第12話 冷酷王子と町娘

文字数 1,782文字

 その瞬間、心の奥底にある光が一瞬だけ輝いた。それは、あの不思議な声が教えてくれたことを思い出させた。私にできることがあるなら、それを全力でやるしかない。たとえその結果がどうであれ、私は自分の意志で前に踏み出すことを決めたのだから。

 躊躇せずに彼の身体を背後から強く抱きしめ、必死に彼に伝わるように祈りながら、耳元で囁き続けた。

「わたしのこと、救けてくれてありがとう……。あなたの過去に何があったのか、わたしにはわからない。どうしてあの人を憎んでいるのかも知らない。でも、もういいの。やめよう……」

 その言葉は心からのものだった。彼を決して離したくないという気持ちが込められていた。

「弓鶴くん、お願い」

 瞳が涙であふれかえっていることさえ、自分でも自覚していなかった。涙が頬を伝い、感情が溢れていた。彼の冷たい身体を抱きしめるその手が、震えていた。

 背中に広がる黒い何かは依然として不気味に蠢いていたが、私は怖れを振り払い、命を預けるような思いで心から彼を呼び続けた。

 その瞬間、彼の身体がびくりと震えたのを感じた。私の願いが少しずつ彼の心に届いているのか、殺意に満ちた言葉が途切れた。その一瞬に希望を見出し、さらに彼の名を呼び続けた。

「お願い、弓鶴くん、戻ってきて!」

「うっ、ううっ……」

 彼の口から小さなうめき声が漏れ、心が震えるような感覚が広がった。肩から力が抜けるのを感じたその時、背中の黒い何かが音もなく消え失せ、彼は力なく崩れ落ちた。

「あっ、わっ、わっ」

 慌てて右腕を回して彼を抱き止める。彼の身体は意外にも軽く感じられ、彼の体重を支えながら、心の中でほっと一息ついた。

「あぶない、あぶない……」

 ほっとして、へたりこんでしまった。そして、彼の頭を優しく自分の膝の上に横たえた。膝枕の上で彼の呼吸が穏やかになっていくのを感じ、私の心も少しずつ落ち着いていった。

 気づけば周囲を遮断していた障壁も消え去り、そよぐ海風が優しく頬を撫で、遠くから海鳥の鳴き声が届いていた。

「もう大丈夫だよ、弓鶴くん」

 心臓はまだドキドキと早鐘のように打ち続けていたが、彼が無事であることを確信し、ほんの少しだけ安堵のため息を漏らした。

 そして思った。

(よかった……。わたしの声が届いたかどうかはわからないけれど、弓鶴くんは戻ってきてくれた……)

 彼の顔を見ると、先ほどまでの狂気と苦悶に満ちた姿が嘘のように、今はとても穏やかで美しいものに包まれていた。話しかけたくなり、そっと口を開いた。

「弓鶴くん、あなたってどんな人なの? 君のこと、もっと知りたいな……」

 彼の寝顔は美しく、無防備に眠る子供のように愛らしかった。思わず微笑んでしまった。

 触れた指先に彼の温もりを感じながら、そっと髪を撫でた。彼の息遣いは穏やかで、まるで平和な夢の中にいるようだった。

「弓鶴くん……」

 彼の名前をもう一度囁き、私はそのまま彼を見守り続けた。海風が包み込み、遠くの海鳥の鳴き声が響く中、私の心は静かに落ち着きを取り戻していった。

 その一瞬、何かが私の脳裏を過った。

 それは何度も見た夢の情景のリフレインだった。長い黒髪の少女の姿と、背中越しに聴こえてくるすすり泣く声。

「それはないって。だってどう見たって男の子だし」

 夢の中で佇んでいた人物とは、性別も容姿もまったく一致しない。当然といえば当然だ。

 しょせん夢だなと私は思った。けれど、すべてが外れではない気もしていた。

(やっと見つけたのかも……)

 一度死んでしまった自分が、新しい自分に生まれ変わるきっかけ。それが私の探し求めていたものだった。今はまだ漠然としている何かを、彼に対して感じ取っていたのかもしれない。

(それにしても……どうしてこんなことになっちゃったんだろう。もしかして、わたしって大変なことに巻き込まれてしまったんじゃ? あああ、気が重い……)

 心の中でぶつくさ言う私だった。

 ふと、耳に微かな囁きが届いた。気のせいかと思ったが、耳を澄ませてみると、確かに彼の唇が微かに動いていた。

「ん? なあに?」

 微笑みながら彼の手を優しく握り、私はその時の静かな安心感を大切にした。

 まだこの時、私は自身に待ち受けている数奇な運命について知る由もなかった。この出会いはその最初の一歩に過ぎず、紡がれる物語はまだ始まったばかりだった。
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登場人物紹介

わたし=加茂野 茉凜 かもの まりん

 年齢十六歳で身長は百七十三センチ。高身長女子ならではの悩みを抱えている。表向きは明るい性格でとてもポジティブ。逆境こそ燃えるタイプ。でも、心はありきたりの女子なので、思い悩むことも多々ある。

 自分より少しだけ背が低い弓鶴くんが気になっている。


 一年ほど前に落雷事故に遭って、奇跡的に生還したものの、左腕から先は不自由になっている。特に左手はほとんど動かない。

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