願い

文字数 5,391文字

「……思い出した」
 事故の時の痛み、子猫の毛の色や手触り、そしてその子猫を道路に放った張本人であるあいつらの顔、何もかも思い出した。
 あぁ、そうだ。あの日、ちょうど15年前の今日、僕は車に轢かれたんだ。そして僕はそれ以来友達を作らなくなったんだった。
 かつてドイツの詩人、シラーはこう言った。友情は、喜びを二倍にし、悲しみを半分にしてくれる、と。確かに友達という存在は素晴らしい存在なのかもしれない。友達だけに限らず、恋人や家族にも全く同じことが言えるのかもしれない。
 例えば結婚式。沢山の友人や同僚、親戚が同じ空間に集い、楽しく飲み食いをしたり、歓談をしたりして、喜びを共有する。
 あるいは葬式。これも同じく、沢山の友人や同僚、親戚が同じ空間に集い、他界した人間への悲しみを共有する。
 喜び二倍、悲しみ半分。人は集まって集団となることで、より強く、折れにくいものとなる。
 だが当然、人が集まることが必ずしもプラスに働くわけではなく。マイナスに働くこともあるわけで。
 僕は15年前、それを身をもって体験した。人が群がることで物事の客観視ができなくなること、間違っていることも数の力で無理矢理「正しい」ことにされてしまうこと。
 この出来事が僕に与えた影響は大きい。現に今、こうなっているんだから。友達もいない。彼女もいない。仲の良い同僚もいない。人とのコミュニケーションを最小限に抑えようとする、そんな生き方。15年前の出来事が僕に及ぼした、大きな影響。人生そのものを大きく変えた出来事だ。
 それなのに、そんな重要な出来事だったはずなのに……何故、目の前にいるこの少年に言われるまで思い出せなかった? いや、憶えていたはずだ、ずっと。あの日から一度も忘れたことなんてなかったはず。
 頭に突如激痛が走る。脳の中心からじんじんとくる痛み。痛い、痛い、痛い。何かに殴られたわけでもないのに、この痛みは何だ?
「どうやらキミの記憶の書き換えが少しずつ始まっているみたいだね」
「書き換え?」
 僕は頭を押さえながら問う。頭痛が収まる様子はない。むしろ、どんどんひどくなっていく。
「ボクは猫だった彼女を人間にした。さっきそう言ったよね。その猫がキミに命を助けられた子だというのは今更言うまでもないことだと思うけど。その時、僕は彼女と約束を交わしたんだ。賭けと言ってもいいかもしれない」
 少年は目つきを鋭くして続ける。
「賭けの内容は……『キミが彼女の告白を受け入れて恋仲になるかどうか』さ」
「……」
「15年前のあの日、彼女はキミに一目惚れした。彼女はキミとずっと一緒にいたい、生涯を共にしたい。そう思ったんだ。だから彼女は僕に願ったんだ。キミと彼女が恋仲になればめでたく彼女は完全なる人間へとなれ、なれなければ……彼女は消える、そういう条件でね」
「……消える? どういう意味だ」
「なに、そのままの意味だよ。彼女は消え、この世界から抹消される。簡単に言うと、『いなかった』ことになるのさ」
 さっきからの激痛はそれが原因か。僕の記憶から唯奈に関する記憶が消えようとしているんだ。
 時間の流れがずっと止まっているのもおそらくそれが原因だ。15年前の事件が僕に与えた影響は大きい。僕の人格そのものを変えたといっても過言ではない。僕について言えば記憶の書き換えは、人格の書き換えに等しい。すると当然、書き換えにも時間がかかってくるわけだ。つまり、この経時の停滞は僕の記憶書き換えまでの一時的なもので。僕の記憶、すなわち人格の書き換えが完全に終了すれば……この世界は終わる。彼女が――唯奈がいない世界が作られるのだ。
「まぁ、今のキミに話したところで意味はないんだけど」
 神様は言い捨てるようにそう言うと、僕に背中を向ける。
「それじゃあ、ボクはそろそろお暇しようかな。そもそもボクはキミの書き換えが正常に行われているか、確認しに来ただけだからね。それじゃあ、さようなら」
「……おい、ちょっと待て」
 気が付けば、僕は神様を呼び止めていた。
「何だい?」
「何故、彼女を人間にしたんだ」
「何故か? もしかして、ボクに遠回しに文句を言っているのかい? それは心外だな。彼女が望んだからボクはそうした。ボクに全く非はないのに」
「僕が聞きたいのはそういうことじゃない。何のメリットがあって彼女を人間にしたか、と聞いているんだ」
 本来、賭けというものは互いに何らかしらのメリットがあって初めて成立する。唯奈のメリットは人間になれること。
 ……それじゃあ、こいつのメリットは? 確かに彼にデメリットはない。でも、それと同様にメリットも存在しないのだ。
「別に話してあげてもいいけど。さっきも言った通りもうキミに話したところで意味は……」
「いいから話せ」
 分かっている。今、何を聞いたところでこの世界が終わるのは決定事項だ。何も変わりはしない。それでも、たとえ忘れてしまうとしても、とにかく聞きたかった。
「……バランスさ」
「バランス?」
「キミは『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』という言葉を知っているかい?」
 もちろん知っている。世間の常識だ。簡単に言うと、人は生まれた時点では皆平等である、という意味で、福沢諭吉が「学問のすゝめ」で言った言葉だったはず。
「この言葉は誤解されがちなんだけど、実際は福沢諭吉は『人の世は平等だ』とは言っていないのさ。本当は『人は生まれた時は皆平等だけど、それからどうなるかは学問に励んだか、励まなかったかで決まる』と言いたかったんだ」
「それで、何が言いたい?」
「つまり生き物は少なくとも、生まれた時点では全員平等じゃないといけないのさ。人だけじゃなく、犬も豚も羊も猫も、みーんなね。ボク、神という存在はそのバランス調整をする役割なんだ。これが結構難しくてね。たまに失敗することがあるんだ」
「……」
「彼女がそうだった。彼女の人生は生まれた瞬間からお先真っ暗。親猫は彼女が生まれて間もなく亡くなり、ひとりになった。他の大人の猫に助けを求めるも、誰も助けてくれなかった。彼女は路頭に迷った。食べられるものを探そうと、ありとあらゆるゴミ箱を漁って必死に生きようとした。そしてある日、十分な食べ物が得られず、意識を朦朧としながら裏路地を歩いている途中で……」
「あいつらに捕まったのか」
「……ああ、そうさ。そしてキミが彼女を助けた後、ボクは彼女を発見したわけだ」
「それから、バランスを取るために彼女を人間にした、と」
「……」
 突然の沈黙。神様は俯きながら黙る。
「どうした。何か間違ってるか?」
「い、いや……」
「何だよ?」
「……確かにキミの言う通りだ、半分はね。それじゃあ、まだバランスがまだとれていない、そう思ったからボクはもう少しだけ手を貸した。具体的には資金援助、住む場所の提供、勉強の指導とかね」
 確かに必要不可欠だ。人間として生きていくなら避けられない……でも、何かが引っかかる。何かが腑に落ちない。何なんだ、この引っ掛かりは。
「まぁ、手を貸すと言っても必要最低限にしたけどね。あまり手を貸しすぎると『バランス』が崩れるから」
 バランスという言葉を妙に強調してくる。違和感の原因はそれか? いや、少し違う気がする。全く違うとは言えないけど、正解とも言えない。中らずと雖も遠からず、そんな感じだ。
 考える。ズキズキ痛む脳をフル回転させて考える。この違和感は何だ?
 痛い、痛い。脳を使おうとすればするほど、それを妨害しようとするように激痛が襲う。それでも考える。
 ふと、唯奈のある発言が脳をよぎった……これだ。
「あんたの言いたいことは大体分かった。でも、たった1つだけまだ分からないことがある。聞いてもいいか? ……あんたは彼女のことをどう思ってるんだ?」
「どう思っているか? そうだね。ボクのせいで苦労をかけたことに関しては申し訳ないと思っているよ」
「それ以外にはどうも思っていないのか?」
「あぁ。ボクはバランサーだからね。誰かに特別な感情を持つなんてありえない」
 やはり、異常なほどにバランスを強調してくる神様。僕の予想の信憑性が上がった。
「これはあくまで僕の勝手な想像だけど」
 そう前置きしたうえで、僕は続ける。さっきの神様の発言から感じた違和感はきっとこれだ。僕はその正体を口にした。
「……もしかして、あんたは彼女をまるで娘のように思っていたんじゃないのか?」
「……」
 沈黙。反論をするそぶりも見せない。
「彼女、あんたから貰ったストラップ、すごく大事にしてたよ」

『実はこれ、私がまだ小さかった頃にお父さんからもらったもので。すごく大切にしてるんです』

「ストラップの本来の色が落ちて黒ずむまでずっとつけてた。あんたが彼女のことをどう思ってたかは知らないけど、少なくとも彼女はあんたのことが大好きだったみたいだぜ」
 人格は育ってきた環境や家庭での教育の仕方に影響する。唯奈が明るくて、元気いっぱいで、食いしん坊で、あざとい(これに関しては天然の可能性があるが)に育ったのはきっと、彼から沢山の愛情を注がれて育ってきたからではないだろうか。僕はそう思った。
 あのストラップがその証拠だ。小さい頃にもらったストラップをずっと大事に持っておくなんて、並大抵の気持ちじゃ出来るわけがない。唯奈はきっと言葉じゃ言い表せないくらい、神様のことが大好きだったはずなんだ。
 もちろん、僕は実際に唯奈と彼がどんな生活を送ってきたのか、全く知らない。もしかしたら、これは僕の単なる思い込みで、事実とは全然違っているのかもしれない。だけど。
 「何なんだよ!? だから『バランス』だって言っているだろう!? バランスだよバランス! キミにボクの何がわかるっていうんだ!」
  彼の発言でその確率はほぼゼロになった。
 何か言われて異常なほど感情的になるのはたいてい図星の場合か、事実と全然違う場合の2通りに分けられる。
 ただし、後者のケースは限定される。後者の場合に感情的になるのは「そう判断されるのがよっぽど嫌な場合」だ。小学校の時のことを思い出してもらえれば分かりやすいと思う。どの学校にも「Aさんって、B君のことが好きらしいよ」という、根も葉もない噂を流す奴がいたはずだ。その噂を聞いたAさんが「はぁ? 私がBのことなんて好きなわけないでしょ。あんな気持ち悪いの、誰が好きになるわけ?」と、本気で拒絶する、あれだ。
 彼が「バランス」をどれほど大切にしているかは知らないが、今回の場合は後者のケースではない気がする。おそらく前者だ。
「キミが何と言おうが、ボクが彼女を人間にしたのは『バランス』だ! 彼女を人間にしたのは彼女が僕のバランス調整のミスで辛い人生を歩ませてしまったからだ!」
「わかったわかった。僕が悪かった。本当にすまない」
 これ以上どうこう言っても無駄だ。彼は頑なにバランスを主張し続ける気らしい。
 彼の気持ちはおおよそ理解できた。だから僕は追及をやめて彼のバランス主義に乗ることにする、僕の望みを叶えてもらうために。
「それなら僕の願いも聞いてくれないか?」
「……キミは何を言っているんだい?」
「神様、あんたの不注意で彼女はあいつらに殺されそうになった。逆に言えば、あんたがちゃんと『バランス調整』ってやつをしていたらそうならなかったってことだ。僕が彼女をかばって事故に遭うこともなかった。つまり、僕が事故に遭ったのは神様、あんたのせいなんだよ」
 あまりに自分勝手で、論理も破綻していることは分かっている。彼女が捕まらなかったからと言って、僕が事故に遭わなかったとは限らない。他の野良猫が捕まって同じ結果になった可能性だって十二分にある。
 それでも、それが分かっていても、こうするしかない。僕の願いを聞き遂げてもらうため、そして神様の建前に隠された本当の望みを叶えるためにはこうするしかないのだ。無理矢理にでも何か理由をつけて、「バランス」を取らせる。もしかしたら、もっと良い選択もあるのかもしれない。でも、もう時間がないんだ。
 僕は神様の目をじっと見つめる。
「……確かにそう言われてみればそうだね。キミが事故に遭って今みたいな性格になったのは僕が悪い。『バランス』を取らないとね。キミの望みはなんだい? もちろん彼女同様、条件付きだけど」
 神様は僕の意図に気づかない「ふり」をして答える。さぁ、あとは願いを口にするだけだ。
 唯奈は僕を好きだと言ってくれた初めての女の子だった。正直、心の底から嬉しかった。
 もちろん、僕は彼女のことをこれっぽっちも知らない。趣味も、好きな食べ物も、嫌いな食べ物も、ほとんど何も知らない。でも、それでも、僕は今日一日で彼女に興味を持ったんだ。もっと彼女のことを知りたい。ずっと一緒にいたい。
 ……でも、僕が抱いた「好き」は彼女と違う。恋愛感情とは全く別のものだ。だから、僕は神様にこう祈ろう。彼女の好意を無下にする最低の行為で、あまりにも自己中心的な願いだけど。
「僕の望みは……」
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登場人物紹介

米谷


 25歳会社員。昔、とある出来事があったせいで友達・恋人共にゼロ。

 仕事尽くしの人生に癒しを求めている。

唯奈


 アキバ絶対領域で働いている女子高生。

 主人公に思いを寄せるがその正体は……

真緒


 唯奈のバイト仲間。唯奈のことが大好きで、唯奈に彼氏ができるのを恐れている。

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