(Stuck)in the mud

文字数 1,415文字

散り方が分からない。最も心を打つ、後ろへ後ろへと心が引き延ばされていくような、いわば見限ってしまえば柔らかな部分が後追いでしくしくと傷みだすような、散り方。ゆえに、泥である。散り方の埒が明かないために泥として丸まっているのだ。それにしても後追いは、いい。想いが倍加され、穿たれた空隙から潤んだ瞳が閉じたり開いたり、それが後追いの残像である。余韻を残す散り方とは何ぞや、散り方の理想像ないし流儀とはこれ如何、を泥は泥のようにまどろんで泥の夢の中に思索し思い詰めてしまって白昼もそればかりに拘泥し泥んこになっているのである。
例えば夜更けてから床の間でぼた、と散る深紅の花弁。言わずもがな、深紅は血だ。胸襟を開き、証に見せた血潮を凝結したもの。それが覚悟を決め、散る。
例えば悲嘆に凍えた空が散らす、ぼたん雪。想いの証が結晶となり、ほんの1、2秒だけその神秘を垣間見せるのがあわれというもの。睫毛を伏せる間の儚い、もしや幻影だったのではと心搔き乱される、これこそ後追いの美なりや、と泥は身を捩る。雹や霰では頑なに過ぎるし、雨や霙では涙ばかりの、あの、泣き腫らすしか能がない連中と一緒くたにされることに我慢がならない泥の、いたいけな矜持なのだ。尊重されたい、と身悶えている。泥濘にはまりつつ悶えている。
例えば、花吹雪。さくらの。しかし、と泥は怯える。あれは、あのいろは、あのうすももいろは、肉片であることを泥は知悉しているのだ。春の嵐に肉身を薄切りされ、ゆえに千鳥ヶ淵は温いはらわたの生臭さで充満しているというのに、幽玄の大和美を褒めそやすことで蓋をして、気付かぬ振りが尋常ではない。梶井基次郎の功績は文学的感傷(或いは詩情!)の範疇に留置されたままであるし、小町の<わが身世に降る>における泥の革新的解釈も歌壇より事実上の黙殺という憂き目に合っている。
それにしても、酔うている。春の訪れごと、飽くこともなく酔い痴れて、朧月夜にさくら吹雪けば身も心も泥酔となる。はらはら滴り吹き上がって舞い飛ぶうすももいろのもたらす酩酊は、身を犠牲することによってのみ完成されうる、危うげな美だ。
凄絶に、散る。八百屋お七も、泥を吐いたのち花になることに腹を決めた。そして散り続けている。果たして泥は―。彼女らとの間に拡がるばかりの、雲泥の差。世のつれなさをさくらは引き留めることができるだろうか。骸の養分が脈を通じて根から幹、そして枝葉へと吸い上げられてさくらを結び、血肉を散らせることで、後追いの感興をもたらし袖をしとどに濡らすことが。それに、と泥は身構える。二匹目の泥鰌を狙えるとも限らない。覚悟の遺骸が柳に転ずる可能性だって、ある。さすれば風情はあっても散ること叶わず、立ち枯れるばかりだ。ああ、散るには、と泥は煩悶する。
例えばサン・ヴィターレ聖堂のモザイク壁画。鱗のような要素が信仰と歴史の重みでぱらぱらと散る(ユスティニアヌス帝の威厳は保たれたまま)。例えば廃校舎の階段踊り場、場違いに重厚な鏡が寂寞ばかり映すのに耐えかね落下し飛び散る。役目を終えて散る、のも清々しい。人知れずとも、潔く散るならばそれも本望、と泥土に寝そべり泥は叫ぶ。有終の美を泥は希う。汚泥まみれの泥同士の泥仕合にはもう、辟易だ。散っていきたい、凛として。

それにしても―散り方が分からない。ゆえに泥である。依然として泥は泥のまま散れない泥の夢を見て泥のようにまどろむばかりの。
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