生滅 #3
文字数 4,295文字
何かを追いかけるように——
木立の間を歩いていた宇佐美は、ふいに足を止めた。
突然、開けた場所に出る。そこにかつての集落はあった。
家屋は既に倒壊しているだろうと思っていたが、驚いたことにちゃんと形を残していた。もちろん風雨に耐え兼ね、土台だけを残して朽ちてしまっている家もあったが、大部分はしっかりとその姿を保っている。
宇佐美は集落の中へ、ゆっくりと足を踏み入れた。
原型を留めているとはいえ、住む者もいなくなり、手入れをされなくなった家は、大きく傾いたり半壊していたり…と、とても住めるような状態ではない。
それでも、人が生活していた頃の名残が随所に見られ、宇佐美は家の窓からそっと中を覗き込んだ。
家具や調度品などが置き去りのままになっている。ここを離れる時、持っていかなかったのだろうか?
(まるで夜逃げみたいだ…)
他の家はどうか分からないが、どの家も似たり寄ったりな気がした。
住民が出ていった後、もう長い間ずっと手付かずのまま…ここに放置されてきたのだろう。
そこには不思議な静寂があった。
「…」
微かに——枝を踏みしめる音がする。宇佐美は音がした方へ視線をむけた。
木立の間を、黒い影が横切る。
ついてこい——そう言ってるように感じた。
「——」
宇佐美は誘われるまま、影の後を追った。
集落の奥まで歩いていく。すると、その家は急に目の前に現れた。
宇佐美は驚いたように目を見張る。
(嘘だろう…)
そんなことってあるだろうか?
その家は、まるでつい最近まで誰かが住んでたのではないか——と思うくらい、しっかりとそこに存在してた。
周囲の家屋が、風雨に晒され荒廃が進んでいるというのに、その家は
これは一体…
黒い影が、家の中に入っていくのが見えた。
「…」
宇佐美は息を飲む。
ここだ——
あの家が——父の生家だ。
「——」
大きく息を吸うと、意を決したように宇佐美は歩き出した。
戸を開き、中を覗く。
一瞬、カビ臭い匂いがした。でもすぐに気にならなくなる。代わりに漂ってきた生活臭を感じて、眉をひそめる。もしかしたら、ホームレスでも住み着いていたのだろうか?
廊下の先を黒い影が横切るのが見えて、宇佐美は靴のまま上がり込んだ。床板が軋み、ヒヤッとする。
このまま床が抜けたりしないだろうか?
ギシギシと軋ませながら、恐る恐る黒い影が入った部屋を覗き込む。
そこは和室だった。
真新しい畳の匂いがする。床の間には花瓶があり、花が活けてあった。微かな線香の匂い。
ここは仏間だ。
閉ざされている襖の向こうには、黒い大きな仏壇がある。
何故か、一度も来たことがないはずの家の間取りが頭の中に浮かんできた。
(これは…誰の記憶?)
室内に佇み、周囲に耳を澄ます。
背後で気配を感じた。冷えた空気。それがうなじに触れる。
「——」
宇佐美は息を吸うと、静かに言った。
「いるんだろう?そこに」
返事はない。でもいるのは分かっている。何度も感じた。あの嫌な気配。
「お前の事はもう知ってる…姿を見たいんだ。振り向くよ?」
宇佐美はそう言うと、ゆっくり背後を振り返った。
黒いシルエットが、ぼんやりと佇んでいる。全身に影が差しているが、顔の識別はついた。叔父が古いアルバムを開いて見せてくれた。あの写真の男だ。
宇佐美征一。俺の——父親。
「やっと会えたな。やっと…姿を見ることが出来た」
宇佐美はそう言うと、じっと俯く影の男を見た。ヤツの周りからは、暗い闇が滲み出てくるようだった。それが冷えた空気を伴って、足元に流れてくる。
宇佐美は、自分によく似たその陰に向かって言った。
「お父さんって呼ぶべきかな?」
男は俯いたまま、ゆらゆらと揺れている。
「でも…悪いけど俺にはそんな感情、微塵もないよ」
何の感情も湧いてはこない。親子感動の対面とは程遠い。あるのはただ、絶望的なまでの虚無感だけだ。
「待ってたんだろう?この時をずっと…
足元の床が軋む。先程まで感じていた真新しい畳の匂いが消え、線香の匂いが強くなる。
「俺、叔父さんに会ったよ。彼は実の兄を、人でなしだって言ってた。お前は死神だってさ」
宇佐美はそう言って笑うと、「母さんを殺したのはお前か?」と問いかける。
「あの日ベランダにいたよな?俺にも会ってる。なんで…」
宇佐美はにじり寄った。床板が軋む。
「なんであの時、俺も殺さなかった?俺も殺せばよかったじゃないか!目の前であんな風に母親に死なれて——」
男の体から、陽炎のような黒い炎が立ち上る。
「絶望してる俺を見て満足したか?大事な人を奪って喜んでいたのか?」
床の間に飾られていた花瓶の花が、ゆっくりと萎れていく。室内の様相が、徐々に変わりつつあることに、宇佐美は気づいていなかった。
「俺がどんなに傷ついても、生かしておいたのはこの日の為か?」
問いかけても返事はない。負の感情をぶつければぶつける程、闇が濃くなっていく。
「希望を得てもそれを奪って絶望させて…どんなにあがいても、お前の歳は越せない。そこで全てが終わりになるように、ここまで導いて——最期は」
宇佐美はそう言うと、じっと天井を見上げた。
梁にロープが一本括られていた。先が輪になっている。
それを見て、宇佐美は小さく笑った。
「最高のプレゼントだな…」
宇佐美は近くにあった木箱を手繰り寄せた。自分が何をしようとしているのか分からない…
(いや、分かってる——よせ!やめろ!)
「…」
宇佐美は木箱を梁の下まで持ってくると、それに乗ってロープを掴んだ。
ロープは梁にしっかりと括られている。これなら、人ひとりの重さを十分に支えられるだろう。
宇佐美はじっと男を見下ろした。男の目には何の感情も無い。ただの空洞だ。光すら届かない、深い闇。
あるのは死の静寂だけ…
宇佐美は言った。
「あの人には絶対に手を出すな。もし彼に手を出したら、その時はたとえお前が死神でも、俺が殺してやるからな」
そしてゆっくりと、ロープを首にかける。
静かに息を吸い込み、目を閉じた。
眼下に、倒れている母を見た。
あの日から、救えなかったことをずっと後悔していた。
どうしてあの場を離れたんだろう。
もっと早くヤツの存在に気付いていれば…
母だけじゃない。彼女だってきっと救えたはず——
「ごめんね…」
涙が頬を伝う。
躊躇うことなく、宇佐美は木箱を蹴飛ばした——
「宇佐美——ッ!!」
突然、激しい衝撃を受けて、宇佐美は背中から床に倒れ込んだ。と同時に、凄まじい屋鳴りがして、辺りが大きく揺れる。
体の痛みを感じるよりも早く、宇佐美は野崎に抱き起されると、そのまま屋外へと連れ出された。
外に飛び出すのとほぼ同時に、家屋が一気に倒壊する。野崎は、猛烈な勢いで襲い掛かってくる瓦礫から宇佐美を庇う様に蹲った。
——
———
——————どのくらい、時間が経っただろう。
野崎は咳き込みながら、体に付いた瓦礫の破片を振り払うと、足元に蹲る宇佐美を抱き起した。
「おい…大丈夫か?」
「——ッ!」
宇佐美も激しく咳き込むと、しばらく苦しそうに肩で息をついた。そして喉をさすりながら野崎を見ると、微かに笑ってみせる。
「よかった…」
それを見てホッと息をつくと、野崎はその場に座り込んだ。
「まったく…自分が何をしようとしてたか分かってるのか!?」
「ごめん…」
俯いて軽く咳き込む宇佐美に、野崎は言った。
「お前の意思じゃないと思いたいけど…あと少し駆けつけるのが遅かったら——」
そう思うとゾッとする…という様に首を振る。そして、すっかり崩れ落ちた家屋の残骸を見て言った。
「ヤツには会えたのか?」
宇佐美は黙って頷いた。
「そうか…」
そう呟いて再び問いかける。
「ヤツは?消えたの?」
その問いに、宇佐美は「分からない…」と首を振った。
「成仏したのかな…」
野崎の呟きに、宇佐美は「死神は成仏なんてしない」と言って、かつて家があったその場所をじっと見つめた。
「死にたいと思う人の数だけ存在するんだ」
時に姿を変え、形を変え——弱い人の心に忍び寄る。
あれは、自分が見た死神の姿。
父の姿をした、弱い自分の姿だ———
項垂れる宇佐美を見て、野崎は言った。
「ヤツは目的を果たした訳じゃないのか——なら…また俺たちの前に現れるんじゃ?」
「かもね…執念深いヤツだから、俺が死ぬまで諦めないかも」
力なく笑う宇佐美を見て、野崎は「そうか…それは困ったな…」と言って苦笑した。
「お前が死のうとするたびに駆けつけるわけにもいかないし…」
どうしたもんかな…
そう呟いてしばらく黙っていたが、「でも——」と言って宇佐美を見た。
「お前の所に死神 が現れない方法がひとつだけあるよ」
野崎は言った。
「自分を許してやることだよ、宇佐美」
「…」
宇佐美の肩が微かに震えた。
「母親が死んだのはお前のせいじゃない。お前が傍にいてもいなくても…結果は変わらなかったと俺は思う」
「…」
「ヤツが殺したかどうかなんて俺には分からない。でも、お母さんは心を病んでいた。死にたいと思う人間を、救うことは難しい…どんなに救いたくても救えないことだってある」
宇佐美は野崎を見上げた。
「例えそれが医者でも…息子であっても——」
「…」
じっと自分を見上げる宇佐美の目を見て、野崎は言った。
「それでも自分なら何とかできたって思うか?なら思い上がるなよ。お前の能力は万能じゃない。現にお前も死のうとしてた。俺が止めなきゃ——今頃あそこで首括ってた」
「…野崎さん」
「彼女の事は俺には分からないけど…でも彼女はお前を責めたりしたか?」
宇佐美は黙って俯いた。
「お母さんは?お前を責めた?責めてないよな…俺だってそうだ」
「…」
「誰もお前を責めてない。お前はもう十分苦しんだ。そうだろう?だからもう許してやれよ」
「野崎さん…」
「お前は悪くない」
「…」
「お前のせいじゃない——」
宇佐美は、溢れる涙を必死に拭った。その様子に野崎は小さく笑うと、「そういえば、まだ言ってなかったな」と呟いて、誇りまみれの宇佐美の頭を軽く撫でて言った。
「誕生日おめでとう」
「———」
その言葉に、宇佐美は堪え切れず声を上げて泣いた。
闇の中から光の方へ這い出して叫ぶ——
それはまるで、この世に生を受けて初めて上げる産声のようだった。
野崎は何も言わず。
ただ、赤子のように泣きじゃくる宇佐美の肩を優しく抱き寄せた。
木々の隙間から覗く青空をそっと見上げる。
張り詰めていた空気が、ほんの少し緩んだような気がした。
木立の間を歩いていた宇佐美は、ふいに足を止めた。
突然、開けた場所に出る。そこにかつての集落はあった。
家屋は既に倒壊しているだろうと思っていたが、驚いたことにちゃんと形を残していた。もちろん風雨に耐え兼ね、土台だけを残して朽ちてしまっている家もあったが、大部分はしっかりとその姿を保っている。
宇佐美は集落の中へ、ゆっくりと足を踏み入れた。
原型を留めているとはいえ、住む者もいなくなり、手入れをされなくなった家は、大きく傾いたり半壊していたり…と、とても住めるような状態ではない。
それでも、人が生活していた頃の名残が随所に見られ、宇佐美は家の窓からそっと中を覗き込んだ。
家具や調度品などが置き去りのままになっている。ここを離れる時、持っていかなかったのだろうか?
(まるで夜逃げみたいだ…)
他の家はどうか分からないが、どの家も似たり寄ったりな気がした。
住民が出ていった後、もう長い間ずっと手付かずのまま…ここに放置されてきたのだろう。
そこには不思議な静寂があった。
「…」
微かに——枝を踏みしめる音がする。宇佐美は音がした方へ視線をむけた。
木立の間を、黒い影が横切る。
ついてこい——そう言ってるように感じた。
「——」
宇佐美は誘われるまま、影の後を追った。
集落の奥まで歩いていく。すると、その家は急に目の前に現れた。
宇佐美は驚いたように目を見張る。
(嘘だろう…)
そんなことってあるだろうか?
その家は、まるでつい最近まで誰かが住んでたのではないか——と思うくらい、しっかりとそこに存在してた。
周囲の家屋が、風雨に晒され荒廃が進んでいるというのに、その家は
生きている
——と感じる。これは一体…
黒い影が、家の中に入っていくのが見えた。
「…」
宇佐美は息を飲む。
ここだ——
あの家が——父の生家だ。
「——」
大きく息を吸うと、意を決したように宇佐美は歩き出した。
戸を開き、中を覗く。
一瞬、カビ臭い匂いがした。でもすぐに気にならなくなる。代わりに漂ってきた生活臭を感じて、眉をひそめる。もしかしたら、ホームレスでも住み着いていたのだろうか?
廊下の先を黒い影が横切るのが見えて、宇佐美は靴のまま上がり込んだ。床板が軋み、ヒヤッとする。
このまま床が抜けたりしないだろうか?
ギシギシと軋ませながら、恐る恐る黒い影が入った部屋を覗き込む。
そこは和室だった。
真新しい畳の匂いがする。床の間には花瓶があり、花が活けてあった。微かな線香の匂い。
ここは仏間だ。
閉ざされている襖の向こうには、黒い大きな仏壇がある。
何故か、一度も来たことがないはずの家の間取りが頭の中に浮かんできた。
(これは…誰の記憶?)
室内に佇み、周囲に耳を澄ます。
背後で気配を感じた。冷えた空気。それがうなじに触れる。
「——」
宇佐美は息を吸うと、静かに言った。
「いるんだろう?そこに」
返事はない。でもいるのは分かっている。何度も感じた。あの嫌な気配。
「お前の事はもう知ってる…姿を見たいんだ。振り向くよ?」
宇佐美はそう言うと、ゆっくり背後を振り返った。
黒いシルエットが、ぼんやりと佇んでいる。全身に影が差しているが、顔の識別はついた。叔父が古いアルバムを開いて見せてくれた。あの写真の男だ。
宇佐美征一。俺の——父親。
「やっと会えたな。やっと…姿を見ることが出来た」
宇佐美はそう言うと、じっと俯く影の男を見た。ヤツの周りからは、暗い闇が滲み出てくるようだった。それが冷えた空気を伴って、足元に流れてくる。
宇佐美は、自分によく似たその陰に向かって言った。
「お父さんって呼ぶべきかな?」
男は俯いたまま、ゆらゆらと揺れている。
「でも…悪いけど俺にはそんな感情、微塵もないよ」
何の感情も湧いてはこない。親子感動の対面とは程遠い。あるのはただ、絶望的なまでの虚無感だけだ。
「待ってたんだろう?この時をずっと…
俺がお前に追いつく日
を」足元の床が軋む。先程まで感じていた真新しい畳の匂いが消え、線香の匂いが強くなる。
「俺、叔父さんに会ったよ。彼は実の兄を、人でなしだって言ってた。お前は死神だってさ」
宇佐美はそう言って笑うと、「母さんを殺したのはお前か?」と問いかける。
「あの日ベランダにいたよな?俺にも会ってる。なんで…」
宇佐美はにじり寄った。床板が軋む。
「なんであの時、俺も殺さなかった?俺も殺せばよかったじゃないか!目の前であんな風に母親に死なれて——」
男の体から、陽炎のような黒い炎が立ち上る。
「絶望してる俺を見て満足したか?大事な人を奪って喜んでいたのか?」
床の間に飾られていた花瓶の花が、ゆっくりと萎れていく。室内の様相が、徐々に変わりつつあることに、宇佐美は気づいていなかった。
「俺がどんなに傷ついても、生かしておいたのはこの日の為か?」
問いかけても返事はない。負の感情をぶつければぶつける程、闇が濃くなっていく。
「希望を得てもそれを奪って絶望させて…どんなにあがいても、お前の歳は越せない。そこで全てが終わりになるように、ここまで導いて——最期は」
宇佐美はそう言うと、じっと天井を見上げた。
梁にロープが一本括られていた。先が輪になっている。
それを見て、宇佐美は小さく笑った。
「最高のプレゼントだな…」
宇佐美は近くにあった木箱を手繰り寄せた。自分が何をしようとしているのか分からない…
(いや、分かってる——よせ!やめろ!)
「…」
宇佐美は木箱を梁の下まで持ってくると、それに乗ってロープを掴んだ。
ロープは梁にしっかりと括られている。これなら、人ひとりの重さを十分に支えられるだろう。
宇佐美はじっと男を見下ろした。男の目には何の感情も無い。ただの空洞だ。光すら届かない、深い闇。
あるのは死の静寂だけ…
宇佐美は言った。
「あの人には絶対に手を出すな。もし彼に手を出したら、その時はたとえお前が死神でも、俺が殺してやるからな」
そしてゆっくりと、ロープを首にかける。
静かに息を吸い込み、目を閉じた。
眼下に、倒れている母を見た。
あの日から、救えなかったことをずっと後悔していた。
どうしてあの場を離れたんだろう。
もっと早くヤツの存在に気付いていれば…
母だけじゃない。彼女だってきっと救えたはず——
「ごめんね…」
涙が頬を伝う。
躊躇うことなく、宇佐美は木箱を蹴飛ばした——
「宇佐美——ッ!!」
突然、激しい衝撃を受けて、宇佐美は背中から床に倒れ込んだ。と同時に、凄まじい屋鳴りがして、辺りが大きく揺れる。
体の痛みを感じるよりも早く、宇佐美は野崎に抱き起されると、そのまま屋外へと連れ出された。
外に飛び出すのとほぼ同時に、家屋が一気に倒壊する。野崎は、猛烈な勢いで襲い掛かってくる瓦礫から宇佐美を庇う様に蹲った。
——
———
——————どのくらい、時間が経っただろう。
野崎は咳き込みながら、体に付いた瓦礫の破片を振り払うと、足元に蹲る宇佐美を抱き起した。
「おい…大丈夫か?」
「——ッ!」
宇佐美も激しく咳き込むと、しばらく苦しそうに肩で息をついた。そして喉をさすりながら野崎を見ると、微かに笑ってみせる。
「よかった…」
それを見てホッと息をつくと、野崎はその場に座り込んだ。
「まったく…自分が何をしようとしてたか分かってるのか!?」
「ごめん…」
俯いて軽く咳き込む宇佐美に、野崎は言った。
「お前の意思じゃないと思いたいけど…あと少し駆けつけるのが遅かったら——」
そう思うとゾッとする…という様に首を振る。そして、すっかり崩れ落ちた家屋の残骸を見て言った。
「ヤツには会えたのか?」
宇佐美は黙って頷いた。
「そうか…」
そう呟いて再び問いかける。
「ヤツは?消えたの?」
その問いに、宇佐美は「分からない…」と首を振った。
「成仏したのかな…」
野崎の呟きに、宇佐美は「死神は成仏なんてしない」と言って、かつて家があったその場所をじっと見つめた。
「死にたいと思う人の数だけ存在するんだ」
時に姿を変え、形を変え——弱い人の心に忍び寄る。
あれは、自分が見た死神の姿。
父の姿をした、弱い自分の姿だ———
項垂れる宇佐美を見て、野崎は言った。
「ヤツは目的を果たした訳じゃないのか——なら…また俺たちの前に現れるんじゃ?」
「かもね…執念深いヤツだから、俺が死ぬまで諦めないかも」
力なく笑う宇佐美を見て、野崎は「そうか…それは困ったな…」と言って苦笑した。
「お前が死のうとするたびに駆けつけるわけにもいかないし…」
どうしたもんかな…
そう呟いてしばらく黙っていたが、「でも——」と言って宇佐美を見た。
「お前の所に
野崎は言った。
「自分を許してやることだよ、宇佐美」
「…」
宇佐美の肩が微かに震えた。
「母親が死んだのはお前のせいじゃない。お前が傍にいてもいなくても…結果は変わらなかったと俺は思う」
「…」
「ヤツが殺したかどうかなんて俺には分からない。でも、お母さんは心を病んでいた。死にたいと思う人間を、救うことは難しい…どんなに救いたくても救えないことだってある」
宇佐美は野崎を見上げた。
「例えそれが医者でも…息子であっても——」
「…」
じっと自分を見上げる宇佐美の目を見て、野崎は言った。
「それでも自分なら何とかできたって思うか?なら思い上がるなよ。お前の能力は万能じゃない。現にお前も死のうとしてた。俺が止めなきゃ——今頃あそこで首括ってた」
「…野崎さん」
「彼女の事は俺には分からないけど…でも彼女はお前を責めたりしたか?」
宇佐美は黙って俯いた。
「お母さんは?お前を責めた?責めてないよな…俺だってそうだ」
「…」
「誰もお前を責めてない。お前はもう十分苦しんだ。そうだろう?だからもう許してやれよ」
「野崎さん…」
「お前は悪くない」
「…」
「お前のせいじゃない——」
宇佐美は、溢れる涙を必死に拭った。その様子に野崎は小さく笑うと、「そういえば、まだ言ってなかったな」と呟いて、誇りまみれの宇佐美の頭を軽く撫でて言った。
「誕生日おめでとう」
「———」
その言葉に、宇佐美は堪え切れず声を上げて泣いた。
闇の中から光の方へ這い出して叫ぶ——
それはまるで、この世に生を受けて初めて上げる産声のようだった。
野崎は何も言わず。
ただ、赤子のように泣きじゃくる宇佐美の肩を優しく抱き寄せた。
木々の隙間から覗く青空をそっと見上げる。
張り詰めていた空気が、ほんの少し緩んだような気がした。