過去 #3

文字数 5,456文字

 週明け。
 野崎は署の談話室にいた。
 メンタルを心配した岸谷に、産業医との面談を勝手に申し込まれ、今しがたその面談を終えたばかりだった。
 その産業医から、少し休暇を取ってはどうか?という提案をされ、野崎は不承不承受け入れた。
 確かに。やらなければならないことはたくさんある。
 片づけなければならないことも…
 離婚は思っていた以上に大変な作業だった。子供がいないからまだいいが、これで子供がいたら、やれ親権だの養育費だのと、揉める要素はたくさんある。
「…」
 野崎はため息をついた。
 春先からずっと、目まぐるしく状況が変わっていることに気持ちが追い付かない。
 今年は厄年だったろうか…そんな事を考えていると、スマホに着信があった。
 メッセージが一件。
 珍しく宇佐美からだ。

 >ご無沙汰しております。

 これもまた珍しく、きちんとした挨拶から始まっている。

 >本当はちゃんと会ってお話をしたいのですが、報告だけにとどめておきます。ご容赦ください。
 例の件。正体が判明しました。

「え?」
 野崎は思わず声に出した。

 >野崎さんの予想は当たっていました。幽霊と自分とは関係があります。
 >幽霊は、俺の父親です。

「——」
 野崎は椅子の背にもたれると、大きく息をついた。
 経緯が見えないが、宇佐美なりに何か調べたのだろう。
(奴の…父親)
 でもそれが何故?

 >ここから先は自分が動きます。彼を必ず止めるので、安心して下さい。
 >それと

 その後、しばらく置いてから

 >余計なことを言って、すみませんでした。

 それっきり、言葉は途切れたまま。なにも言ってはこない。
 野崎は黙ったまま、流れてきたメッセージをただ見つめていた。
 自分が動く?一人で片を付けるってことか?
「…」
 スマホの画面を睨みつけたまま、野崎はじっと考え込む。
 あの場で、子供の影の存在を教えたことは、恐らく宇佐美にとっては不本意だったのだろう。
 それがきっかけで離婚に至ったことに責任を感じているのか。
 だから奴なりに気を使っているつもりだろうが——
(冗談じゃない!)
 野崎はメッセージを送信した。

 >きちんと話したい。会って話をしよう。

 だが既読が付かない。当然返信もない。
 野崎は腹が立って直接電話を掛けた。だが繋がらない。
「出ろよ…」
 椅子から立ち上がり、部屋の中を歩きながら何度も呼び出すが、一向に出る気配がない。
 クソッ!と舌打ちして、メッセージを送った。

 >家にいるのか?なら今からそっちに行くぞ!

 するとすぐに返事が返ってきた。

 >あの公園にいます。

 野崎はそれを確認すると、談話室を飛び出した。


 宇佐美は、河川が見える遊歩道脇のベンチに腰かけていた。
 近づく足音に気づいて振り向く。
 スーツではなく普段着姿の野崎に少し驚いて、宇佐美は立ち上がると軽く頭を下げた。
「家に来られちゃマズいと思って、慌てて返事を寄越してきたな」
 野崎はそう言って笑った。
「…」
 宇佐美は困ったように顔をしかめる。
(だから自宅を知られたくなかったのに…)
 そう思い、気まずそうに俯く。
 二人はベンチに並んで腰を下ろすと、しばらく黙ったまま——遠くの山並みを見つめた。
 秋の日は短い。午後三時を回ると、辺りには夕刻の気配が漂い始める。
 西日も淡く滲んで広がり、川面を照らしていた。時折、風が頬を撫でていく。
「宇佐美のせいじゃないから…」
 不意にそう言われて、宇佐美は視線を向けた。
 野崎は遠くを見たまま、そう呟いた。
「遅かれ早かれそうなってた…ずっと——問題を先送りにしていただけで、見て見ぬふりをしてきたんだ」
「…」
「こんなきっかけでもなきゃ、きっと今もズルズルと誤魔化しながら生活してたと思う」
 野崎はそう言って宇佐美を見た。
「子供の事は——だいぶ想定外だったけど…」
「野崎さん…」
「でも、知れてよかった」
「…」
 宇佐美は申し訳なさそうに頭を下げた。その様子を見て、野崎は言った。
「俺はあの子を助けてあげられなかったのに——あの子は俺を助けてくれたんだ」
 そして、信じられるか?という目をして宇佐美に笑いかける。
「お前には影にしか見えなかった子が、俺にはちゃんと見えたんだぜ?」
「え?」
「顔もはっきりと覚えてる。可愛い女の子だった…彩子に少し…似てたかな」
「——」
 驚いたような顔をしている宇佐美に、野崎はあの日あったことを話して聞かせた。
「もう少しでベランダから飛び降りるところだった」
 その話に宇佐美はゾッとして震えあがった。
 もしかしたら近くに…ヤツがいたのではないか——母の時と同じように。
 野崎のすぐ隣に——
(そうか…でもあの子が、助けてくれたんだ)
 宇佐美はホッとしたよう息をついた。
「それで?」
 野崎に聞かれて、宇佐美は首をかしげた。
「幽霊はお前の父親なんだろう?どうやって調べた?それに…なんで息子であるお前を襲うんだ?目的は?」
「——」
 宇佐美は何から話そうか、少し考えてからポツリポツリと話し始めた。
 霧が晴れて見えてきたもの。
 母の呪文で忘れていたもの。あの場所へ置いてきた記憶が、今はハッキリと思い出せる。
「俺は父親の事をほとんど知らない」
 宇佐美は言った。
「あまり家にいなかったし、いても静かで…影みたいな人だった」
 幼い自分の記憶の中にいる父の背中は、いつも黒い影のようだった。
「近寄るのが怖かった。だからいつも、離れた所から背中を見ていた。母は腫れ物にでも触るみたいに、いつも父の側にいて…俺をあまり近づけないようにしていたみたいだ」
「…」
「うちには、死んだ父の仏壇がなかった。写真も何も…母は、初めからそんな人、存在しなかったみたいに消そうとしてた。だから俺も聞けなかった。父親の事。聞いちゃいけないような気がして…」
 宇佐美は、目の前の広場でボール遊びをしている子供たちをぼんやりと見つめながら続けた。
「だから知りたいと思ったんだ。父親の事。そいつが関係しているんじゃないかって気がして…自分の本籍地が山梨だって分かったから、調べてきたんだ。そこで初めて知ったよ、父親の名前。俺…それすら知らなかったんだな」
 そう言って笑う宇佐美を、野崎は何も言わず見つめていた。
「父には弟がいることも分かった。その人はまだ存命で、長野に住んでた。俺が会いたいと言ったら、会って話をしてくれた。写真を——見たよ。父の」
 宇佐美の表情が曇る。
「気味が悪いくらい、俺に似てた…いや、俺が似てるんだな。叔父が腰を抜かすほど驚いたのが分かるよ」
 そして野崎の方を見る。
「父が死んだのは40の時。そうだよ…俺はもうじき、彼と同じ年になる——」

 川面を渡ってくる風が少し冷たくなってきた。
 それでも、二人はベンチに腰かけたまま話を続けた。
「父は重度の精神疾患を患ってて、入退院を繰り返していたみたいだ。だから家にいないことが多かったんだな。分かればどうってことない。母の態度も、俺に対する気遣いも…全部、そういう状態の父親を見せたくないし、教えたくなかったんだ」
 そして、あの日見た光景をまざまざと思い出す。
「父は自宅の梁で首を括って死んでた」
「——」
「ぶら下がってる、黒い影を覚えている。人の体って、こんなに伸びるんだってくらい細く伸びて…ユラユラ揺れていた」
 野崎はふと、いつかの内田巡査の証言を思い出した。
『細長い影が、柳みたいにユラユラ揺れていた』
「母が慌てて俺の目を塞いだ。『忘れなさい』って言いながら」
「宇佐美…」
「だからずっと忘れてた。けど——」
 宇佐美は大きく息をつくと「もうその声が聞こえない」と言って小さく笑う。
「母はずっと俺を守ってくれていた。ヤツから——父という死神から」
「死神?」
「そうだよ。ヤツは親だけど親じゃない。ヤツは——」
 清次の言葉が蘇る。
「死神だよ」
「死神——」
 そうだよ…と呟いて、宇佐美は野崎の目を見た。
「ヤツはただ、人を死に導いてるだけ。弱い心を持った人間に近づいて、死ぬように導いてるだけだ」
「それが、ヤツの目的?」
 野崎は言った。
「弱っている人に近づいて、死ぬように仕向けている——死神が犯人だってこと?」
「——」
 宇佐美は黙って頷いた。だが、ヤツにはもう一つ別の目的がある。
 ヤツの本当の目的。
 それは恐らく…
「ヤツは、ずっと長い間考えていたんだと思う。どうすれば…そいつが絶望して死ぬことができるだろうって」
「——」
「相手だけじゃない。ヤツ自身も、その苦痛を一緒に味わうことで喜びを感じるんだ。激しい絶望を感じれば感じるほど…激しい痛みを感じれば感じるほど…ヤツにとって、それは快楽なんだよ」
「宇佐美…」
「分からない?ヤツは俺を———」
 宇佐美はすがるように野崎を見て言った。
「血を分けた息子を、どう殺そうかずっと考えてきたんだ。最高の状況で、最高のタイミングで、絶望して死んでいくためにはどうすればいいか、ずっと」
「そんな…なんで?なんでそんなこと」
「死神だからだよ。実の弟がそう言ったんだ。兄は死神みたいだって。人でなしだって。人でなしは人じゃない。そうだよ、人じゃないんだ」
 俺は人で無しの息子だ——宇佐美はそう言うと、きつく目を閉じて俯いた。
 野崎は何も言えず、放心したように虚空を見つめた。
 こんな途方もない話、いったい誰が信じる?
 死神が犯人で、それは宇佐美の父親で、しかもそいつは息子を殺そうとしている——だって?
 今までの事がなければ、単なる妄想話だ。
 自分だって、少女の姿をあんなにハッキリと見ることがなければ、絶対に信じたりはしない。
(これは本当に現実世界の出来事なのか…?)
 目の前で見ているのに。それでも信じられずに戸惑っている自分がいる。
 野崎が言葉に迷っていると、「ヤツを止めないと」と、宇佐美が呟いた。
「これ以上、奪われてたまるか」
 宇佐美は膝の上できつく拳を握りしめると、じっと川面を睨みつけた。
「ヤツは俺から母を奪って、恋人を奪って、今度は友を——」
「…」
「俺から大事なものを全部奪っていくつもりだ」
「宇佐美…」
「そんなことさせるか。絶対に止めてやる!俺はヤツを——」
 宇佐美の感情が暴走しそうになるのを見て、野崎はそっと肩に手を置いた。
「落ち着けよ」
「——」
 低く落ち着いた声色に、宇佐美は我に返った。
 優しい眼差しを向けられ思わず下を向く。
 野崎はそんな宇佐美の様子に小さく笑うと、肩を軽く叩いた。
「ヤツが今どこにいるのか分かっているのか?」
「…見当は…ついてる」
「そうか。当たりは付いているんだな」
 宇佐美は頷いた。
「それで——黙って顔も合わさず、一人で勝手に片を付けにいくつもりだったんだろう?」
 野崎にそう言われ、宇佐美はバツの悪そうな顔をした。
「図星か」と野崎は笑った。
 両腕を組んで、やれやれと首を振る。
「まったくお前は…どうしてそうなるかなぁ…」
 宇佐美が黙り込んでいるのを見て野崎はため息をつくと、しばらくじっと何かを考えていたが、「よし——分かった」と決意したように小さく頷いて言った。
「俺も行くよ」
「え?」
 驚く宇佐美を尻目に、野崎は構わず続けた。
「ちょうど今、休暇を取る手筈になってる。グッドタイミングだな」
 だが宇佐美は首を横に振った。
「駄目だよ。何が起こるか分からないし、あなたを守れるか自信もない」
「守ってもらおうなんて思ってないよ」
「でも」
「俺は何の役にも立たないかもしれないけど、でももしお前に何かあったら、その時は誰がお前を助けるの?」
「…」
「こういう時は一人より二人だ。互いの存在が抑止力になることもある。それに——」
 野崎は宇佐美を見てニヤッと笑った。
「もしヤツが俺を狙ってくるなら、近くにいた方が好都合なんじゃない?いざとなったら、俺を囮に使えばいいし」
「野崎さん…」
 困惑した目で宇佐美は言った。
「どうしてそこまで——だってあなたは…こういう事は信じないって」
「…」
「なんで、そうまでして付き合ってくれるのか…分からない」
「——」
 野崎はしばらく黙っていた。徐々に日が傾き、風も冷たくなってくる。
 あの焼身自殺があった河川敷周辺の夏草はすっかり刈り取られ、秋の佇まいを見せていた。それをぼんやりと見つめたまま、野崎は言った。
「さぁ…なんでかな。俺にもよく分からない」
「…」
「出会って早々、自分の人生観を変えられたからかな?変な影を見たり、襲われたり。嫌でも信じざるを得ないよな」
「——」
「でも多分そんな理由じゃないんだ。友達が困っているなら助けたい。そんな気持ちに近いと思う」
 そして宇佐美に目を向ける。
「俺たち、もう見ず知らずの他人ってわけじゃないだろう?お互い乗り掛かった舟だし、どうなるのか——結末を見届ける権利は俺にだってある」
「…」
「お前ひとりに手柄を取られるのも癪だし」
「そんな!」
「それに!」
 ムキになって反論しようとする宇佐美を、野崎は軽く手で制して言った。
「それに——お前ひとりを危険に晒すのも俺の本意じゃない」
「——」
「だから一緒に行く」
 宇佐美は何も言えず俯いた。野崎はその様子をじっと見つめていたが、ふいに顔を覗き込むと、少しおどけたように言った。
「納得して頂けましたか?宇佐美さん」
 下から覗き込まれ、宇佐美は思わず苦笑した。それを見て野崎も笑う。
 笑いながら、軽く宇佐美の肩を叩いて言った。
「ケリ付けに行こうぜ」
 その言葉に宇佐美は仕方なく頷くと、諦めたような顔をして呟いた。
「やっぱり…あなたには適わないよ」
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登場人物紹介

野崎祐介【のざきゆうすけ】

45歳。所轄の刑事。階級は警部補。既婚。子供なし。淡々と物事を進めていくタイプ。一見クールに見えるが時に熱くなる一面も。彼のモデルは同年代の頃の竹野内豊。彼の台詞は竹野内で読んでください(笑)

宇佐美尚人【うさみなおと】 

39歳。フリーライター。両親とは死別。独身。霊感があり見えたり聞こえたりする。生い立ちが特殊なため、家庭環境には恵まれず、人に上手く甘えることが出来ないまま大人になった面倒くさい男。見た目9割成功だけど1割の残念な部分で損している可哀そうなイケメン。

神原悟史【かんばらさとし】

69歳。元大学准教授。現在はオカルト雑誌専門の出版社社長兼編集長。鋭い直感力を持っているが、年のためその力は衰え始めている。大学時代の教え子である野崎の捜査協力者として力を貸していたことがあった。少々変わり者。

白石和之【しらいしかずゆき】

45歳。所轄の刑事。階級は巡査部長。野崎とは同期でバディを組んでいる。ゲイ。パートナーと暮らしているが上手くいってないらしい。幽霊苦手。怖い話大嫌い。宇佐美に気がある。

望月【もちづき】

50歳。独身。神原の出版社で働く女性社員、編集者。

神原智子【かんばらともこ】 

63歳。悟史の妻。バレエ講師をしていたことあり。明るく朗らか。子供がいないので野崎や宇佐美を息子のように可愛がっている。料理上手。

小さな影【チイサナカゲ】 ???

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