迷動 #2

文字数 5,552文字

 アパートの容疑者が焼身自殺を図ってからひと月が過ぎた。
 事件は被疑者死亡のまま、若干不審な点は残しつつも捜査は終了。野崎達は、新たに発生した事件に日々忙殺されていた。
 その日。
 宇佐美は警察署の談話室にいた。
 7月上旬。例年よりだいぶ早く梅雨明けしたが、開けた途端真夏のような日が続いている。
 節電の為なのか。署内はあまり冷房が効いておらず、談話室も例外ではなかった。開け放した窓からは、僅かだが風が入り込む程度だ。
 宇佐美が何となく所在なげに椅子に腰かけていると、ふいにノックと共にドアが開いた。
「ゴメン、待たせた」
 野崎がそう言いながら入ってくる。
 時折メールでのやり取りはしていたが、こうして顔を合わせるのは公園で会って以来だった。
 久しぶりに互いの姿を見て、妙に気恥しい思いがする。
「元気そうだな」
 そう言われて宇佐美は肩を竦めた。
「まぁね。あなたは…少しやつれた?」
 以前にはなかった無精ひげをからかうように宇佐美は言った。野崎は笑った。
 笑いながら、背後にいるもう一人の男を振り返って言った。
「紹介するよ。同僚の白石だ」
 そう紹介され、白石は軽く会釈をする。
 野崎よりやや細身で長身の、優男といった風貌だ。年は野崎と同じくらいだろうか。
「どうも、白石です。以前ここでチラッとお姿を」
「どうも…」
 緊張のため、若干警戒気味の宇佐美に、野崎は「安心していいよ。こいつは神原先生のことも知ってるし、俺たちの事情も知ってる。宇佐美のことも——話してある」と言った。
「…」
 じっと自分を見る宇佐美の視線に、白石は苦笑すると、「そんなに見つめないでよ、ウサギちゃん」とからかった。
 慌てて俯く宇佐美を見て、野崎は白石を小突いた。
「そういう言い方するな」
「だって…」
 野崎に諌められ、おどけたように首を竦める。
 野崎と白石は、宇佐美と対面するように椅子に座った。
「メールで聞かれた件、調べてみたよ」
 野崎はそう言うと、手帳に書きつけた内容を見て言った。
「佐々木以外に、あの河川周辺で焼身自殺があったかどうかってことだけど——」
「…」
「ずばり一件ヒットした」
 野崎は白石と顔を見合わせ頷いた。
「俺がまだ、ここの所轄に配属される前の事案で、約7年前だ。場所は今回の現場の対岸。管轄は隣の市になるけど、死んだのはうちの管轄の人間だった」
「実は俺が通報を受けて、最初にその現場に駆けつけてる」
 そう白石が言った。宇佐美は思わず目を見張った。
「そうなんだ——すっかり忘れてたけど、聞かれて思い出した。当時、俺は隣町の署に勤務してたんだ。確か早朝だったな…通報を受けて行った時にはもう死んでて、手の施しようがなかった…」
 白石は腕を組みながら、当時のことを思い出している様子だった。
「死んだのは井上和哉、当時37歳。調べによると、市内の戸建てに母親と二人暮らし」
 野崎は調書の一部を書き写したものを読み上げた。
「父親は幼い頃に失くしていて、ずっと母子家庭だったらしい。母親は体が悪くて、井上が世話をしていたようだ。いわゆるヤングケアラーってやつかな?」
「…」
 宇佐美は黙って聞いていた。
「自殺を図る少し前に、母親が亡くなってる。死因は急性心不全。解剖したようだけど、特に不審な点はない」
「ようやく親の世話から解放されたってのに…後を追ったってことかな?」
「——」
 野崎は、ずっと俯いて黙り込む宇佐美の表情が少し気になったが、気づかぬふりをして言った。
「長いこと介護をしていると、その対象者がいなくなった途端、生きがいを失くして抜け殻みたいになるらしい。恐らく…井上もそんな感じだったんじゃないか?」
「…」
「生活のために必死で働いて、母親の面倒を見て…それがいなくなって働く気も失せて…引きこもって」
 調書には、井上の自宅の様子が記されていたが、室内はゴミだらけ、電気もガスも止められており、銀行口座には数千円しか残っていなかったとある。
 そんな男が孤独に耐え切れず死を選んだ——

 そいつが?
 そいつが一連の事件を引き起こしている、幽霊の正体なのか?

 野崎はずっと黙っている宇佐美を見て言った。
「どう思う?」
 宇佐美は黙って視線を向けた。
「宇佐美が夢で見たっていう、その男——彼だと思う?」
 目の前で、黒煙を上げながら燃えて崩れ落ちた男の姿を思い出して、宇佐美は身震いした。
 口から放たれた絶叫が、今も轟音になって聞こえてくる。
 ちなみに…と言って、野崎はスマホの画面を宇佐美の方に向けて言った。
「これが井上の顔写真だけど」
「…」
「どうかな…似てる?」
 宇佐美はじっとスマホの画面を見つめた。
 暗い目をした男だ。いつ頃撮影したものか分からないが、37という年齢にしては老けて見えた。
 病弱な母親と二人きり。家と職場の往復で、人生を費やしてきた。行政を頼ることもできたのに、それもせず。世界を閉ざして引きこもっていた。

 絶望の果てに死を選び——その恨みを川に流したか?

 宇佐美は首を振った。
「分からない…顔は見てないから」
「そうだったな…」
「でも雰囲気は似てるかも」
 駅や橋の犠牲者たちと、自分を襲ったものが同一だと断言はできないが、この男から漂う暗い雰囲気は非常によく似ている。
「でも…もし仮にこいつが幽霊の正体だとして——こいつの姿を見て死ぬなら、写真見て、顔を知った俺たちはどうなるの?まさか殺されるの?」
 白石の疑問はもっともだった。
 姿を見て死ぬなら、正体を知った時点で消されそうだが…
「俺たちは襲われてないし、宇佐美も姿は見ていない。まだこいつだと、決まったわけじゃない」
「じゃあ断定したら?どう立件する?」
「それだよなぁ…」
 野崎は頭を抱えた。
 そもそも死んでいる人間で、しかも確たる証拠もない。
「こいつが死んだのが今から7年前。その間に、こいつが原因で死んだ人間がいたとしても、すでに自殺か不審死で片が付いてる」
 現実には立件不可能。でも放っておいていいものか——
「成仏させてみたら?」
 白石の提案に、野崎は思わず笑った。
「だって、幽霊だろう?それしかなくねぇ?」
「そうだけど」
 野崎は、黙っている宇佐美を見て言った。
「これだけのことをしでかす奴なんだから、なにか相当な恨みを持っているんだろう…世間に対してなのか、何に対してなのかは分からないけど」
「——」
 宇佐美は黙っている。
「放っておいたらきっとまた同じような不審死があるかもしれない。けど、迂闊にかかわって危険な目に合うなら…いっそ、ここらで手を引いた方が無難かも——」
「…」
「どう?そう思わない?」
 聞かれて宇佐美は視線を向けた。野崎の目が不安に曇っている。
「お前はまだヤツの姿をハッキリ見ていない。今ならまだ引き返せるんじゃないの?」
「俺の事…心配してくれてるの?」
「そりゃ——」
 言って、野崎は少し照れたように笑った。
「これで死なれたら夢見が悪い」
 その言葉に宇佐美は微笑を浮かべた。
 が。すぐに真顔になると、静かに首を振った。
「残念だけど…たぶん手遅れだよ。俺たち——」
 そう言って、目の前にいる野崎と白石、両方を見て言った。
「もう目をつけられてる」

「え?」
 野崎と白石は、思わずそう聞き返した。
 談話室の中は無風状態で、堪らず白石は席を立つと、窓を閉めてエアコンをつけた。
 冷たい風が汗を乾かしていく。
「手遅れって…どういうこと?」
 野崎がそう聞くと、宇佐美は言った。
「ヤツは俺の存在に気づいてる。こっちが無視しても、多分放っておいてはくれないと思う」
「俺たちってことは、俺も?」
 そう聞く野崎に、宇佐美は頷いた。
「俺を通して、たぶん野崎さんの存在にも気づいてる。同様に——」
 宇佐美は白石に視線を向けると、言った。
「もし幽霊の正体が井上なら、あなたも関わってる」
「なんで?だって今まで何ともなかったぜ?!」
「俺と今こうして繋がったことで、紐づけされたと思う。現場に最初に駆けつけたのが野崎さんの同僚なんて…都合がよすぎる」
 白石は息を飲んだ。
「偶然じゃないよ、きっと」
「マジか…」
 白石はそう呟くと、ブルッと身震いした。
「嘘だろ…なんか——寒い」
「エアコンつけたからだろう?」
 野崎の冷静な突っ込みに、白石は顔をしかめた。
「俺はただ情報提供しただけだぜ?幽霊のことなんて、これっぽっちも考えたことないのに」
 白石はそう言うと、何もない空中に向かって主張した。
「俺は何もしないから。君に危害を加えたりしないよ。ねぇ、聞いてる?」
 野崎と宇佐美は顔を見合わせて笑った。
「そうか…じゃあ無視するって選択肢はなくなったな。かくなる上は成仏か?」
「俺は除霊なんかできないよ」
 宇佐美がそう言うと、「エクソシスト呼ぼうぜ」と白石が言った。
 その言葉に野崎は笑った。
「あれは悪魔祓いだろう?」
「悪魔みたいなもんだろうが」
「幽霊が気を悪くするぞ。呼ぶなら坊さんだよ」
 野崎と白石のやり取りを、微笑まし気に見ていた宇佐美だったが、ふと何か思いついたように言った。
「彼と接触してみようかな…」
 え?というように二人は宇佐美を見た。
「そんなことできるのか?」
「さぁ…やったことはないけど」
 宇佐美は首をかしげたが、でも——と呟いて、言った。
「相手の素性が分かれば可能かも」
「おぉ、凄いな」
 驚く白石に対して、野崎は心配そうな顔をして言った。
「でも、そんなことして危なくないか?」
「どうかな…」
「変に刺激して、この前の痣より酷い目に遭ったらどうすんの?」
「その時は守ってよ」
 甘えたような目を向ける宇佐美に、野崎は思わず黙り込んだ。その様子を見て白石はニッと笑う。
「俺の様子が変だと思ったら、ぶん殴ってでも意識を飛ばしてほしい」
「それで…平気なのか?」
 多分——と曖昧な返答をする。野崎は眉間を寄せたまま、不承不承頷いた。
「彼の思念が一番強そうな場所に行きたい」
 そう言われて野崎は言った。
「井上の実家は既に取り壊されている。あるとしたら、ヤツの墓か…自殺現場か」
「現場なら俺が案内できる」
 俺も一緒に行くよ、と白石は宇佐美に笑いかけた。
 野崎が驚いたように目を丸くする。
「お前、幽霊NGじゃないのかよ?」
「市民を守るのが俺たちの役目だ」
 こいつ——
 野崎は呆れた顔をして、机の下で白石の足を蹴っ飛ばした。
「痛て!」
 そのまま肩に腕をまわし、宇佐美には背を向けるようにして白石の耳元で囁く。
「手、出すなよ」
「…あいつ可愛い」
 野崎は白石の脇腹に軽く拳を入れると、宇佐美の方を振り返って言った。
「現場を見に行く算段が付いたら、また連絡するよ」
「え?あ…はい」
 宇佐美は、目の前のやり取りに一瞬呆気にとられたが——大して驚いた様子もなく、じっと二人の男を見比べている。
 その口元に、微かな笑みを浮かべたまま。


 その日の帰り。
 野崎はショッピングセンター内にあるクリーニング店へ、仕上がったスーツとワイシャツを取りに行くついでに、ふらりと本屋に立ち寄った。
 学生時代はよく漫画雑誌を読んでいたが、大人になってからはあまり読まなくなった。
 グラビア雑誌なども、余程気になるものでなければ手に取ることはない。試験絡みの参考書などはよく買っていたが、小説も最近はあまり読まなくなった…
 本屋に来るなど、本当に久しぶりだ——
 野崎は、ゆっくりと店内を歩き回った。
 実用書などが置かれているエリアを通り過ぎ、趣味や実益、占いやオカルトなど…普段はあまり手に取ることのない本が並ぶ棚の前に来る。そしてふと足を止めた。
 除霊の仕方——と書かれた本が目に留まる。手に取り、何となくページをめくった。
「…」
 真剣な目でページをめくっていると、「あら、こんばんは」と声をかけられて、野崎は視線を向けた。
 眼鏡をかけて、髪を一つに束ねた小柄な女性が、にっこりと微笑んでいる。
 彩子の友人で、よく一緒に旅行や食事に行く仲間の一人だ——名前は確か…信子(のぶこ)さん…だったかな?
「あ、どうもこんばんは」
 野崎は慌てて手にしていた本を、さりげなく手元に伏せた。
「こんな所でお見掛けするなんて…今お帰りですか?」
 えぇ、まぁ…と頷きながら、「いつも妻がお世話になっております」と頭を下げる。
 いえ、とんでもない、と信子は人懐っこい笑みを浮かべて言った。
「ご主人も、いつもお忙しそうで——大変ですね」
「——」
 野崎は苦笑して俯いた。
 当たり障りのない挨拶をして、そのまま立ち去りかけた信子に、野崎はふと「箱根、いいお天気で良かったですね」と言った。
「え?」
 信子は振り向いた。何のことか分からず、キョトンとした顔をしている。
 その表情を見て——野崎はゆっくりと笑みを浮かべた。
「あぁ…すみません。信子さんたちじゃなかったのかな?」
「…」
「てっきりそうだと思ってて。ごめんなさい」
「——」
 信子は一瞬、何かマズいことをしてしまったかな——という顔をした。
 野崎は気にしていない風を装い、手にしていた本を棚に戻すと、「失礼します」と言ってその場を立ち去った。
 信子が不安そうに、店から出て行く自分の背を見送っているのが分かる。

 妻に友人に、妙な鎌をかけてしまったな…

 でも仕掛けた鎌が、見事に跳ね返ってきて自分の喉元に命中した。そのことを感じて、野崎は唇を噛んだ。
 今回は他のメンバーと行ったのかもしれない。
 きっと自分が知らない他の友人がいるのだ。
 必死にそう思おうとした。
 しかし一度胸にできた波紋は、さざ波のように広がっていき、抑えることはできなかった。

 ちゃんと向き合え…
 目を反らすな。

(そんなこと分かってる——!)

 野崎は乱暴に車のドアを閉めると、勢いよくショッピングセンターの駐車場を後にした。
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登場人物紹介

野崎祐介【のざきゆうすけ】

45歳。所轄の刑事。階級は警部補。既婚。子供なし。淡々と物事を進めていくタイプ。一見クールに見えるが時に熱くなる一面も。彼のモデルは同年代の頃の竹野内豊。彼の台詞は竹野内で読んでください(笑)

宇佐美尚人【うさみなおと】 

39歳。フリーライター。両親とは死別。独身。霊感があり見えたり聞こえたりする。生い立ちが特殊なため、家庭環境には恵まれず、人に上手く甘えることが出来ないまま大人になった面倒くさい男。見た目9割成功だけど1割の残念な部分で損している可哀そうなイケメン。

神原悟史【かんばらさとし】

69歳。元大学准教授。現在はオカルト雑誌専門の出版社社長兼編集長。鋭い直感力を持っているが、年のためその力は衰え始めている。大学時代の教え子である野崎の捜査協力者として力を貸していたことがあった。少々変わり者。

白石和之【しらいしかずゆき】

45歳。所轄の刑事。階級は巡査部長。野崎とは同期でバディを組んでいる。ゲイ。パートナーと暮らしているが上手くいってないらしい。幽霊苦手。怖い話大嫌い。宇佐美に気がある。

望月【もちづき】

50歳。独身。神原の出版社で働く女性社員、編集者。

神原智子【かんばらともこ】 

63歳。悟史の妻。バレエ講師をしていたことあり。明るく朗らか。子供がいないので野崎や宇佐美を息子のように可愛がっている。料理上手。

小さな影【チイサナカゲ】 ???

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