揺心 #3
文字数 3,295文字
9月。
まだ厳しい暑さが残る中、宇佐美は役所の窓口にいた。
自分の本籍地を確認するためだった。
今の場所でないことは分かっている。昔一度、母から聞いたことがあったのだが…住民票を手にして、宇佐美は本籍地を確認した。
(山梨県…)
そこに記載されていた県名を見ても、あまりピンとこない。自分には住んでいた頃の記憶がないのだ。
恐らく、そこにいたのは本当に幼少期の間だけだったのだろう。
父親がいた頃までの——
父親…
宇佐美は記憶を辿ろうとすると、必ずと言っていいほど訪れる強烈な睡魔と気だるさに頭を振った。
忘れなさい、という呪文のような声。あれは母の声だ。
忘れたい。忘れなきゃいけない。なのに、思い出したい。思い出せない——
頭の奥にくすぶるモヤモヤしたもの。それをハッキリと見たいのに、形にしようとすると霧のように消えてしまう。
もどかしさにイライラする。これは一体なんなんだ?
役所を出ると、目の前に警察署が見えた。
野崎さんは勤務中だろうか?
それとも今日は非番だろうか?
「…」
照りつける日差しの中、ぼんやり佇んでいると、背後からいきなり男が肩を抱いてきた。
「ウサギちゃん、なにしてるの?」
「ぅわ!?」
不意を突かれて宇佐美は飛び上がるほど驚いた。
「白石さん!?——驚かさないで下さいよ…」
「あはは、凄いビビった顔してる。可愛いな」
そう言われ、戸惑った顔で宇佐美は周囲を見回した。
「もしかして、野崎探してる?」
「え?」
その表情に白石はニヤッと笑うと、急に真面目な顔をして宇佐美の耳元に口を寄せる。
「あいつさ…先週で移動になったんだ」
「?!」
宇佐美は驚いて目を剥いた。と同時に、何とも言えない切ない表情を浮かべる。
と、突然。
「おいコラ!」
という声と共に、背後から尻を蹴り飛ばされて、白石は「痛て!」と叫んだ。
「なに適当なこと言ってんだよ。嘘つくな」
「野崎さん——」
宇佐美と目が合って、野崎は「よぉ、元気?」と笑ってみせた。
一瞬、宇佐美も嬉しそうな笑みを浮かべたが、白石と目が合って慌てて素に戻る。
「お前が移動って聞いて、ウサギちゃん悲しそうな顔してた。愛されてるなぁ、野崎」
「そうやって、からかうんじゃないよ」
野崎にたしなめられて、白石は舌を出す。宇佐美はそんな二人をじっと見つめていた。
二人が現れた途端、世界が切り替わるのを感じた。非日常的で陰鬱とした世界から、突如日常的な明るい世界へと。
今の自分にとって、そのどちらが本当の世界なのか分からない。
だが願わくば…と宇佐美は思う。
このささやかで、ありふれた日常こそが、自分にとっての本当の世界であったらと——
「俺たちこれから昼飯食いに行くんだけど、ウサギちゃんも一緒にどう?」
「え?」
すぐそこのとんかつ屋だよ、と野崎が指差す。
「もしかして、もう飯食った?」
「いや…まだだけど…」
「よし!じゃあ行こう!」
「えぇ?!」
白石が強引に肩を組んで歩きだす。狼狽える宇佐美に、野崎も寄り添うように歩き出した。
刑事二人に挟まれ、宇佐美は「連行されてる気分だ…」とぼやく。
その台詞に二人は笑った。
アパートの事件以降、気になる不審死がピタリと止んでいる。署の資料室で野崎達が襲われたのを機に、なりを潜めている。
さては幽霊のヤツ、飽きて止めたのでは…と野崎達は冗談交じりに話していたが。
宇佐美には、ヤツが暗闇で息を潜めてジッとこちらの様子を伺っているように思えた。
油断させておいて、少しずついたぶり傷つけていく。
自分を襲ってきた時に感じた、あの暗い思念。致命傷は与えず、最後の一撃は自らの手で行うように誘う…まるで——
そう。それはまるで…
——その時。
宇佐美は、前を歩く二人の背後へ近づく小さな影を見た。
(あ…)
またアイツだ。
ちょこちょこと動きながら野崎の横に並ぶと、その手を繋ごうと腕を伸ばしている。
だが、気づかない野崎は白石と話しながらその手をポケットに入れてしまった。
小さな影が駄々っ子のように地団駄を踏んで、野崎の足を叩く。
「——!?」
野崎は、ふと足を止めて背後を振り返った。
「今、足に何かぶつけた?」
宇佐美は首を振った。首を振りながら(今の感じたんだ…)と驚く。
影は見えていないが、触られたのは分かったのか…
小さな影が、抱っこをせがむように腕を伸ばして野崎を見上げている。
(なんだか、お父さんに甘えているみたいだ)
その影の様子から、宇佐美はなんとなくそう感じた。
そういえば以前、流産したような事を言っていたが…その子だろうか?
自分の足元が気になる素振りを見せる野崎に、教えてあげようか…と宇佐美は一瞬迷った。
でも何故だか言い出せない。
あの小さい影からは、悪意を感じないし、悪いものではなさそうだ。
むしろ、とても無邪気で——
その影が、じっと自分の方を見ていた。
気づいて欲しい…そう訴えているのに、宇佐美の方が思うようにその意を汲み取ってあげられない。
(なんだろう…すごく歯がゆいな)
ごめんね…と、宇佐美は心の中で謝った。
すると、小さな影はスーッと消えてしまった。
「ウサギちゃん、どうしたの?大丈夫?」
じっと野崎の足元を見つめている宇佐美を心配して、白石がそう言った。
宇佐美は野崎を見た。
そして思う。
(言えない…)
あの小さな影のこと。
言えば野崎が傷つくような気がしたのだ。理由は分からない。ただ何となく、言ってはいけないような気がする。
宇佐美は二人を安心させるように笑ってみせると、「お腹が空いて倒れそう」と呟いた。
「なんだよ、じゃ早く歩け!」
二人に急かされて、宇佐美は並んで歩きだした。野崎が不安そうに自分を見ていたが。
その視線には気づかぬふりをした。
退勤時刻間際に起きた傷害事件に駆り出され、結局帰宅できたのは日付が変わってからだった。
もう彩子は寝ているだろう…と、静かに玄関を開けた。
明かりの消えているリビングを見て、ふと違和感を覚える。
野崎はそっと寝室を覗いた。彩子の姿がない。
(…?)
どこかへ出かけると言っていただろうか?
スマホを見るがメールはない。
自分の帰りが遅くなると教えていたので、友達と飲みにでも行ってるのかもしれない。
別に子供がいるわけじゃないので好きにしたらいいのだが——
野崎はソファーに座り、ぼんやりと暗いテレビ画面を見つめた。何かを観る気力もない。
指にはめている結婚指輪が虚しく光っている。
これって、一人でいるのと何が違うんだろう。
もちろん、そう感じているのは自分だけじゃなくて妻もそうなのだろうが。
お互い干渉せず、好きなことをしているだけ。一緒にいる意味があるのかな…そんなことを考えていると、玄関の方で鍵が開く音がした。
リビングで、今帰ったばかりの夫と目が合い、一瞬だが彩子が怯んだ様に見えた。
「おかえり…」
そう言われて、彩子は気まずそうに「ただいま…」と呟いた。
「早かったのね」
「まぁね…」
髪の乱れを整える彩子を見て「そういえば」と思い出したように言った。
「このあいだ信子さんに会ったよ」
「…」
「てっきり一緒に行ったのかと思って、箱根天気が良くてよかったですねって言っちゃった」
「———」
「違ったんだな」
彩子は何も言わなかった。
なんとなく、苛立っているように感じる。
だからなんなの?誰と行ったか知りたいの?
そんな台詞が聞こえてきそうだった。
野崎は、もうそれ以上何も言わなかった。聞く気もない。
どうでもいい…
そんな感情が湧いてくる。今まで、ここまで露骨に感じたことはなかったのに。
何とか修復できないかと、自分なりに色々試みてきたが。
何も言わずバスルームへ行き、就寝の支度をする妻に、再度声をかける気にはならなかった。
このままでいいわけがない。そんな事は分かっている。
ハッキリさせなくては…でも、知るのが怖い。たとえそうだと分かっていても、現実を突きつけられた時、自分はどうなってしまうだろう——
野崎は黙ったまま、何も映らないテレビ画面をただじっと見つめていた。
まだ厳しい暑さが残る中、宇佐美は役所の窓口にいた。
自分の本籍地を確認するためだった。
今の場所でないことは分かっている。昔一度、母から聞いたことがあったのだが…住民票を手にして、宇佐美は本籍地を確認した。
(山梨県…)
そこに記載されていた県名を見ても、あまりピンとこない。自分には住んでいた頃の記憶がないのだ。
恐らく、そこにいたのは本当に幼少期の間だけだったのだろう。
父親がいた頃までの——
父親…
宇佐美は記憶を辿ろうとすると、必ずと言っていいほど訪れる強烈な睡魔と気だるさに頭を振った。
忘れなさい、という呪文のような声。あれは母の声だ。
忘れたい。忘れなきゃいけない。なのに、思い出したい。思い出せない——
頭の奥にくすぶるモヤモヤしたもの。それをハッキリと見たいのに、形にしようとすると霧のように消えてしまう。
もどかしさにイライラする。これは一体なんなんだ?
役所を出ると、目の前に警察署が見えた。
野崎さんは勤務中だろうか?
それとも今日は非番だろうか?
「…」
照りつける日差しの中、ぼんやり佇んでいると、背後からいきなり男が肩を抱いてきた。
「ウサギちゃん、なにしてるの?」
「ぅわ!?」
不意を突かれて宇佐美は飛び上がるほど驚いた。
「白石さん!?——驚かさないで下さいよ…」
「あはは、凄いビビった顔してる。可愛いな」
そう言われ、戸惑った顔で宇佐美は周囲を見回した。
「もしかして、野崎探してる?」
「え?」
その表情に白石はニヤッと笑うと、急に真面目な顔をして宇佐美の耳元に口を寄せる。
「あいつさ…先週で移動になったんだ」
「?!」
宇佐美は驚いて目を剥いた。と同時に、何とも言えない切ない表情を浮かべる。
と、突然。
「おいコラ!」
という声と共に、背後から尻を蹴り飛ばされて、白石は「痛て!」と叫んだ。
「なに適当なこと言ってんだよ。嘘つくな」
「野崎さん——」
宇佐美と目が合って、野崎は「よぉ、元気?」と笑ってみせた。
一瞬、宇佐美も嬉しそうな笑みを浮かべたが、白石と目が合って慌てて素に戻る。
「お前が移動って聞いて、ウサギちゃん悲しそうな顔してた。愛されてるなぁ、野崎」
「そうやって、からかうんじゃないよ」
野崎にたしなめられて、白石は舌を出す。宇佐美はそんな二人をじっと見つめていた。
二人が現れた途端、世界が切り替わるのを感じた。非日常的で陰鬱とした世界から、突如日常的な明るい世界へと。
今の自分にとって、そのどちらが本当の世界なのか分からない。
だが願わくば…と宇佐美は思う。
このささやかで、ありふれた日常こそが、自分にとっての本当の世界であったらと——
「俺たちこれから昼飯食いに行くんだけど、ウサギちゃんも一緒にどう?」
「え?」
すぐそこのとんかつ屋だよ、と野崎が指差す。
「もしかして、もう飯食った?」
「いや…まだだけど…」
「よし!じゃあ行こう!」
「えぇ?!」
白石が強引に肩を組んで歩きだす。狼狽える宇佐美に、野崎も寄り添うように歩き出した。
刑事二人に挟まれ、宇佐美は「連行されてる気分だ…」とぼやく。
その台詞に二人は笑った。
アパートの事件以降、気になる不審死がピタリと止んでいる。署の資料室で野崎達が襲われたのを機に、なりを潜めている。
さては幽霊のヤツ、飽きて止めたのでは…と野崎達は冗談交じりに話していたが。
宇佐美には、ヤツが暗闇で息を潜めてジッとこちらの様子を伺っているように思えた。
油断させておいて、少しずついたぶり傷つけていく。
自分を襲ってきた時に感じた、あの暗い思念。致命傷は与えず、最後の一撃は自らの手で行うように誘う…まるで——
そう。それはまるで…
——その時。
宇佐美は、前を歩く二人の背後へ近づく小さな影を見た。
(あ…)
またアイツだ。
ちょこちょこと動きながら野崎の横に並ぶと、その手を繋ごうと腕を伸ばしている。
だが、気づかない野崎は白石と話しながらその手をポケットに入れてしまった。
小さな影が駄々っ子のように地団駄を踏んで、野崎の足を叩く。
「——!?」
野崎は、ふと足を止めて背後を振り返った。
「今、足に何かぶつけた?」
宇佐美は首を振った。首を振りながら(今の感じたんだ…)と驚く。
影は見えていないが、触られたのは分かったのか…
小さな影が、抱っこをせがむように腕を伸ばして野崎を見上げている。
(なんだか、お父さんに甘えているみたいだ)
その影の様子から、宇佐美はなんとなくそう感じた。
そういえば以前、流産したような事を言っていたが…その子だろうか?
自分の足元が気になる素振りを見せる野崎に、教えてあげようか…と宇佐美は一瞬迷った。
でも何故だか言い出せない。
あの小さい影からは、悪意を感じないし、悪いものではなさそうだ。
むしろ、とても無邪気で——
その影が、じっと自分の方を見ていた。
気づいて欲しい…そう訴えているのに、宇佐美の方が思うようにその意を汲み取ってあげられない。
(なんだろう…すごく歯がゆいな)
ごめんね…と、宇佐美は心の中で謝った。
すると、小さな影はスーッと消えてしまった。
「ウサギちゃん、どうしたの?大丈夫?」
じっと野崎の足元を見つめている宇佐美を心配して、白石がそう言った。
宇佐美は野崎を見た。
そして思う。
(言えない…)
あの小さな影のこと。
言えば野崎が傷つくような気がしたのだ。理由は分からない。ただ何となく、言ってはいけないような気がする。
宇佐美は二人を安心させるように笑ってみせると、「お腹が空いて倒れそう」と呟いた。
「なんだよ、じゃ早く歩け!」
二人に急かされて、宇佐美は並んで歩きだした。野崎が不安そうに自分を見ていたが。
その視線には気づかぬふりをした。
退勤時刻間際に起きた傷害事件に駆り出され、結局帰宅できたのは日付が変わってからだった。
もう彩子は寝ているだろう…と、静かに玄関を開けた。
明かりの消えているリビングを見て、ふと違和感を覚える。
野崎はそっと寝室を覗いた。彩子の姿がない。
(…?)
どこかへ出かけると言っていただろうか?
スマホを見るがメールはない。
自分の帰りが遅くなると教えていたので、友達と飲みにでも行ってるのかもしれない。
別に子供がいるわけじゃないので好きにしたらいいのだが——
野崎はソファーに座り、ぼんやりと暗いテレビ画面を見つめた。何かを観る気力もない。
指にはめている結婚指輪が虚しく光っている。
これって、一人でいるのと何が違うんだろう。
もちろん、そう感じているのは自分だけじゃなくて妻もそうなのだろうが。
お互い干渉せず、好きなことをしているだけ。一緒にいる意味があるのかな…そんなことを考えていると、玄関の方で鍵が開く音がした。
リビングで、今帰ったばかりの夫と目が合い、一瞬だが彩子が怯んだ様に見えた。
「おかえり…」
そう言われて、彩子は気まずそうに「ただいま…」と呟いた。
「早かったのね」
「まぁね…」
髪の乱れを整える彩子を見て「そういえば」と思い出したように言った。
「このあいだ信子さんに会ったよ」
「…」
「てっきり一緒に行ったのかと思って、箱根天気が良くてよかったですねって言っちゃった」
「———」
「違ったんだな」
彩子は何も言わなかった。
なんとなく、苛立っているように感じる。
だからなんなの?誰と行ったか知りたいの?
そんな台詞が聞こえてきそうだった。
野崎は、もうそれ以上何も言わなかった。聞く気もない。
どうでもいい…
そんな感情が湧いてくる。今まで、ここまで露骨に感じたことはなかったのに。
何とか修復できないかと、自分なりに色々試みてきたが。
何も言わずバスルームへ行き、就寝の支度をする妻に、再度声をかける気にはならなかった。
このままでいいわけがない。そんな事は分かっている。
ハッキリさせなくては…でも、知るのが怖い。たとえそうだと分かっていても、現実を突きつけられた時、自分はどうなってしまうだろう——
野崎は黙ったまま、何も映らないテレビ画面をただじっと見つめていた。