エピローグ

　あるところに、野良猫がいました。
　野良猫は、ひとりで生きていました。飢えても、病気になっても、誰にも頼れず生きてきました。
　ある日、野良猫は悪いにんげんに捕まって、命を奪われそうになりました。しかし、それを命がけで助けたやさしいにんげんがいました。
　初めて人のやさしさに触れた野良猫は、かみさまに祈りました。
　ああ、自分はこの人に恩返しがしたい、やさしさを教えてくれたにんげんを今度は自分が幸せにしてあげたい。
　かみさまは猫の願いを聞き届け猫がにんげんに恩返しをするための空間をある街に創造しました。
　その空間では、猫はにんげんの姿に変身することができました。
　猫たちは、ダンスをしたり、とっておきの食事をしたり…にんげんたちを喜ばせようと様々なもてなしをしました。
　その空間はいつしか「絶対領域」と呼ばれるようになりました。
　絶対領域には、にんげんに恩返しをしたい猫たちが毎日代わる代わるやってきてにんげんたちをもてなすようになりました。

「あー。やっと終わったー」
　そう僕は一人で疲れた声を出す。
　社会人になって5年。やっとさっき、土曜勤務から解放され、家へ帰るべく秋葉原駅へ向かっている最中だ。
　今日は7月31日。学生はとっくに夏休みに入り、家族で旅行に行ったり、恋人とデートに行ったりと、まさに青春を謳歌している最中だ。それなのに、社会人はその間もずっと仕事。辛い、ものすごく辛い。
『ブー、ブー』
　スマホのバイブ音が鳴った。僕はカバンの中を漁り、スマホを取り出す。
　メッセージアプリに通知が届いていた。
『来週の日曜日、予定空いてたら一緒に海に行こうぜ！』
　友人の一人である、田中からの遊びの誘いだった。僕は「悪い、他に用事があるから無理だ」と返信する。
　返信して十秒ほどしてメッセージが返ってきた。
『えー、マジか。用事ってなんだよ？』
　この前、言ったはずなんだけどな……
　田中は大学のサークルでできた友人で、結構な頻度で近況を語り合う仲だ。メッセージアプリ上だけでなく、直接会って話し合うことも多々ある。頻度は月に二、三回ぐらいだ。先週も田中の家に集まって雑談をした。確か、その時に話したはず。忘れているのか？
『妹と青森に帰省するんだよ。この前言っただろ？』
『シスコン野郎』
　メッセージを送って一秒もしないうちに返信が来た。あまりにも早すぎる。理由が分かっててわざわざ聞いてきたやつだ、これ。「シスコン野郎」と先に打って僕のメッセージがくる瞬間まで送信ボタン押し待機をする様子が目に浮かんだ。
　田中が僕のことをシスコンだとからかうことはいつものことだ。言われすぎて、もう慣れた。今更それを否定しようとは思わない。それに実際、僕は妹のことが大好きだからだ。
　僕には一人の妹がいる。名前は唯奈。今年の四月に高校二年生になった。今は東京の私立高校に通うために地元の青森から離れ、僕と同居している。季節で変わるヘアスタイルが特徴だ。秋から冬はストレートロング、春から夏は髪をバッサリ切って、ショートボブになる。どっちもものすごく可愛い。吸い込まれそうになるまんまるの目に整った鼻。ぷるんとした唇、なで続けたくなるようなふわふわした黒髪。まだ少し幼さが残る体型も魅力的だ。ちゃんとしているように見えて、たまに見せるドジっぽいところも可愛い。
　要するに、全部が可愛い！　誰に見せても恥ずかしくない、世界一の妹だ。
　　もう一度トーク画面を見ると、メッセージが送られてきた。
『わかってるよ。じゃあ、道中気をつけて行けよ』
　僕はそれに「おう」と返信し、画面を消した。スマホをしまおうとカバンを開く。その時、再びバイブ音が鳴った。
　また田中か？　メッセージアプリってどこで会話を終わらせばいいかわからないんだよな。会話が終わったと思っていたら「既読スルーするな」というメッセージが送られて来ることがたまにある。
　僕はスマホの画面をつける。メッセージアプリの通知だ。だが送信者は田中じゃなかった。唯奈、妹だ。確か、今日は友達と遊ぶと言っていたはず。
『兄さん、仕事お疲れ様。遊んでた友達がバイトに行ったせいで一人になっちゃって。まだ昼ごはん食べてないなら、一緒に食べよ。アキバの駅前で待ってるね』
　メッセージを一目見ただけで、疲れが吹き飛んだ。やっぱり妹には大きな力がある。
　疲れは吹き飛び、足取りは軽い。僕は一歩一歩、着実に秋葉原駅へと歩き出した。