第５話　冷酷王子と町娘と深淵からの使い

　わたしが、自分の名前を口にしようとしたその時だった……。

「やあ、こんにちは」

　突然、背後からかけられたその声に、わたし驚いて振り返った。

　そこには、細身で長身の青年が立っていた。彼の長い黒髪が風に舞い、その優雅な姿は夕焼けの光に照らされて、まるで画の中のように美しく輝いていた。身長は百八十センチ以上あり、スラリとした体形がまるで画家が描いたような完璧なシルエットを成している。メガネ越しに見える彼の瞳は、シャープで知的な輝きを放っていた。

「ここって、とてもいい場所だね」

　彼はそう言って、優しげな微笑みを浮かべながらわたしたちの方へと歩み寄ってきた。その微笑みは、心を包み込むような温かさがあり、思わず引き込まれてしまった。

「街の人に、ここの夕焼けがきれいだって聞いたから、足を運んでみたんだ。本当に来てみて正解だったよ」

「わたしも旅をしていて、この場所を探して来たんです」

　わたしは少し緊張しながらも礼儀正しく答えた。彼の落ち着いた雰囲気には不思議な魅力があり、つい好奇心が湧いてくる。

「へえ、そうなんだ。よろしくね」

　彼はそう言って、わたしに向かって微笑み続けた。その笑顔には、心の奥深くまで触れるような不思議な力があった。

「この情景はとても郷愁を誘われるね。君もそう思わないかい？」

　その問いかけに、わたしは驚きながらも心が動かされるのを感じた。

「はい……そう思います」

　彼の言葉には、何か深い意味が込められているように感じられた。彼の視線は、わたしの心の奥底を見透かすようで、わたしはその視線に少しだけ戸惑いながらも心を奪われていた。

「なんだろうね……。大切な思い出はもちろん、思い出したくもない忌まわしい記憶までが否応なしに蘇ってくる……。まあ、いい意味でも悪い意味でも、そうした経験の積み重ねが今の自分を形作っているんだけれどもね」

　その言葉がわたしの心に深く刺さり、胸に痛みを感じた。彼の言葉には、わたし自身の感情と共鳴する部分があった。

「そちらの君はどうだい？」

　彼はわたしを見つめ、含み笑いを浮かべた。その表情には何か隠された意図があるようで、わたしの不安を呼び起こした。

　すると、弓鶴くんが青年に鋭い目線を送り、強い口調で問いかけた。

「貴様、一体何者だ？」

　わたしは弓鶴くんの反応に驚き、彼の不安げな様子に心が重くなった。弓鶴くんの眼差しからは、強い警戒心が伝わってきた。

　青年はその笑みを崩さずに答えた。

「僕かい？ ただの観光客だけど？」

　弓鶴くんは眉間に深いシワを寄せ、その強い警戒の眼差しを青年に向けていた。わたしの心は混乱し、状況がどんどん不明瞭になっていくのを感じた。

「それはどうかな？その足の進め方、重心の移動、呼吸の仕方、どれもが妙だ。時代がかった所作が滲み出ている。年齢と着衣からして、あまりに不自然だ」

　青年は「ほう」と感嘆の声を上げた。

「君はそんなことが分かるんだ。なかなか変わっているね。僕はね───」

　青年の笑みがわずかに陰る。

「───ただ君と話がしたいだけなんだ。柚羽 弓鶴(ゆずは ゆづる)くん」

　その言葉を聞いた瞬間、わたしは驚愕した。初対面に見えたのに、どうして弓鶴くんの名前を知っているのか理解できなかった。

　弓鶴くんの表情には明らかな動揺が見え、すぐに冷徹さを取り戻したものの、その目にはわずかな恐怖が宿っていた。わたしの心臓は激しく鼓動し、彼の心情が痛いほど伝わってきた。

「何故、俺の名を知っている？」

「君には、もうその意味はわかっているよね？」

　すると弓鶴くんはわたしを指さした。

「どうしても話をしたいというなら、まず人払いをしてもらおうか。こいつは俺とは何の関係もない」

　そう言ってわたしに向かって顎を突き出した。わたしは困惑し、彼の意図がわからずに動揺した。

　青年は、優しい口調のまま言葉を続けた。

「それはだめだね」

「貴様……」

　弓鶴くんは怒りをあらわにし、手を震わせながら青年を睨みつけた。その表情には、明らかな緊張と決意が感じられ、わたしの不安はピークに達した。

「彼女にはここに留まってもらった方が何かと都合がいいからさ。わかるよね？ この間合い、僕なら【どうとでもできる】ってこと」

　青年はわたしに向けて笑みを向けた。その笑顔には、寒気を感じるほどの不気味さがあった。わたしの胸は押しつぶされそうなほどの恐怖でいっぱいになり、言葉が出ないまま震えが止まらなかった。

「そういうわけだから、君にはそこで話を聞いていてもらえないかな？」

　その言葉にわたしは不安を隠せず、恐怖を感じた。とても黙ってはいられなくなった。

「どういう意味なんです？ わたしにはあなたの言っていることがさっぱりわかりません。関係のない話だったらお邪魔でしょうから、帰らせてもらいます」

「別にいいけれど、どうなっても知らないよ？」

「どうなるっていうんですか？」

「さあ、それはそこの彼が一番良くわかっていると思うけれどね」

　青年の言葉には冷ややかで決定的な響きがあり、その意味を理解しようとするほどわたしの心はさらに不安でいっぱいになった。弓鶴くんの表情が緊張から苦悩へと変わっていた。

「さてと───」

　青年は弓鶴くんに向き直り、話し始めた。その冷静な口調が、わたしの心をさらに混乱させる。

「───まずは自己紹介をしておこうか。僕の名は洸人。鳴海沢 洸人(なるみざわ ひろと)。よろしくね、弓鶴くん」

　彼の言葉はまるで静かな湖面に投げ込まれた石のように、心の中に波紋を広げた。わたしの心は激しく揺れ、事態がさらに複雑になっていくのを感じた。

「やはり、貴様、【深淵(しんえん)】の者だったか……」

（しん、えん……？ なんだそれ……？）

　弓鶴くんが口にした言葉が、わたしにはまったく意味がわからず、心臓がドキドキと高鳴った。状況の深刻さに気づいたわたしは、どうにかしてこの場を離れようと必死になった。