言った。宇佐美はムッとした様に顔をしかめる。
「お前と会っての感想も聞かれたよ」
「どうせそれも、ろくな事じゃないんだろう?」
「そういうお前はどうなんだよ?どうせろくな事じゃないんだろう?」
「…」
「だったらお互い様だ。第一印象は最悪同士。ある意味、気が合うな」
「だから前にそう言ったろ。相性良いのかもって」
そうだったな…と言って、野崎は笑った。つられて宇佐美も笑う。
二人はしばらく、ぼんやりと遠くの景色を眺めていた。川を渡ってくる風が心地よい。
野崎は、ワイシャツの胸ポケットから新聞記事のコピーを取り出すと、宇佐美の前にそっと差し出した。
宇佐美はそれに目をやる。
「これ。お前のことだろう?」
「…神原さんに聞いたの?」
「8年前に亡くなったってことだけね」
そう——と、宇佐美は頷いた。
「宇佐美のことだよな?」
「そうだよ…」
そう言って切り抜きのコピーを手に取った。
「住んでた場所の近くを川が流れていた。覚えてる?」
「そうだったかな…」
「鳩川も相模川の支流のひとつだ」
宇佐美は黙っていた。
「お母さんも被害者の一人なのか?」
野崎はストレートに聞いた。宇佐美はじっと野崎を見つめた。
いつもの、網膜を通して何かを見るような鋭い視線ではなかった。どこか精彩を欠いた弱い眼差しだ。泣きはらした後の、重い瞼を眠たそうに伏せる。
「野崎さん…」
宇佐美は手にしたコピー用紙に目を落としたまま、囁くように言った。
「俺は過去に一度、ヤツに会ってる」
足元にボールが転がってきた。
アニメのキャラクターが書かれた小さなゴムボールだ。
野崎はそれを拾い上げた。
「すみません」
若い母親が、子供の手を引いて近づいてきた。照れくさそうにはにかむ少年がボールを指差す。
野崎は笑うと、「はい、どうぞ」とボールを手渡した。
親子は礼を言うと、そのまま去っていった。その姿を、優しい眼差しで見つめる野崎に、宇佐美は微笑んだ。
「野崎さん…子供欲しい?」
「…」
野崎はしばらく黙っていた。そして小さく頷く。
「まぁな…でも、こればっかりは授かりものだから」
「…」
「一度…結婚して5年目の時に出来たけど…ダメになって——それっきり」
「そうなんだ…変なこと聞いてごめん」
謝る宇佐美に野崎は笑うと、黙って首を振った。
この重たい空気を引きづったままでは少し躊躇われたが、野崎は思い切って聞いた。
「お母さんが亡くなった時、宇佐美はその場にいたの?」
「…」
今度は宇佐美が黙り込んだ。
相手の言葉尻に、微かな迷いが感じられる。
信じたいけど、信じたくない——野崎の中に見え隠れする疑念が…宇佐美には手に取るように分かった。
「いたよ」
宇佐美は答えた。
「…飛び降りたところを…見た?」
「何が言いたいの?俺が突き落としたとでも?」
「———」
「あぁ…」
宇佐美は、分かった…と言うように笑って頷くと、「俺が幽霊の正体だと思ってる?」と聞き返した。
野崎は黙っていた。否定とも肯定ともとれる長い沈黙が続く。
互いに相手の目を見たまま。どちらかが沈黙に耐えられなくなるまで、見つめ続けるつもりでいたが——宇佐美の方が堪えきれずに目を反らした。
「なんだか尋問されてるみたいだ」
「お前なのか?」
宇佐美は顔をしかめると、少し怒ったように言った。
「違うよ」
「本当に?」
「なんでそう思うの?」
「川を遡って調べていたら、偶然お前の母親の事を見つけた。本当に偶然なのかな…と思って」
「…」
「気づいていたのなら、どうして何も言わなかった?」
宇佐美は苦笑した。
「昔、川の近くに住んでて、母親は自殺してますって?」
「…」
「悪いけど、幽霊は俺じゃないよ」
宇佐美はそう言うと、顔の前で両手を組んで頬杖をついた。
「何も言わなかったのは——半分は忘れていたから。でも…三人であの河川敷に行った時、久しぶりにあの日の事を思い出した」
子供たちが数人、自転車で目の前を横切っていく。楽しそうな声を上げていた。それを見送りながら、宇佐美は続けた。
「母がベランダから飛び降りた時、ヤツはそこにいた」
そう言って、あの日の事をポツリポツリと話した。
野崎はそれを終始黙って聞いていた。
「顔は見えなかったけど、男の後ろ姿だったのは覚えている」
黒く揺れる陽炎のようなその影。宇佐美は見覚えがあるような気がするのに、どうしても思い出すことが出来ない。
「母にもヤツが見えていたんだ。俺にも見えるって知って、悲しそうな顔をしてたけど」
「——」
「見ちゃいけないモノだったのかもしれないな…」
「そいつが、お母さんを突き落としたのか?」
「さぁ分からない…俺はその瞬間を見てないから。薬を取りに行くように頼まれて、一瞬その場を離れた」
宇佐美はそう言うと、泣きそうな顔をして笑った。
「凄く後悔してるよ。どうしてあの時、傍を離れたんだろうって。嫌な胸騒ぎはしたのに。母から目を離しちゃいけないって——」
「宇佐美…」
「薬を取って戻ってきたら、母の姿はなかった」
「…」
「ヤツはベランダの下を覗いていた。何も言わずに…そのまま消えたよ」
野崎は黙ったまま、じっと宇佐美の顔を見ていた。
今の話に、恐らく嘘はないだろう。
そんな気がした。
あまりにも辛い記憶は、時として忘れてしまうことがあるという。心を守るために。脳が防御するのだ。
今回の事がきっかけで、忘れていた記憶が戻りつつあるなら、無理に思い出すことは宇佐美の心を壊すことになりはしないか——
頬と首の絆創膏を見て、野崎は不安に駆られた。
それに。
もし今の話が本当なら、宇佐美の母親も幽霊に殺された——つまり被害者の一人だと感じる。
でも、それだけではない気がする。何故だか分からないが、幽霊と宇佐美はどこかで繋がっているのではないか…そんな気がしてならないのだ。
だが、もしそうだとしたら。
(幽霊の目的は一体なんだ?それに、過去に接触しておきながら、なぜ今頃になって?)
その疑問が頭をもたげる。
野崎は、俯いたまま黙り込む宇佐美に、「分かった」と言った。
「辛い事を聞いたな…それに、疑って悪かった…」
宇佐美は小さく首を振った。
「いいさ別に。疑うのもあなたの仕事だ」
そう言われて野崎は苦笑する。
何となく消化不良な気もするが、今はこれ以上突っ込むのはやめておこう。
そう思い、野崎は言った。
「そろそろ行こう。アパートまで送るよ」
宇佐美は歩いて帰れると言ったが、野崎は「送るから乗って」と聞く耳持たず、強引に宇佐美を助手席に座らせた。
泣いていたのかと問うこともなく、そこには一切触れてこない。道中、野崎はずっと無言だったが、その気遣いが逆に嬉しかった。
アパートの前に着き、宇佐美は礼を言って降りようとした。
すると——
「宇佐美」
ふいに呼び止められて、宇佐美は振り向いた。
野崎はハンドルに手を置いて、前を見つめたまま言った。
「何か俺に、出来ることある?」
「え?」
「まぁ…力になれるかどうかは別にしてだけど」
そう言うと、少し照れたように笑い宇佐美を見た。
「なんか、悩んでるみたいだからさ」
「…」
「お前、なんでも一人で抱え込みそうだから心配だよ」
「——」
宇佐美は黙ったまま俯く。
その仕草から、頑なに閉じた心が見えるようだった——
自分にこの男が救えるかどうかなど分からない。その自信もない。
ただ今は、一人の友人として本気で身を案じているだけだ。
野崎は言った。
「自分で自分の命にケリつけるようなことだけはするなよ。な?」
「——」
その言葉に、宇佐美は思わず顔を背けた。込み上げてくる涙を必死に堪えて飲み込む。
今、野崎の顔を見たら泣いてしまいそうだった。
言葉を発することもできずに顔を背けたまま。ただ頷くことしかできない。
そんな宇佐美の様子に野崎は微笑むと、頬の絆創膏を指で弾いて言った。
「お前も髭剃るんだな」
そう言われて宇佐美は「当たり前だろう…」と泣きそうな声で言い返す。
言葉にしない優しさと、言葉にする優しさ。
詮索するわけでもなく、かといって無関心でもない。
野崎の優しさが宇佐美には痛いほどだった。
俺はこの人を傷つけたくない———
失いたくない。
初めて本気で、宇佐美はそう思った。
自分はそれをじっと見上げていた。誰かが両手で目を覆い、耳元で囁く。
忘れなさい…
忘れなさい…
それは呪文のように、宇佐美の耳に残り、ずっと——今の今まで忘れていた。
でも、最近。
そんな呪文と共に忘れていたはずの光景が、蘇ってくることが多い。
まるで過去から誰かがやってきて、忘れ物を届けに来ているような…ただし、それは決して喜ばしい届け物ではない。
あえて置いてきたものを、わざわざ思い出せと言わんばかりに目の前に置いていく。
これは悪意だ。
それも尋常じゃない悪意。
「——」
宇佐美は鏡に映る自分を見て項垂れた。
成長するのつれ、母が自分を見て不安そうな顔をしていたことを思い出す。
あの人は何故、あんなに悲しそうな顔をしていたんだろう…
だから宇佐美は自分の顔が嫌いだった。
女はこの容姿に惹かれて寄ってきたが、そういう女は大抵、見た目と中身が違うと分かると心で悪態をついて離れていく。
自分の中身を見て好きになってくれた人もいたが…ウサギを残して去ってしまった。
自分なんかと出会わなければ——彼女は幸せになれたはずなのに…
「…」
宇佐美は洗面台の上にある剃刀を手に取った。
無意識に頬に当てる。スッと引くと、右の頬に赤い筋が走った。
チクリとした痛みがあり、血がにじむ。
そのまま、ゆっくりと刃を下ろして首筋にあてがった。
「…」
鏡の中の自分が、「やってみろよ」と挑発するような目で見ている。
さぁ…やってみろ。
お前にできるなら、やってみろ——
「——」
宇佐美は指先に力を入れた。
>~♪
スマホの着信音がした。
「…?!」
宇佐美はハッと我に返ると、手にしていた剃刀を洗面台に放り投げ、急いでスマホを掴んだ。
着信相手は野崎だ。
「…」
言葉にならないため息が漏れる。震える指先で、宇佐美は画面をスライドした。
『宇佐美?』
「…」
すぐに声が出なかった。野崎が心配そうに再度訪ねてくる。
『宇佐美だよな?』
「あぁ…」
やっとのことで声を絞り出す。
『よかった…間違えてかけたかと』
宇佐美は苦笑した。
『直電してごめん。メールを何度か送ってるけど…返信がなかったから——忙しかった?あ…もしかして、取込み中?』
矢継ぎ早に尋ねてくる野崎に、宇佐美は「気づかなかった…ごめん。大丈夫だよ」と囁くように言う。
『そう?なんか…声に張りがないな——』と言った後『あ、いつものことか』と笑った。
その台詞に宇佐美も笑う。
笑いながら、何故だか涙が込み上げてきた。電話口で泣くわけにはいかないと、必死に堪える。
『今日、なにか予定ある?よかったら少し話をしないか?』
「…うん。いいよ」
『なんか、いつも俺の方から誘ってばかりで申し訳ないな』
「そんなこと」
ないよ…と言おうとして言葉に詰まる。
野崎の声に安心したのか、それとも自分が何をしようとしていたのか——そのことに気づいて恐ろしくなったのか…宇佐美は溢れてきた涙を拭うと、「ごめん、折り返し掛け直す」と言って通話を切った。
堪えきれず、宇佐美はスマホを掴んだままその場に蹲ると、激しくむせび泣いた。
涙が頬の傷口に触れ、痛みを感じても。
宇佐美はしばらくその場で泣き続けた。
「…」
野崎は、通話が切れた画面をしばらく見ていた。
そして、手元にある新聞記事のコピーに目を移す。
「これって、ウサギちゃんのことじゃないか?」
そう言って白石が持ってきたものだ。
あの資料室での一件で、恐れをなしたかに見えた白石だったが、意外にも率先して調査に協力する。心の観葉植物の効果は偉大だな…と感じて、野崎は呆れるよりも感心してしまった。
「先生から聞いた8年前って情報とも一致するな」
それは——
川を遡上してその支流にまで範囲を広げながら、管轄外の事件や事故など、気になる事案を調べている中で、目に留まった記事だった。
宇佐美昭子さん(57)
マンションの5階ベランダから転落。自殺とみられる。発見者は同居していた息子(31)。
場所は同じ県内。現場の近くを流れる鳩川は相模川の支流のひとつだ。
そうある苗字ではないし、年齢的にも符合する。
「ウサギちゃんのお母さんも被害者の一人なのか?」
「さぁ…でも、もしそうなら奴も何か言うだろう」
黙っていたのは、言いにくい事だったからだろうか?
野崎の中に、微かな疑惑がよぎる。
まさか、な——
(いや、そんなことはない…)
野崎は首を振る。あいつ自身も被害に遭ってる。一緒にいる時に影を見ているし、調査にだって協力的だ。
あいつが幽霊の正体なわけない———
そんなわけはないとは思うが…
確認せずにはいられない。
野崎はスマホを見る。折り返し掛けると言っていたが、何も音沙汰がない。
「もう一度かけてみろよ」
白石に言われ、掛けてみたが呼び出すだけで応答なし。メッセージにも既読がつかない。
妙な胸騒ぎがした。
そう言えば、電話口の様子もなんだかおかしかったような…
「…」
野崎はスマホを掴むと「俺、ちょっと出るわ。なんかあったら呼んで」と白石に言うと、そのまま刑事課の部屋を飛び出して、駐車場に向かった。
自分の車に乗り込み、神原に電話をする。
「あ、先生、急にすみません。宇佐美の住所、教えて貰えますか?できれば大至急」
教えられた住所をカーナビに入力すると、礼を言いそのまま車を走らせる。
佐々木が自殺を図った河川敷のある公園の前を走り抜け、細い裏通りへ進む。
確かに歩いて来れない距離ではない。
自分の車では、すれ違うのがやっとな程の狭い道を進み、路地の一角にあるアパートの前に横づけした時、ふいにスマホが鳴った。
画面を見る。
宇佐美からだ。
「もしもし?!」
『ごめんなさい。遅くなって…』
「あのなぁ…」
野崎はそう言うと、ほっとした様に息をついた。
「心配させるなよ。何かあったんじゃないかと思って——」
そう言って車窓からアパートを見る。
「今…割と近くにいる」
『え?』
驚く宇佐美に、「窓の外見て」と言った。
2階の角部屋の窓が開いて、宇佐美が顔を見せた。路上に停まっている車の運転席から、野崎が手を振っている。
「なにしてんの?!」
宇佐美は呆れたように言った。
『電話の様子がおかしかったから…なんか——変なこと考えてるんじゃないかと思って』
「———」
宇佐美は、心配げに自分を見る野崎に一瞬泣きそうに顔を歪めたが、すぐに何でもないような顔をして「今そっちに行くから待ってて下さい」と言って奥に消えた。
しばらくすると、スウェットにTシャツというラフな服装の宇佐美が、右手にスマホを持っただけの状態で車に駆け寄ってきた。
「なに来てんだよ。仕事は?」
「ちょっと抜けてきた」
呆れた顔をしてため息をつく宇佐美に、「乗ってよ」と言う。
「戻らなくていいんですか?」
「どうせもうあと2時間ほどで退勤時間だ。ついでだから、少し話そう」
「…」
宇佐美は迷ったが、ここまで来られては逃げ場がないと思い、仕方なく助手席に座った。
野崎は横に座る宇佐美の顔を覗き込んで、頬を指差した。
「どうしたの、ここ?」
貼られた絆創膏はまだ新しい。血もにじんでいる。
「髭剃ってて…切った」
「首も?」
「…」
宇佐美は顔を背けて頷いた。
泣きはらした顔を、あまり見られたくはなかった。でも野崎には気づかれているだろうなと感じる。
刑事の観察眼を侮ってはいないが…勘の鋭さも侮れないと痛感する。
だが野崎はそれ以上なにも聞かず、「そう…」とだけ言って静かに車を走らせた。
車は、以前来た公園の駐車場に入った。
二人は車を降りて、ゆっくりと河川敷の方へ歩く。
日が傾き始めると、辺りには早くも秋の気配が漂い始める。
だが屋外で遊んでいる子供や親子連れは、まだ大勢遊具の周りにいた。そんな人たちを横目に、二人は少し離れた所にある、あずま屋に腰を下ろした。
遠くの山並みが良く見える。ここからは確認できないが、焼身自殺があった現場の規制線はすでに解かれ、辺りはすっかり日常に戻っていた。
騒ぎは一瞬。当事者でない限り、事件現場などそんなものだ…
野崎は、遠くを見ている宇佐美の横顔に目をやった。何を考えているのか——そこから相手の考えている事を読み取ることなど自分にはできない。
だが宇佐美は、今自分が思っていることを読むことが出来るんだろうか?
「———」
野崎は、試しにじっと念を送ってみた。が、宇佐美は無反応だ。
「…」
視線に気づいて、宇佐美が言う。
「なんですか?」
「いや。俺の考えてること…伝わるかな?と思って」
「——」
宇佐美は驚いたような顔をした。
「実はこの間。先生に会って…話をした」
宇佐美は黙っていた。戸惑った表情を浮かべている宇佐美には、あえて気づかぬふりをして野崎は続けた。
「宇佐美は人の心が読めるって聞いたよ。まぁ…なんとなくそんな気はしてたから、それほど驚きはしなかったけど…」
「いつもじゃないよ。いつも聞こえるわけじゃない」
言い訳めいた口調に野崎は言った。
「そうみたいだな。今俺が思ってたこと、気づかなかったみたいだから」
「——」
「聞こえてたら、そんな涼しい顔してない」
「なに言ってたの?」
教えない、と野崎は言った。宇佐美はムッとした様に顔をしかめる。
「お前と会っての感想も聞かれたよ」
「どうせそれも、ろくな事じゃないんだろう?」
「そういうお前はどうなんだよ?どうせろくな事じゃないんだろう?」
「…」
「だったらお互い様だ。第一印象は最悪同士。ある意味、気が合うな」
「だから前にそう言ったろ。相性良いのかもって」
そうだったな…と言って、野崎は笑った。つられて宇佐美も笑う。
二人はしばらく、ぼんやりと遠くの景色を眺めていた。川を渡ってくる風が心地よい。
野崎は、ワイシャツの胸ポケットから新聞記事のコピーを取り出すと、宇佐美の前にそっと差し出した。
宇佐美はそれに目をやる。
「これ。お前のことだろう?」
「…神原さんに聞いたの?」
「8年前に亡くなったってことだけね」
そう——と、宇佐美は頷いた。
「宇佐美のことだよな?」
「そうだよ…」
そう言って切り抜きのコピーを手に取った。
「住んでた場所の近くを川が流れていた。覚えてる?」
「そうだったかな…」
「鳩川も相模川の支流のひとつだ」
宇佐美は黙っていた。
「お母さんも被害者の一人なのか?」
野崎はストレートに聞いた。宇佐美はじっと野崎を見つめた。
いつもの、網膜を通して何かを見るような鋭い視線ではなかった。どこか精彩を欠いた弱い眼差しだ。泣きはらした後の、重い瞼を眠たそうに伏せる。
「野崎さん…」
宇佐美は手にしたコピー用紙に目を落としたまま、囁くように言った。
「俺は過去に一度、ヤツに会ってる」
足元にボールが転がってきた。
アニメのキャラクターが書かれた小さなゴムボールだ。
野崎はそれを拾い上げた。
「すみません」
若い母親が、子供の手を引いて近づいてきた。照れくさそうにはにかむ少年がボールを指差す。
野崎は笑うと、「はい、どうぞ」とボールを手渡した。
親子は礼を言うと、そのまま去っていった。その姿を、優しい眼差しで見つめる野崎に、宇佐美は微笑んだ。
「野崎さん…子供欲しい?」
「…」
野崎はしばらく黙っていた。そして小さく頷く。
「まぁな…でも、こればっかりは授かりものだから」
「…」
「一度…結婚して5年目の時に出来たけど…ダメになって——それっきり」
「そうなんだ…変なこと聞いてごめん」
謝る宇佐美に野崎は笑うと、黙って首を振った。
この重たい空気を引きづったままでは少し躊躇われたが、野崎は思い切って聞いた。
「お母さんが亡くなった時、宇佐美はその場にいたの?」
「…」
今度は宇佐美が黙り込んだ。
相手の言葉尻に、微かな迷いが感じられる。
信じたいけど、信じたくない——野崎の中に見え隠れする疑念が…宇佐美には手に取るように分かった。
「いたよ」
宇佐美は答えた。
「…飛び降りたところを…見た?」
「何が言いたいの?俺が突き落としたとでも?」
「———」
「あぁ…」
宇佐美は、分かった…と言うように笑って頷くと、「俺が幽霊の正体だと思ってる?」と聞き返した。
野崎は黙っていた。否定とも肯定ともとれる長い沈黙が続く。
互いに相手の目を見たまま。どちらかが沈黙に耐えられなくなるまで、見つめ続けるつもりでいたが——宇佐美の方が堪えきれずに目を反らした。
「なんだか尋問されてるみたいだ」
「お前なのか?」
宇佐美は顔をしかめると、少し怒ったように言った。
「違うよ」
「本当に?」
「なんでそう思うの?」
「川を遡って調べていたら、偶然お前の母親の事を見つけた。本当に偶然なのかな…と思って」
「…」
「気づいていたのなら、どうして何も言わなかった?」
宇佐美は苦笑した。
「昔、川の近くに住んでて、母親は自殺してますって?」
「…」
「悪いけど、幽霊は俺じゃないよ」
宇佐美はそう言うと、顔の前で両手を組んで頬杖をついた。
「何も言わなかったのは——半分は忘れていたから。でも…三人であの河川敷に行った時、久しぶりにあの日の事を思い出した」
子供たちが数人、自転車で目の前を横切っていく。楽しそうな声を上げていた。それを見送りながら、宇佐美は続けた。
「母がベランダから飛び降りた時、ヤツはそこにいた」
そう言って、あの日の事をポツリポツリと話した。
野崎はそれを終始黙って聞いていた。
「顔は見えなかったけど、男の後ろ姿だったのは覚えている」
黒く揺れる陽炎のようなその影。宇佐美は見覚えがあるような気がするのに、どうしても思い出すことが出来ない。
「母にもヤツが見えていたんだ。俺にも見えるって知って、悲しそうな顔をしてたけど」
「——」
「見ちゃいけないモノだったのかもしれないな…」
「そいつが、お母さんを突き落としたのか?」
「さぁ分からない…俺はその瞬間を見てないから。薬を取りに行くように頼まれて、一瞬その場を離れた」
宇佐美はそう言うと、泣きそうな顔をして笑った。
「凄く後悔してるよ。どうしてあの時、傍を離れたんだろうって。嫌な胸騒ぎはしたのに。母から目を離しちゃいけないって——」
「宇佐美…」
「薬を取って戻ってきたら、母の姿はなかった」
「…」
「ヤツはベランダの下を覗いていた。何も言わずに…そのまま消えたよ」
野崎は黙ったまま、じっと宇佐美の顔を見ていた。
今の話に、恐らく嘘はないだろう。
そんな気がした。
あまりにも辛い記憶は、時として忘れてしまうことがあるという。心を守るために。脳が防御するのだ。
今回の事がきっかけで、忘れていた記憶が戻りつつあるなら、無理に思い出すことは宇佐美の心を壊すことになりはしないか——
頬と首の絆創膏を見て、野崎は不安に駆られた。
それに。
もし今の話が本当なら、宇佐美の母親も幽霊に殺された——つまり被害者の一人だと感じる。
でも、それだけではない気がする。何故だか分からないが、幽霊と宇佐美はどこかで繋がっているのではないか…そんな気がしてならないのだ。
だが、もしそうだとしたら。
(幽霊の目的は一体なんだ?それに、過去に接触しておきながら、なぜ今頃になって?)
その疑問が頭をもたげる。
野崎は、俯いたまま黙り込む宇佐美に、「分かった」と言った。
「辛い事を聞いたな…それに、疑って悪かった…」
宇佐美は小さく首を振った。
「いいさ別に。疑うのもあなたの仕事だ」
そう言われて野崎は苦笑する。
何となく消化不良な気もするが、今はこれ以上突っ込むのはやめておこう。
そう思い、野崎は言った。
「そろそろ行こう。アパートまで送るよ」
宇佐美は歩いて帰れると言ったが、野崎は「送るから乗って」と聞く耳持たず、強引に宇佐美を助手席に座らせた。
泣いていたのかと問うこともなく、そこには一切触れてこない。道中、野崎はずっと無言だったが、その気遣いが逆に嬉しかった。
アパートの前に着き、宇佐美は礼を言って降りようとした。
すると——
「宇佐美」
ふいに呼び止められて、宇佐美は振り向いた。
野崎はハンドルに手を置いて、前を見つめたまま言った。
「何か俺に、出来ることある?」
「え?」
「まぁ…力になれるかどうかは別にしてだけど」
そう言うと、少し照れたように笑い宇佐美を見た。
「なんか、悩んでるみたいだからさ」
「…」
「お前、なんでも一人で抱え込みそうだから心配だよ」
「——」
宇佐美は黙ったまま俯く。
その仕草から、頑なに閉じた心が見えるようだった——
自分にこの男が救えるかどうかなど分からない。その自信もない。
ただ今は、一人の友人として本気で身を案じているだけだ。
野崎は言った。
「自分で自分の命にケリつけるようなことだけはするなよ。な?」
「——」
その言葉に、宇佐美は思わず顔を背けた。込み上げてくる涙を必死に堪えて飲み込む。
今、野崎の顔を見たら泣いてしまいそうだった。
言葉を発することもできずに顔を背けたまま。ただ頷くことしかできない。
そんな宇佐美の様子に野崎は微笑むと、頬の絆創膏を指で弾いて言った。
「お前も髭剃るんだな」
そう言われて宇佐美は「当たり前だろう…」と泣きそうな声で言い返す。
言葉にしない優しさと、言葉にする優しさ。
詮索するわけでもなく、かといって無関心でもない。
野崎の優しさが宇佐美には痛いほどだった。
俺はこの人を傷つけたくない———
失いたくない。
初めて本気で、宇佐美はそう思った。