第1話 加茂野 茉凜が旅する理由

文字数 2,862文字

 ディーゼルエンジンの振動が、車体全体に優しく響き渡る。ガタンゴトンとレールのつなぎ目を越えるたびに、心地よいリズムが耳に届く。たまに、大きな横揺れが来て、思わず体が大きく揺さぶられる。この二両編成の列車は、車掌もいないワンマン形式で、自動ドアではなく、降りる人が自分でボタンを押して開ける仕組みだ。

 都会で育ったわたしにとって、こうしたローカル列車の旅はまるで異世界のように感じられる。心の奥が少しだけ弾むような興奮を覚えながら、わたしはベンチシートの中央に腰を掛け、車窓から流れる景色を楽しんでいた。

「さてと……」

 わたしは膝の上に抱えたディバッグの中に手を入れ、タブレット端末を取り出した。画面をタップすると、大きな地図が映し出された。所々に配置された、注釈付きの小さな写真アイコンが浮かんでいる。それは旅行計画用のアプリケーションだった。

「もうすぐ石与瀬だね」

 あと三十分ほどで、今日の目的地に到着する予定だ。

 俯いてタブレットを見つめていたわたしは、ふと右手でショートカットの前髪を軽くかき上げた。その瞬間、指先が躊躇いがちに左額の奥に触れた。

「……」

 触れたくないのに、どうしても気になってしまう。深いため息をついて、左手をじっと見つめる。その手が微かに震えていた。

 わたしが一人で旅をしている理由には、ある切ない過去がある。

 一年前、中学卒業を間近に控えたある日、突然雷に打たれた。その恐怖と痛みは、今でも鮮明に思い出せる。そこからどうなったのかは、全く記憶がない。

 意識を取り戻したとき、わたしはベッドの上で身体中にたくさんの管が繋がれていた。両親が面会に訪れて、自分が集中治療室にいて、死の淵をさまよい、一ヶ月以上も昏睡状態にあったことを知った。

 ショックによる心肺停止で即死の危険性もあったらしい。ただ、その現場が職員室のすぐ近くだったことが幸いしたようだ。駆けつけた先生がいち早く蘇生措置をしてくれたおかげで、奇跡的に生き延びることができたのだった。

 不思議なことに、身体には雷が侵入した左頭部の小さな傷以外、外傷はなく、電撃傷や火傷の跡も見られなかった。担当のお医者さんも首を傾げていた。

 しばらくして一般病棟に移ったわたしは、ダメージが思ったよりも大きいことを実感した。最初はほとんど身体を動かせず、物も呑み込むのが難しかった。それから長いリハビリ生活が続いた……。

 半年以上が過ぎ、退院の日を迎えた。しかし事故の記憶は、わたしの心に深い傷を残していた。そして身体には後遺症が残った。左肩から先はあまり力が入らず、握力もほとんどない。人差し指と中指はまったく動かせなくなっていた。

 一番辛かったのは、幼い頃から親しんできた自転車のスポーツ、バイクトライアルを諦めざるを得なくなったことだった。

 毎日学校から帰ると、父が庭に設けてくれた人工のセクションで練習するのが日課だった。課題を何度も試行錯誤しながらクリアする達成感が楽しくて、病みつきになった。週末には家族で遠征し、友達と技術を高め合う喜びを知った。

 けれど今、左手ではブレーキレバーすら満足に握れない。現実は残酷で、今まで積み上げてきた自分が、まるで消えてしまったかのように感じる。

 思い出すたびに、その記憶の苦しみがわたしを襲う。

 列車の揺れに身を委ねながら、未来のことを考えた。もう一度、何かに情熱を燃やせる日が来るのだろうか。

 ふと車窓の外に目をやると、遠くに広がる海がキラキラと輝いていた。

 もしも、【あの場所】に出会えたなら……何かが変わるのだろうか? わたしはそんな期待に胸がドキドキするのを感じていた。

 あの場所──それは事故以来、頻繁に夢に現れた情景だった。色彩が鮮やかで、あまりにもリアルなその夢は、脳裏に強く焼き付いていた。

 夕暮れの光が全てを包み込み、空と海が紅と紫の色合いで溶け合っている。まるで、夢の中にいるかのような感覚がわたしを包み込み、現実の境界がぼんやりと消え去っている。岬の先に立つ白い灯台は、柔らかく霞んでいて、まるで遠い記憶の中の風景が薄れたように浮かび上がっている。灯台の周りには、淡い霧が漂い、時間が止まったかのような静けさが広がっている。

 わたしの視界にふと入ってくるのは、ベンチに座る少女の姿だった。彼女の白いワンピースは夕陽の光に溶け込むように輝き、その柔らかな光が彼女を包み込んでいる。風に揺れる長い黒髪が、夕日の光を受けて、まるで墨絵のように繊細に舞っている。髪の動きが一つ一つ、まるで空気の中を流れる羽のように、夢の中の幻想的な風景をさらに引き立てている。

 少女の背中には、ひっそりとした孤独と淡い哀しみが漂っていて、その姿が、何か深い内面の物語を語っているように感じられる。彼女の体が少し前に傾き、目には遠くを見つめるような、物思いにふける様子が映っている。ベンチの周りには、枯れた葉が風に舞い、落ち着いた色合いの世界が広がっている。すべてが柔らかく、まるで夢の中の風景そのものであるかのようだった。

 耳に届くかすかな「ごめんね、ごめんね」という声が、わたしの胸を締め付ける。その声は、心の奥深くに沈んだ哀しみや後悔が込められているようで、わたしの胸に痛く響く。どうしてもその声から目を逸らすことができず、心の奥底で共鳴するその響きに引き込まれていく。わたしは彼女に近づこうとするが、夢の中でのその瞬間に、景色がふわりと消えてしまう。

 目を覚ますたびに、彼女の姿が心の奥に残り続ける。彼女は誰で、何を謝っているのか。その答えは、わたしの中に深く刻まれたまま、霧の中へと消えてしまうのだった。

 夢とわかっていても、そのイメージがどうしても頭から離れない。次第にわたしはある考えを抱くようになった。

 似たような場所があったなら、ぜひ訪れてみたい。もし出会えたなら、これから先に進むための何かのきっかけになるんじゃないか。わたしはそう思い立ち、候補地をいくつかピックアップして、その場所を探すために旅に出た。

「きっと見つかるよ。わたしはそう信じてる……」

 期待を込めて微笑みながら、タブレットをしまった。心の奥で少しずつ芽生え始めた希望のような感情に気づきながら、自分の気持ちを素直に受け入れようと決めた。

 今日の目的地、石与瀬が近づくにつれて、車窓から見える風景も変わっていく。広がる海が目に飛び込み、波が打ち寄せる浜辺や、所々に見える小さな漁村が、都会とは全く違う穏やかな時間の流れを感じさせた。

「間もなく石与瀬、石与瀬です」

 車内アナウンスが流れ、わたしはディバッグを背負い直し、小さめのキャリーケースを引っ張った。

 列車が停車する音と共に席を立ち、出口へと向かった。降車ボタンを押すとドアが開き、初めて訪れる石与瀬の駅に降り立つ。

 わたしは深呼吸をして、澄んだ海の香りをいっぱいに吸い込んだ。

「さあ、行こうか」

 自分に言い聞かせながら、わたしは駅舎を抜けて街の中心へと歩き始めた。
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登場人物紹介

わたし=加茂野 茉凜 かもの まりん

 年齢十六歳で身長は百七十三センチ。高身長女子ならではの悩みを抱えている。表向きは明るい性格でとてもポジティブ。逆境こそ燃えるタイプ。でも、心はありきたりの女子なので、思い悩むことも多々ある。

 自分より少しだけ背が低い弓鶴くんが気になっている。


 一年ほど前に落雷事故に遭って、奇跡的に生還したものの、左腕から先は不自由になっている。特に左手はほとんど動かない。

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